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第23話 鎌足帯同


   二十九


 将の名が定まり、諸氏の割りが下り、結地へ向かう日限まで置かれると、小墾田宮の内では、人の足音の質がまた少し変わった。


 急いている。

 だが、騒いではいない。


 騒げば、兵が立つより先に、人の心の方が立つ。

 そのことを、宮の内の者どもは、もう骨のうちで知っているらしかった。


 鎌足は、その日も真根のそばにいた。


 真根の前には、諸氏より戻りはじめた返しの簡が積まれていた。

 兵の数。

 馬の数。

 槍の数。

 弓の数。

 人足の数。

 そして、どこで兵を増し、どこで馬を替え、何日までに第一の結地へ入り、何日までに第二の結地へ進むか。


 どれも同じ命への返しでありながら、同じ顔はしていなかった。


 平群には平群の道があり、

 近江には近江の雨があり、

 物部には物部の鉄があり、

 波多には波多の海があり、

 境部には境部の名があり、

 その背には蘇我の兵があった。


 鎌足は、それらを一つずつ見ていた。


 そのとき、戸口の外に人の気配がして、川瀬が入ってきた。


 顔に疲れはあった。

 だが、足は乱れていなかった。

 乱れておらぬのに、いつもより幾分か、目の奥が深く見えた。


 真根が顔を上げた。


 どうだ


 兵は立ちます


 川瀬は答えた。


 されど、立つ兵と、すぐ働く兵とは違います

 結地までは、それぞれの氏の兵にございます

 結地より先、御座の兵に変わるまでが難しゅうございます


 真根は短くうなずいた。


 さようであろうな


 川瀬はそこで、初めて鎌足を見た。


 おぬし、まだここにおるか


 は


 鎌足が答えると、川瀬はそれ以上は何も言わなかった。

 だが、その目つきには、前より少し違うものがあった。

 ただそこにいる子を見る目ではなく、すでにこの子もまた、何かの順のうちに入っていると見る目であった。


 昼近く、蝦夷が来た。

 そのあとから国子が入り、さらにしばらくして川瀬が呼び戻された。


 真根は筆を止めた。

 鎌足もまた、身を正した。


 蝦夷が言った。


 結地までの道筋は、おおかた立った

 だが、なお一つ足らぬ


 国子が問うた。


 何が


 見る目だ


 そのことばに、鎌足は思わず顔を上げた。

 だが、誰もそれを咎めなかった。


 蝦夷は続けた。


 諸氏の兵は、それぞれの根の地で立つ

 道の上で増す

 結地にて初めて一つに見せる

 それを、ただ兵の数としてだけ見て戻るのでは足りぬ


 国子は黙っていた。


 蝦夷は、真根の前に積まれた簡をひと目見た。


 この子は、ここまで見てきた

 真根どののそばで、簡の流れを見てきた

 鹿嶋の返しも見た

 箸墓より戻ってからは、なお今の朝の手つきの違いを見ておる


 国子の目が、そこで初めて鎌足へ向いた。


 鎌足は、身のうちが急に熱くなるのを覚えた。

 自分のことを言われていると分かっても、すぐには信じられぬ気がした。


 蝦夷はさらに言った。


 結地へ向かう軍に、この子を帯同させよ


 部屋が静まった。


 真根は顔を上げなかった。

 だが、筆は止まっていた。

 国子はすぐには答えなかった。

 川瀬もまた、黙っていた。


 最初に口を開いたのは国子であった。


 幼すぎます


 蝦夷は、すぐには返さなかった。

 少し置いてから、静かに言った。


 幼い、と申す者もあろう


 その声は高くなかった。

 だが、その低さのうちに、人を押し返す力があった。


 されど、上宮皇子は、丁未の折、幼くして一軍の将。

 鎌足は、別に将たるわけではなかろう


 国子は黙った。


 蝦夷は続けた。


 槍を執らせよと申すのではない

 軍のうちにあって、

 人と馬と簡とが、いかに朝の手となるかを見せよと申しておる


 この子は、真根どののそばで簡を見てきた

 鹿嶋の返しも知っておる

 諸氏の返しが、それぞれの土の理を帯びながら、なお一つの兵へ束ねられてゆく、その骨を見ております


 ただ幼いというだけで、退けるには及ぶまい


 そして、ほんの少し間を置いた。


 なにより、御食子の君がここにおわして強く起きておられたなら、

 見て来いと申されたであろう


 その最後の一言は、部屋のどこへ落ちたのか分からなかった。

 だが、落ちたところから、静けさがいっそう深くなったように鎌足には思われた。


 国子は、しばらく何も言わなかった。

 やがて低く言った。


 御食子兄者のことを、軽々には申せませぬ


 蝦夷はうなずいた。


 申してはおらぬ

 されど、ここまでこの子を見せてきたのは、そちの兄者であろう


 国子はなお黙っていた。


 川瀬が、そのとき初めて口を開いた。


 足手まといにはいたしませぬ


 皆の目が川瀬へ向いた。


 川瀬は、少しも引かなかった。


 前へは出しませぬ

 置くべきところへ置きます

 道の上では、兵の列に混ぜぬ

 将のそばに近づけすぎもせぬ

 されど、結地までの道、結地のうち、諸氏の兵が御座の兵に変わるところは見せられます


 国子が問うた。


 おぬしが引き受けるか


 川瀬は答えた。


 引き受けます


 その返しには、飾りがなかった。

 だからこそ重かった。


 真根が、そこで静かに言った。


 見て来たものは、戻ればことばになります


 誰もすぐには応じなかった。


 真根はさらに言った。


 この子は、まだ理を立てる齢ではありませぬ

 されど、今のうちに見たものは、のち、簡の骨を見る目になります


 国子は、ようやく長く息を吐いた。


 おぬしらは、この子をどこまで見せるつもりだ


 蝦夷が答えた。


 第一の結地まで

 ついで、第二の結地まで

 その先、渡海の折は、まだ見てからにいたしましょう


 川瀬が言った。


 結地まででも、見るものは多うございます

 各氏の兵がどの顔で寄るか

 寄ったものが、どのように一つの名の下に並べ替えられるか

 兵はそこにて初めて兵に見えます


 国子は、鎌足の方を見た。


 行きたいか


 あまりにまっすぐの問いであった。

 鎌足は、一瞬ことばを失った。


 行きたい。

 だが、それはただ見たいということではない。

 自分が今ここでそのように問われていることの重さが、先に胸へ落ちていた。


 鎌足は、坐り直して頭を下げた。


 参りとうございます


 国子は、なお鎌足を見ていた。


 何を見たい


 鎌足は、すぐには答えられなかった。

 だが、答えぬままではならぬと思った。


 諸氏の兵が、御座の兵になるところを見とうございます


 ことばにしたとたん、自分でも胸の底が少し震えた。

 それが今の自分に言える最も正確なことばであるように思えた。


 国子の目が、わずかに動いた。


 それだけか


 鎌足は、さらに言った。


 それが、今の朝の手つきの一つと思われます

 見て戻り、のち、忘れぬようにしたくございます


 長い沈黙があった。


 その沈黙のあいだ、鎌足は頭を下げたまま動かなかった。

 動けば、いま口にしたことばの軽さが露わになる気がした。


 やがて国子が言った。


 よかろう


 鎌足は、思わず顔を上げかけ、すぐまた伏せた。


 されど


 国子は続けた。


 兵ではない

 将でもない

 御座より遣る目として行け


 は


 川瀬の下に置く

 川瀬の許しなく、列を離れるな

 問われぬことを口にするな

 見たことをその場で評するな

 まず見よ

 戻ってから申せ


 鎌足は深く叩頭した。


 蝦夷が低く言った。


 それでよい


 真根は、もう筆を取っていた。


 鎌足帯同。

 川瀬に付す。

 結地まで見せるべし。


 そのような骨を、もう別の控えへ落としはじめているのであろうと、鎌足には分かった。


 その日の夕刻、御食子の寝所にも、このことは上げられた。


 御食子は床にあった。

 火は明るくない。

 咳は昼より少し鎮まっていたが、顔の色はまだ薄かった。


 国子が言った。


 鎌足を、結地まで伴います


 御食子は、すぐには答えなかった。

 鎌足は戸口の内で膝をついていた。

 頭を下げたまま、息の浅くなるのを抑えていた。


 やがて御食子が言った。


 そうか


 それだけであった。


 だが、その二文字が、許しであることは鎌足にも分かった。


 国子は続けた。


 川瀬に付けます

 前へは出しませぬ

 見るべきところのみを見せます


 御食子は、目を閉じたまま答えた。


 よい


 それから、少しの間を置いて続けた。


 見て来い


 鎌足は、そのことばに深く頭を下げた。


 御食子はさらに言った。


 諸氏の兵が、どこでまだ諸氏の兵であり、

 どこで御座の兵になるか、

 その境を見失うな


 は


 鎌足は声を震わせぬように答えた。


 御食子は、それ以上は何も言わなかった。

 だが、その沈黙のうちに、これがただの許しではないことが、鎌足には分かった。


 見よ。

 見て戻れ。

 そして、のちに忘れるな。


 そう命じられたのであろう。


 寝所を出ると、空はもう暮れかけていた。

 廊の外では、なお川瀬の配する足音が絶えず、

 真根の前では、なお簡が走りつづけているはずであった。


 兵は、まだ結地へは集まりきっていない。

 だが、もう諸氏の根の地では立ち、

 道の上で増し、

 結地へ向けて日ごと厚くなりつつある。


 その中へ、自分も行く。


 鎌足には、それがただ軍を見ることとは思われなかった。


 今の朝が、

 どのようにばらばらの手を一つの手に見せるか、

 その最も重いところへ、自らの目を入れにゆくのである。


 翌朝から、鎌足のまわりでも小さな支度が始まった。


 旅装は重くない。

 だが軽すぎてもいけない。

 道中の控えを入れる小箱。

 雨に備える薄い覆い。

 乗り替えのときにもすぐ持てるようにした小さな荷。


 川瀬がひとつずつ見た。


 多い


 は


 削れ


 鎌足は黙って一つ除けた。


 まだ多い


 さらに除けた。


 それでよい


 川瀬は言った。


 おぬしは兵ではない

 重くしてはならぬ

 されど、ただの子として連れてゆくのでもない


 鎌足は、そのことばを覚えた。


 ただの子としてではない。


 その一言が、嬉しいのか怖ろしいのか、自分でもまだよく分からなかった。


 出立の日限は、まだ二日先であった。

 だが、その二日のあいだにも、諸氏からの返しはなお戻り、

 難波へ向かう使いは絶えず、

 筑紫へ先に下る者どももまた、順に宮を出ていった。


 鎌足は、そのすべてを前より深く見ていた。


 自分がその流れの外にいるのではなく、

 いまや、その流れの端に、自らの足を置いているのだと知ったからであった。


 夜になると、低い空の下で風が少し立った。


 だが、その風も、朝を軽くはしなかった。


 将が定まり、

 諸氏の割りが定まり、

 結地へ向かう日も定まり、

 そして鎌足の帯同もまた定まった。


 朝は、決めぬことで保っていたところから、

 決めたものを崩さぬために、さらに別の手を要するところへ、

 また一つ進んでいた。



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