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第20話 返しの簡


   二十六


 箸墓より戻ると、小墾田宮の静けさは前とは別のものに見えた。


 廊は変わらず低く、足音は変わらず軽かった。

 庭の石も、木も、朝の光の落ち方も、見たところ以前と違いはない。


 だが、鎌足の目には、それらの間を行き交う人の手が、前よりはっきり見えるようになっていた。


 前には、ただ忙しく見えた。

 今は、それぞれが別の壊れを防いでいるように見えた。


 真根の前では簡が積まれ、

 川瀬は廊の外で人と荷をほどき、

 御食子はなお床にあり、

 国子はその不在の分だけ前へ出ている。


 それらは、ばらばらのことではない。


 箸墓の土は、ただそこにあることで、古い朝を一つの形にして残していた。

 だが今の朝は、土のように一つの形では残らぬ。

 簡の順、

 人の置きどころ、

 言うことと言わぬこと、

 そうしたもののあいだに分かれて、ようやく保たれている。


 鎌足は、その違いを胸の底でまだことばにならぬまま抱えながら、真根の前へ戻った。


 真根は顔を上げなかった。


 戻ったか


 は


 何を見た


 鎌足はすぐには答えられなかった。


 墓を見ました


 真根の筆は止まらなかった。


 前にも見たであろう


 前とは違って見えました


 真根は、それ以上は問わなかった。

 問わぬまま、脇の簡を一つ引き寄せた。


 鹿嶋より返し


 それだけ言って、鎌足の前へ置いた。


 鎌足は目を落とした。


 命は承る。

 馬、人、武具、その出しうるものを量り、順次これを出す。

 ただし、あづまのかなめとして、残すべき手は残す。

 辺の家々へも先に声を回し、抑えの形を崩さぬよう努む。


 短い。

 だが、その短さのうちに、鹿嶋の浜も、厩も、東へ延びる道も、ひどく生々しく立ち上がるように思われた。


 あの返しの後ろでは、きっともう、

 どの馬を出すか、

 どの馬を残すか、

 どの若い者を表へ立たせるか、

 どこの小家へ先に声を回すか、

 そういうことが始まっている。


 命は承る。

 されど、悉くは抜かぬ。


 その言い方は、朝に背いてはいない。

 だが、ただ従うだけでもない。


 中央で決まったことが、地方ではそのまま地方の論理へ置き換えられている。

 そのことを、鎌足は初めて自分の身のうちで分かるように思った。


 真根どの


 何だ


 鹿嶋は、背いてはおりませぬ


 背けば、返しはこのようには参らぬ


 真根は、別の簡を取り上げながら言った。


 されど、ただ承るとも申しておりませぬ


 さようにございます


 真根はそこで初めて、筆を置いた。


 昔の朝なら、一つの形で足りたやもしれぬ

 今の朝は、同じ事も、同じ形のままでは流れませぬ


 鎌足は、そのことばを聞いて、箸墓を思い出した。


 あの土は、一つの形で朝を残していた。

 だが、今の朝は、一つの形では流れぬ。


 真根は続けた。


 鹿嶋の返しも、このままではどこへも流せぬ


 そう言って、真根は簡を分けた。


 国子へ見せる控え。

 蝦夷へ回す控え。

 御座近くへ上げるための書き換え。


 御座近くへ上げるものでは、

 あづまのかなめとして残すべき手は残す、

 のところがやや慎ましくなった。


 東の抑えの形を崩さぬよう努む


 とある。


 蝦夷へ見せる控えでは、


 辺の家々へも先に声を回す


 のところが前へ出た。


 国子へ渡すものでは、


 出しうるものを量り、順次これを出す


 が最初に置かれた。


 鎌足は、それを見ていた。


 同じ鹿嶋の返しである。

 だが、届く先ごとに、先に聞かせる骨が違う。


 箸墓は、一つの土で朝を言い張っていた。

 今の朝は、一つの返しを、別々の骨で流しながら保っている。


 その違いが、ようやく少し見えた気がした。


 昼近く、川瀬が来た。


 顔に疲れはあった。

 だが、足は乱れていなかった。


 鹿嶋の返しは


 真根が差し出すと、川瀬は立ったまま目を走らせた。


 あちらも、抜いたようには見せぬつもりか


 そのように


 川瀬は、簡を戻した。


 よい


 よいのでございますか


 鎌足が思わず問うと、川瀬は少しだけ目を向けた。


 鹿嶋はあづまのかなめだ

 西へ出すと決まれば、東を薄く見せぬことを先に考える

 それでよい


 それから、真根へ向かって言った。


 筑紫へ下ろす分、もう一度分ける

 鹿嶋から回る馬は、急脚に使う分と、見せ馬に使う分とを分けねばならぬ

 良馬を悉く前へやれば、道の途中で先が細る


 真根は短くうなずいた。


 川瀬はさらに言った。


 船頭も同じだ

 顔の知れた者を筑紫へ寄せねば、向こうで浜が詰まる

 されど難波から悉く抜けば、戻りの船が痩せる


 どこでも同じである。


 前へ出せば、後ろが薄くなる。

 残せば、前が詰まる。

 ゆえに、出すべき手と残すべき手とを分けねばならぬ。


 だが、それだけでは済まぬ。


 分けたことを、薄く見せぬようにもせねばならぬ。


 その午後、川瀬は外の者どもをまた集めた。


 難波連網手。

 津守首広手。

 大蔵史真咋。

 額田部牛甘。

 韓鍛冶首麻加。


 前と同じ顔ぶれである。

 だが、前とは違っていた。

 もはや、兵を出すか否かを言う座ではない。

 出すと決まったものを、どこで詰まらせぬかを言う座であった。


 川瀬が言った。


 鹿嶋より返しあり

 向こうも、出すべき手と残すべき手とを分ける

 こちらも同じにせねばならぬ


 網手が言った。


 難波より筑紫へ寄せる分、船ごとに重さを変えます

 対馬へ先に回す軽荷と、筑紫へまとめて下ろす重荷とは分けねばなりませぬ


 真咋が言った。


 粮も同じにございます

 筑紫へ見せる分と、まだ奥で抱える分とを分けます

 見えるところへ悉く積めば、浜は安心いたしましょう

 されど、その安心がのちの飢えになります


 牛甘が言った。


 馬は、見た目の数を作るだけなら容易い

 されど、保つ馬と、ただ並べる馬とは別にございます


 麻加が言った。


 刃も同じ

 戦う刃と、壊れた刃をつなぐための細き物とは違います

 人は大きき刃ばかり見ます

 だが尽きるのは、たいてい細き物からです


 広手が言った。


 筑紫へ入る前に、浜の顔ぶれを整えます

 知らぬ者ばかりが立てば、数があっても人の心は騒ぎます


 川瀬は、ひとりずつ見ていた。


 やがて言った。


 兵を出すとは、人を前へやることではない

 詰まらぬよう順を作ることだ


 そのことばを、鎌足は深く聞いた。


 朝議の場では、理が争われた。

 ここでは、その理が人と荷と馬の順へ変わっている。


 同じことが、別の顔をしていた。


 夕刻、鹿嶋からの返しは、御食子の寝所にも上げられた。


 御食子は床にあった。

 起きておらぬ。

 だが、国子と蝦夷がそばにいた。


 鎌足は戸口の内に控えた。


 国子が言った。


 鹿嶋は、承ると申しております

 されど、あづまを薄く見せぬことを先にしております


 御食子は目を閉じたまま答えた。


 そうであろう


 国子は続けた。


 鹿嶋ばかりにあらず。どこも、もう同じことを申しております

 出すべき手と残すべき手を分けねばならぬ、と


 御食子は、しばらく黙っていた。


 やがて言った。


 分けた手は、のちに残る


 国子はすぐに答えた。


 残らねば、いまが保ちませぬ


 その応酬は短かった。

 だが鎌足には、その短さのうちに、これまでより深いずれがあるように聞こえた。


 御食子は、分けた手がのちの朝に残ることを見ている。

 国子は、残ることを知りつつ、なおいま形にせねばならぬと見ている。


 どちらも同じ現実を見ている。

 だが、同じところには立っていない。


 蝦夷がそこで低く言った。


 鹿嶋が薄く見せぬなら、筑紫もまた同じにせねばなりますまい


 国子がうなずいた。


 そのように進めております


 御食子は、そこで初めて目を開いた。


 進めるほど、のちの手になる


 国子は答えた。


 のちの手にならねば、今の手になりませぬ


 御食子は、それにすぐには返さなかった。


 鎌足には、その沈黙の方が重く思われた。


 昔は、議して朝を立てたのかもしれぬ。

 今は、議して立てたものが、そのままのちの手になる。


 その怖さを、御食子は見ているのではないか。


 夜になると、真根の前にはまだ簡があり、

 川瀬の足音は廊の外を去らず、

 鹿嶋からの返しは別の控えへ写され、

 御食子の咳は、遠く短く聞こえていた。


 鎌足は、その夜、庭の端に立っていた。


 箸墓の土は、一つの形で古い朝を残していた。

 鹿嶋は、東を守る数へと決定を変えた。

 小墾田では、その決定が簡と馬と人の順へ分かれて流れている。

 御食子は床にあり、

 国子は前へ出ている。


 いま作られているのは、ただの派兵ではない。


 派兵を通じて、のちに残る朝の手つきそのものである。


 そう思ったとき、鎌足は、朝とは一つの御座の上にだけあるものではないのだと、前より深く知った。


 御座の上にあり、

 寝所の内にあり、

 真根の筆の先にあり、

 川瀬の足音の中にあり、

 鹿嶋の返しの簡のうちにもある。


 それらがまだ崩れぬように、皆が少しずつ別のところで手を当てている。


 夜の風がようやく立った。

 だが、その風も、朝を軽くはしなかった。



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