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第24話 境


   三十


 筑紫では、もう兵が地の上に見えはじめていた。


 まだ二万余が一ところに立っているわけではない。

 されど、道の上を切れ目なく下ってくる人馬と、

 里ごとにふくらんではまた先へ送られる荷とを見れば、

 もう朝がここまで来ていることは、誰の目にも明らかであった。


 空は高かった。

 大和を出たころの低い曇りとは違う。

 海の光が遠くで白く立ち、

 風は乾いているのに、どこか塩を含んでいた。


 鎌足は、川瀬の少し後ろに馬を進めていた。


 ここへ来るまでに、もう幾つもの顔を見た。

 河内で厚くなった境部の軍。

 難波で船手を加えた波多の手。

 吉備で人足と荷駄を増した近江の軍。

 どの軍も、根の地を出たときの顔と、道の上での顔とが違っていた。


 だが、まだ一つではなかった。


 旗は別であり、

 ことばも別であり、

 馬の並べ方も、

 荷の積み方も、

 夜の火の囲み方も、

 なおそれぞれの氏の癖を残していた。


 筑紫へ入る道のあたりで、鎌足は初めて、

 御食子の言ったことの半ばを、土の上で見た気がした。


 結地までは、まだ諸氏の兵である。


 そのことばのとおりであった。


 昼近く、一行は第一の結地へ入った。


 那大津の手前、

 海をまだ正面には見せぬ場所である。

 低い丘と湿った草地とがあり、

 そのあいだに、仮に打たれた杭と縄とで道筋が分けられていた。


 兵は、もう多かった。


 平群の馬がいる。

 近江の荷駄がいる。

 物部の弓手がいる。

 波多の船手がいる。

 大伴の若い兵がいる。

 境部の旗も立っていた。


 だが、見ればすぐ分かった。


 同じ方向を向いていても、

 まだ同じ軍にはなっていない。


 平群の兵は馬のまわりに集まり、

 物部の兵は武具の置き場を先に気にし、

 波多の手は、風向きと海への道を先に見ていた。

 境部の軍は、数のうえでは大きく見えたが、

 その厚みの底に、河内と難波で加わった別の手がなお残っていた。


 鎌足は馬を下りた。


 川瀬は、それを咎めなかった。

 ただ、勝手に歩き出さぬよう、ひと目で押さえた。


 見ておけ


 それだけ言った。


 鎌足は、しばらく黙ってその場を見ていた。


 兵の声。

 馬の息。

 革のこすれる音。

 槍の石突が土を打つ音。

 干し飯を分ける声。

 水桶を運ぶ人足の息。


 どれも別々である。

 だが、その別々のものを、ここで一つに変えねばならない。

 それが結地というところなのだと、鎌足には思われた。


 その夕刻、川瀬は第二の結地へ向かう順を見ていた。


 那大津の外れである。

 ここから先は、海へ近すぎる。

 ゆえに、すべてを一度に浜へは見せない。

 先に入る軍。

 まだ第一の結地に置く軍。

 浜へ下ろす荷。

 奥に抱える粮。

 それらが、もう細かく分けられていた。


 鎌足は、そのそばで、ふと疑いが胸に上がるのを覚えた。


 なぜ蝦夷は、自分をここへ出そうと言い出したのか。


 ただ見せるためだけか。

 それとも、別の思いがあるのか。


 その夜、火は低く焚かれていた。

 兵の火は遠くあちこちに見えたが、

 川瀬のいるところだけは、声がひどく低かった。


 鎌足は、思い切って川瀬に問うた。


 川瀬どの


 何だ


 なぜ蝦夷どのは、わたしの帯同を言い出されたのでしょう


 川瀬は、すぐには答えなかった。

 焚火の向こうで、火の先だけを見ていた。


 見せるべきと見たのであろう


 それだけでございますか


 それで足りぬか


 川瀬の声は低かった。


 鎌足は返せなかった。


 川瀬は続けた。


 おぬしは、真根どののそばで簡を見てきた

 鹿嶋の返しも見た

 諸氏の兵が、まだ諸氏の兵であるところも、これから御座の兵へ変わるところも見ておる

 ゆえに見せるべきと見た

 それで足りよう


 だが


 鎌足がなお言いかけると、川瀬は火から目を上げた。


 知っておることを、みな口にする人ばかりではない


 それ以上は言わなかった。


 その言い方が、かえって鎌足の胸に残った。


 知っていても言い切らぬ。

 それが川瀬であることを、鎌足はもう知っていた。

 ゆえに、その夜はそれで退いた。


 翌朝、国子が第一の結地へ来た。


 軍の顔を見、

 将たちの列を見、

 第二の結地へ進める順をあらためて確かめるためであった。


 国子は、来るなり境部の軍を見た。

 ついで波多の手を見た。

 それから川瀬と短くことばを交わし、

 最後に鎌足のいる方へ目を向けた。


 その折を見て、鎌足は進み出た。


 国子どの


 何だ


 お尋ねしたきことがございます


 国子は、すぐには答えず、少し歩みをゆるめた。

 人の耳の届きにくいところまで来てから、ようやく言った。


 申せ


 蝦夷どのが、わたしの帯同を言い出されたのは、なぜにございますか


 国子は、鎌足をまっすぐには見なかった。

 前方の、まだ整いきらぬ兵の列を見ながら答えた。


 川瀬に問うたか


 は


 何と申した


 見せるべきと見たのであろう、と


 国子の口元が、ほんのわずかに動いた。

 笑ったのではない。

 川瀬らしい返しだと思ったのであろう。


 それは誤りではない


 それだけではないのでございますか


 国子は、しばらく黙っていた。


 やがて言った。


 蝦夷どのにも、腹はあろう


 鎌足は息をひそめた。


 そちを、この軍のうちへ置いておきたい

 中臣の子を、蘇我の進める軍の手の内で見させておきたい

 そのようなことは考えよう


 鎌足は顔を上げた。

 その言い方には、怒りも嘲りもなかった。

 ただ、政の理をそのまま言っている響きがあった。


 では


 それだけではあるまい


 国子は、そこで初めて鎌足を見た。


 兄者が、そちをただ座敷に置いておいたのではないことを、

 蝦夷どのも見ておる


 兄者は、そちに簡を見せ、

 鹿嶋の返しを見せ、

 箸墓へも行かせた

 ただ可愛がっておられたのではない

 見せておられたのだ


 ゆえに蝦夷どのは、

 兄者の意がどこにあるかを先に汲み、

 そのうえで自らの腹にも合うように、

 そちをここへ出したのであろう


 鎌足は、しばらくことばが出なかった。


 兄者の意を先に汲む。


 それは、御食子が病んで床にあるからこそ、

 なお重いことであった。


 国子は続けた。


 蝦夷どのは、兄者のあとに何が残るかをよく見ておる

 兄者ご自身のことだけではない

 兄者が誰に何を見せ、何を残そうとしておるかまで見ておる


 それゆえ、先に言い出したのだろう


 そして少し間を置いた。


 ただし


 は


 蝦夷どのの腹が、それだけ清いとまでは思うな


 鎌足は頭を下げた。


 は


 人は、兄者の意を汲む

 だが、汲んだその意を、自らの手のうちでも使う

 政とは、そのようなものだ


 そのことばは、短かった。

 だが鎌足には、深く残った。


 御食子の意。

 蝦夷の腹。

 自分の帯同。


 それらは別々ではなく、

 一つのことの中に重なっているのだと、ようやく分かった気がした。


 国子は、そこでことばを切った。

 だが去りはしなかった。


 かわりに、結地の方を見て言った。


 見よ


 鎌足もまた、そちらを見た。


 境部の軍が入ってくるところであった。


 河内で立ち、

 難波で厚くなり、

 さらに道の上で人を加えた軍である。

 旗は境部である。

 だが、近くで見れば、その列の厚みの底に、難波で加わった蘇我の兵があることが分かった。


 足の運びが違う。

 槍の持ち方が違う。

 だが、いまは同じ列に入れられつつある。


 国子が言った。


 あれが、蝦夷どののしておることの一つだ


 境部の名で立て、

 蘇我の兵で厚みを支える


 されど、見えるのは境部の軍だ


 鎌足は黙っていた。


 国子はさらに言った。


 そちをここへ置くことも、少し似ておる

 見えるのは、御食子の意を受けて見に来た中臣の子だ

 されど、その見える形の下に、

 蝦夷どのの思いもまた入っておる


 鎌足には、その重なりが急に生々しく感じられた。


 自分はただ連れて来られたのではない。

 誰かの意の中に置かれている。

 しかも、その意は一つではない。


 そのとき、第二の結地へ進む合図が出た。


 兵は、少しずつ列を変えはじめた。


 さきほどまで氏ごとに固まっていたものが、

 ここでは、船に近い手、

 荷に付く手、

 まだ奥に残す手、

 伝令に回す手、

 と分けなおされてゆく。


 平群の兵が、物部の兵の後ろへ入る。

 波多の船手が、大伴の若い兵の前を横切る。

 境部の軍の中へ、蘇我の兵がさらに深く混じる。

 中臣の継ぎの手が、そのあいだを絶えず走る。


 鎌足は、それを見ていた。


 ここで、諸氏の兵はまだ諸氏の兵である。

 だが、そのままではもう保てない。

 ゆえに並べ替えられる。

 役を変えられる。

 名は残しながら、手の向きだけが変えられてゆく。


 それが、御食子の言った境なのだと、鎌足には思われた。


 どこでまだ諸氏の兵であり、

 どこから御座の兵になるか。


 その境は、ことばで引かれているのではない。

 いま目の前で、人と馬と荷の順を変えることによって引かれていた。


 国子は、鎌足の横で低く言った。


 見えたか


 まだ少ししか


 少しでよい


 国子は言った。


 全部見えたと思うようになれば、かえって誤る


 そのことばは、どこか真根に似ていた。

 だが、真根よりもっと冷たく、もっと先を見ているようであった。


 夕方になるころ、那大津の方から潮の匂いが強くなった。


 船が入ってきているのであろう。

 浜では、もう別の順が始まっているに違いなかった。


 川瀬が遠くで人を割って歩いていた。

 境部雄摩呂は、列の乱れを見ていた。

 物部依網乙等は、馬具の傷みを見ていた。

 波多広庭は、浜へ下ろす順を見ていた。

 近江脚身飯蓋は、人足の疲れを見ていた。

 平群宇志は、馬の替えどきを見ていた。


 皆、それぞれ違うものを見ている。

 だが、その違う目どもが、なお一つの軍を作ろうとしている。


 鎌足は、そのことに胸を打たれた。


 兵とは、ただ数ではない。

 将の名でもない。

 諸氏の誇りだけでもない。


 それぞれ別の理を持つものを、

 なお一つの手として見せつづけること。


 それが、いま目の前にある軍の正体なのだと、前より深く分かった。


 日が落ちると、火がまた低く打たれた。


 夜の結地は、昼よりもなお奇妙であった。

 声は低い。

 だが、地の上には二万余へ向かう人の気が満ちている。

 まだ全部は見えぬ。

 されど、見えぬまま、そこにある。


 鎌足は、その夜、自分の小さな荷のそばに坐っていた。


 御食子の意を先に汲んだ蝦夷。

 そのうえで自らの腹も入れた蝦夷。

 それを見抜いて、しかも止めぬ国子。

 何も言い切らず、それでも自分をここまで連れてきた川瀬。


 誰の思いも、一つではない。

 だが、その一つでなさが、いまの朝を動かしている。


 そう思ったとき、鎌足には、朝というものがまた少し違って見えた。


 朝とは、ただ正しい意で立つものではない。

 重なりあう別々の意を、

 なお崩れぬ形にして前へ送ることなのかもしれなかった。


 夜の海風が、ようやく結地まで届いた。

 だが、その風も、兵を軽くはしなかった。



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