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第21話 勝てるか


      二十七


 将の名が、まだ定まっていなかった。


 兵を発することは、もう決していた。

 筑紫へ寄せる分も、

 対馬へ回す分も、

 難波より出す船も、

 鹿嶋より残す手も、

 みな、すでに動きはじめている。


 だが、誰の名でそれを束ねるかは、まだ座の上に置かれていなかった。


 小墾田宮の空は低かった。

 雨にはならぬ。

 されど晴れきってもいない。

 庭の上に、ひどく薄い曇りがひろがり、その下を人の足音だけが絶えず渡っていた。


 鎌足は、その日も真根のそばにいた。


 真根の前には、まだ名の入らぬ簡があった。

 兵を発す。

 筑紫に備う。

 海の道を保つ。

 その骨だけは、すでに書かれている。

 だが、肝心のところが空いていた。


 誰を大将とし、

 誰を副将とするか。


 真根は、そこだけは筆を入れていなかった。


 昼近く、蝦夷が来た。


 父に似て、足音は高くない。

 だが、戸口に立つだけで、そこに別の重さが加わる。

 そのあとから国子が入った。

 さらに少し遅れて、境部雄摩呂が来た。


 雄摩呂は、鎌足の知らぬ男ではなかった。

 名だけは、これまでにも幾度か聞いている。

 河内にて人を束ねること、

 兵を立てれば列の乱れをすぐ見抜くこと、

 若いころより道の上で働いてきたこと、

 そのようなことが、川瀬や外の者どものことばの端に出ていた。


 近くで見ると、肩が張っていた。

 だが、それだけではない。

 腰に帯びた刀の位置が、座るときにも少しもぶれぬ。

 板敷へ膝をつく前に、無意識に右の裾を払う。

 それは、ただ衣を整える手つきではなかった。

 身に添う武具が、邪魔にも、重みの誇りにもならぬよう、長く馴らしてきた者の手つきであった。


 ことさらに威を作らぬ。

 だが、引いてもいない。

 黙って立っているだけで、もともと人の先へ出ることに馴れた者と知れた。


 真根は立って礼をした。

 鎌足もそれにならった。


 蝦夷が言った。


 父上はのちほど来られる

 その前に、名をおおかた詰めておけとのことだ


 真根は、まだ名のない簡を静かに前へ出した。


 雄摩呂がそれを見た。

 国子も見た。

 蝦夷は見ながら、しばらく何も言わなかった。


 最初に口を開いたのは雄摩呂であった。


 名は、軽く置けぬな


 国子が答えた。


 軽く置けば、のちに兵が軽くなります


 雄摩呂は、わずかに目を動かした。


 兵ばかりでもあるまい


 その一言で、この場にあるものが、ただの軍議ではないことがはっきりした。


 将の名とは、戦のための名であるだけではない。

 その名のうしろにある氏、

 その氏の面目、

 その氏に積もる功、

 その功がのちに朝のどこへ残るか、

 そこまで含めて置かれる名である。


 蝦夷が低く言った。


 大将は二つに置くほかあるまい

 境部雄摩呂

 そして中臣国子


 鎌足は、その名が出たとたん、部屋の空気が少し変わるのを感じた。


 国子は顔を動かさなかった。

 だが、まったく動じていないわけでもないらしかった。

 沈黙が、いつもよりほんの少し深かった。


 雄摩呂が言った。


 国子どのは、外の急を最も強く押してこられた

 名を負う筋は立つ

 わたしも異はない


 蝦夷が続けた。


 雄摩呂どのが並べば、軍の形も立つ

 中臣だけでは、兵の上に見えぬ

 境部が並べば、押し出しがつく


 真根は、その二つの名をまだ書かなかった。

 ただ、筆を持ったまま待っていた。


 そのとき、戸口の外に気配があり、嶋大臣が入ってきた。


 誰もすぐにはことばを発しなかった。

 大臣は病んではおらぬ。

 だが老いは隠せぬ。

 それでも、その人が坐すと、場の骨が一つ定まる。


 大臣は、簡を見た。


 雄摩呂

 国子


 それだけ言って、しばらく黙った。


 やがて言った。


 よかろう


 真根が初めて筆を入れた。


 大将軍、境部雄摩呂。

 大将軍、中臣国子。


 筆の音が、ひどく小さく聞こえた。


 大臣は続けた。


 副将は散らせ

 一つの手に寄せるな


 蝦夷が名を置きはじめた。


 河辺禰受。

 物部依網乙等。

 波多広庭。

 近江脚身飯蓋。

 平群宇志。


 ここで雄摩呂が、ひとりずつを見た。


 河辺禰受は、河内より兵を寄せることに慣れた男である。

 人数を立てるだけでなく、寄せた兵を列のまま道へ出すことを知っている。

 戦う前に、まず乱れぬことを知る副将であった。


 物部依網乙等は、武の側の現実を代表する男であった。

 弓を見、槍を見、馬具の傷みを見て、足りるか足りぬかを言う。

 勝つ理より先に、折れるか折れぬかを申す類の人である。

 

 波多広庭の名が置かれるとき、雄摩呂はわずかにうなずいた。


 海の向こうのことばに通じ、

 渡来の手どもがどこで詰まり、どこで動くかを知る。

 船があることと、船が働くこととが違うように、

 人がいることと、その人が倭の名のもとで動くこととが違うのを知る男である。

 海路と人の継ぎとを見ている者が一人要った。


 近江脚身飯蓋の名が出ると、蝦夷が言った。


 この者は地を知る

 兵が通るとき、どの里が痩せ、どの郡が耐えるかを見られる


 飯蓋は、ただ武辺の男ではなかった。

 道の途次で、どこまで人と粮を立てられるか、

 地方の負いがどこで重くなりすぎるかを見られる者であった。

 兵を前へ出すには、後ろでどれだけの地が痩せるかを知る目が要る。

 そのための名であった。


 平群宇志は、諸氏のあいだにあって顔が広かった。

 強く押す人ではない。

 だが、押しすぎればどこが軋むかを知る。

 兵は、数だけでは進まぬ。

 諸氏の面が立つこともまた、進むための力になる。

 そのために置かれる名であった。


 雄摩呂が言った。


 よい顔ぶれだ

 海の道も、

 武具も、

 諸氏の面も、

 地の負いも、

 おおかた立つ


 国子は低く言った。


 大伴の座からも一人要りましょう


 大臣がうなずいた。


 要る

 名はまだよい

 だが入れよ


 さらに、大宅軍の名も置かれた。


 真根の筆が、ひとつずつ名を拾ってゆく。

 名が入るたびに、ただの空きであったところへ、別の重さが宿っていくようであった。


 鎌足は、その光景を見ていた。


 朝議で決したのは、兵を発すという骨であった。

 ここでは、その骨に肉がつけられている。

 どの氏が、

 どの名で、

 どこまで責を負うか。

 それが書かれてゆく。


 だが、名がそろったところで、急に誰もことばを発しなくなった。


 長い沈黙であった。


 その沈黙を破ったのは、物部依網乙等であった。

 いつからそこにいたのか、鎌足には分からなかった。

 外で待っていたものが、呼ばれて入ったのであろう。


 乙等は、簡の上に並んだ名を見ていた。


 よい顔ぶれにございます


 誰も答えなかった。


 乙等は、さらに言った。


 されど


 ここで初めて、そのことばは出た。


 勝てるか


 部屋の空気が、ひどく静まった。


 理はすでに争われた。

 派兵はすでに決した。

 兵站の順も組まれつつある。

 名も今、置かれた。


 だが、そのどれとも別の、もっと裸の問いが、初めてそこへ現れたのである。


 勝てるのか。


 国子は、すぐには答えなかった。

 雄摩呂もまた、黙っていた。

 蝦夷は乙等を見た。

 大臣だけが、目を伏せたまま動かなかった。


 乙等は続けた。


 兵は発すと決した

 将の名も立つ

 海の継ぎも組む

 されど、それで勝てるのか

 新羅を押し返し、

 任那の名の下の手を取り戻し、

 のちにまた同じことが起こらぬほどに、

 本当に勝てるのか


 その問いは、戦の勝ち負けだけを言ってはいなかった。


 一度勝っても、

 のちにまた崩れるなら、

 それは何を勝ったことになるのか。

 そのことまで含んだ問いであった。


 雄摩呂が、初めて口を開いた。


 勝ちきる、とまでは申せぬ


 誰もそのことばを軽いとは思わなかった。


 雄摩呂は続けた。


 されど、手を見せねば、もっと早く失う

 いまは、失いきらぬために勝たねばならぬ折だ


 乙等は動かなかった。


 それは、勝つこととは違う


 今度は国子が答えた。


 違います


 その声は低かった。

 だが、揺れなかった。


 違います

 されど、いま問うべきは、長く万全に勝てるかではありませぬ

 いま手を出して、海の道をこちらの名の下に保ちうるかどうかにございます


 乙等はさらに問うた。


 保てば、それが勝ちか


 国子は言った。


 いまの朝にとっては、まずそれが勝ちです


 そのことばは、どこか痛ましかった。


 昔の戦なら、

 敵を破り、

 地を取り、

 王を従わせ、

 それで勝ちと言えたかもしれぬ。


 だが今、彼らが言っている勝ちは、

 もっと細く、

 もっと崩れやすいものである。


 海の道を保つ。

 人と物をこちらへつなぎ止める。

 対馬と筑紫を前へ出されるままにしない。

 まずはそれを勝ちと呼ぶほかない。


 蝦夷が言った。


 勝てるかと問われれば、父上も、勝てるとは言われまい

 されど、負けぬために出す

 そのような兵であろう


 大臣は、そのときようやく顔を上げた。


 さようだ


 声は高くなかった。

 だが、その場のすべてがその声に寄った。


 これは、天下を一挙に定める戦ではない

 海の道を失わぬための戦だ

 負けぬために勝つ

 それ以上を欲すれば、こちらの内の手の方が先に折れよう


 乙等は、しばらく何も言わなかった。


 やがて深く頭を下げた。


 承りました


 だが、その承りは、晴れたものではなかった。

 理を受けたのであって、胸の底まで安んじたのではないことが、その頭の下げ方で分かった。


 大臣は、真根へ向かって言った。


 書け


 真根が筆を取り直した。


 大将軍、境部雄摩呂。

 大将軍、中臣国子。

 副将軍、河辺禰受。

 副将軍、物部依網乙等。

 副将軍、波多広庭。

 副将軍、近江脚身飯蓋。

 副将軍、平群宇志。

 副将軍、大伴某。

 副将軍、大宅軍。


 筆の音が止んだ。


 名が並んだことで、ようやく兵は形を持った。

 だが、形を持ったからこそ、そこに何が足りず、何が危ういかもまた、前よりはっきり見えるようになった。


 大臣が言った。


 よいか

 この兵は、ただ海の向こうへ出る兵ではない

 この兵がどう渡り、どう戻るかで、内の朝の形もまた変わる

 ゆえに、功を争うな

 名を肥やすな

 御座の兵として出て、御座の兵として戻れ


 雄摩呂が頭を下げた。

 その礼は深かったが、ことさらに重くはなかった。

 命を受けることに馴れた者の礼であった。

 国子も頭を下げた。

 こちらの礼は、受けた命の先をすでに考えている者の礼であった。

 副将の名を置かれた者どもも、みなそれにならった。


 だが鎌足には、その一様な礼の下に、それぞれ別の思いが伏しているのが感じられた。


 雄摩呂は、出る兵の現実を見ている。

 国子は、外の急をなお見ている。

 蝦夷は、のちに残る手を見ている。

 乙等は、勝てるのかという問いを、まだ胸の奥に残している。

 大臣は、その全部を抱えたまま、なお一つの形に見せようとしている。


 夕刻、将軍任命の簡は御座近くへ上げられた。


 その控えが、寝所の御食子のもとにも運ばれた。

 御食子は床にあった。

 起きてはおらぬ。

 だが、国子の名が大将軍として記されたところでは、目を閉じたまま、わずかに指を動かした。


 鎌足は、その小さな動きを見た。


 兄は、弟がついに名を負ったことを知った。

 それがただ派兵の名ではなく、

 のちの朝へ残る名でもあることを知っておられる。

 そのように思えた。


 夜になると、真根の前にはもう別の簡が置かれていた。

 将軍の名を入れた控え。

 筑紫へ下す控え。

 難波へ返す控え。

 鹿嶋にも知らせるための控え。


 名が決まれば、また別の順が始まる。


 鎌足は、その夜、廊の端で長く立っていた。


 ここへ来て初めて、勝てるのか、という問いが出た。

 だが、その問いに、誰もまっすぐ勝てるとは答えなかった。


 それでも兵は出る。

 勝ちきるためではなく、

 失いきらぬために。


 そのことが、子どもの胸には、ひどく重かった。


 夜の空は低く、

 風はまだ湿っていた。


 将の名は定まった。

 だが、その名の下へ、ようやく今、別の怖れがはっきりと姿をあらわしたのである。



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