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第19話 あづまのかなめ


   二十五


 鹿嶋は、東のかなめである。ゆえに、西のことが決まれば、まずその薄くなる手を数えねばならなかった。


 海はいつもと変わらずあった。


 朝の光はまだ低く、浜に引き上げられた舟の腹を鈍く照らしていた。潮は満ちきらず、引ききらず、砂を薄く濡らしている。社の方では、まだ人の声は高くない。厩のあたりでは馬が鼻を鳴らし、革の擦れる音がした。見たところ、何も変わってはいなかった。


 だが、変わっていないように見えることと、何も動いていないこととは同じではなかった。


 西よりの使いは、前夜のうちに着いていた。


 中臣本宗家よりの使いである。

 供は二人。

 馬は三頭。

 そのうち一頭は、道を急いできたことが見てすぐ分かるほど汗を吹いていた。


 使いは、夜のうちにはただ着いたとだけ告げ、詳しいことは朝を待ってからとした。夜にことばを広げれば、人の心の方が先に走る。そのことを知る者の振る舞いであった。


 鹿嶋の中臣の長は、夜明けを待って人を集めた。


 社に近い板敷であった。

 広くはない。

 だが、鹿嶋にて、ことを決めるには足りる広さであった。


 中臣の長は老いていた。

 声は高くない。

 だが、その低さのうちに、人を急がせぬ力があった。


 その前に、使いが簡を差し出した。


 長はすぐには開かなかった。

 まず使いの顔を見た。

 ついで馬の汗の引き方を見た。

 そののちに、ようやく簡を取った。


 開いた簡は短かった。

 短いが、骨は明らかであった。


 群臣の議により、兵を発すること決す。

 海の向こうへ向けて、筑紫・対馬の備えを急ぐべし。

 馬、武具、人手のうち、鹿嶋にて出しうるものを量れ。

 されど、あづまのかなめたる役を忘るることなかれ。

 残すべき手と出すべき手とは、そなたらにてよく量れ。


 長は読み終えた。

 すぐには口を開かなかった。


 板敷に集められていた者どもも、誰ひとり先にことばを出さなかった。


 中臣部老麻呂なかとみべのおいまろがいた。

 家司格の男である。

 痩せていた。

 眼だけがよく動いた。

 家の人数、使いの順、倉の開け閉め、どの家から何をどれだけ出せるか、そういうことを束ねる男であった。


 坂戸首老さかとのおびとおゆもいた。

 馬を預かる老人である。

 背は曲がりかけていたが、馬の脚を見る目だけは若い者より鋭い。

 数を申す前に、保つか保たぬかを申す人であった。


 矢田部連麻佐やたべのむらじまさがいた。

 武具方の男である。

 矢尻、刀子、革盾、修繕用の鉄、その減り方を見ている。

 口数は少ない。

 少ないが、言うことはいつも固かった。


 軽部海人広主かるべのあまのひろぬしもいた。

 浜の者である。

 舟と荷と人足の動きを知り、海辺に立つだけで、その日の流れが分かるといわれる男であった。


 そして久自直阿良手くじのあたえあらてがいた。

 あづまの辺とつながる役目の男である。

 蝦夷の地に深く入るわけではない。

 だが、その手前で誰がざわめき、どこの小家が何を恐れているかを知る。

 あづまの抑えが、ただ兵の数ではないことを知る男であった。


 長は、簡を畳んだ。


 本宗家よりの命である


 それだけ言った。


 使いは頭を下げた。


 さらに口上もございます


 申せ


 使いは、簡を読むときより少しだけ慎んだ声で言った。


 御食子の君、病中にて長くは起きたまわねど、なお外のことを案じておらるる

 また、嶋大臣も、鹿嶋は東のかなめにてあるゆえ、悉くを抜くことは望まず、残すべき手と出すべき手とをよく量れ、と


 長の目がわずかに動いた。


 大臣も、か


 は


 使いはなお言った。


 ただし、遅きはなお悪しとも。まずは見積りと先備えを急げ、と承っております


 長はうなずかなかった。

 だが、そのことばを捨てもしなかった。


 板敷に少しの沈黙が落ちた。


 最初に口を開いたのは老麻呂であった。


 承るほかありますまい


 坂戸首老がすぐに言った。


 承るとは申さぬ

 背くとも申さぬ

 ただ、どこを抜けば何が薄うなるかを、先に申さねばなるまい


 麻佐が低く続けた。


 刃も同じにございます

 数だけなら出せます

 されど、出してよい刃と、出してはならぬ刃とは別にございます


 軽部海人広主が言った。


 浜もまた同じ

 人足は寄せられます

 されど、浜は人足の数だけで保つものではございませぬ

 顔の知れた者が立っておるかどうかで、人の心は変わります


 阿良手は、皆が言い終えてから口を開いた。


 蝦夷がすぐに寄るとは申せませぬ


 誰も口を挟まなかった。


 阿良手は続けた。


 されど、鹿嶋の手が西へ抜かれたと知れれば、辺の小家どもはみずから量りはじめましょう

 誰が鹿嶋へ従うておればよいか

 このまま同じように荷を寄せてよいか

 鹿嶋はなお、あづまを見ておるか

 そういうことを、ことばにはせずとも量りましょう


 長は、阿良手を見た。


 蝦夷ではなく、小家どもか


 はい


 阿良手は答えた。


 大きく騒ぐ前に、まず小さき者どもがざわつきます

 ざわつきが広がれば、蝦夷もまたこちらの薄さを知りましょう


 それは、半島で起きていることとよく似ていた。

 名はなお残る。

 だが、動く手の方へ、人と物と心が先に寄ってゆく。


 長は、その似方に気づいたらしかったが、口にはしなかった。


 かわりに、使いへ問うた。


 筑紫・対馬へ、まず何を急ぐと見ておる


 使いは答えた。


 兵そのものより先に、継ぎにございます

 舟、馬、粮、人足、その順を乱さぬことを、まず急げと


 老麻呂が低く言った。


 ならば、鹿嶋からは数より順か


 坂戸首老はすぐに首を振った。


 順だけでは済まぬ

 よい馬を少し出さねば、向こうで順は保てぬ

 だが、よい馬を抜けば、こちらの急脚が鈍る


 麻佐が言った。


 刃も同じ

 研ぎ直したばかりのものを出せば役には立つ

 だが、あづまに残る刃は鈍る


 広主が言った。


 浜も同じ

 顔の知れた者を出せば、筑紫で役に立ちましょう

 だが、浜に残るのが若い者ばかりになれば、荷が変わらずとも、人は薄く見ます


 老麻呂は、手元の木札を見た。

 何かの数を書きつけてきたらしかった。


 人を抜くとして、どこから抜く


 家ごとに均すか

 乗り馴れた者だけを出すか

 若い者を数として出すか


 長は、すぐには答えなかった。


 坂戸首老が言った。


 若い者を数で出せば、見た目は立ちましょう

 されど、道で馬を保たせる者がおらぬ


 麻佐が言った。


 鍛冶も同じ

 若い手はいくらでもおります

 されど、折れた刃を見て、その日のうちに直せる手は多くはない


 広主が言った。


 浜もまた同じにございます

 舟は腹だけでは動きませぬ

 顔の知れた者が綱を持つから、荷は滞らぬ


 阿良手が、そこで少し身を乗り出した。


 ならば、出すべきは少数でも、知れた者どもか


 老麻呂が言った。


 それでは、こちらが薄く見えます


 阿良手は答えた。


 薄く見せぬようにする手を、別に打たねばなりませぬ


 長は、そのことばで初めてうなずいた。


 そこだ


 皆が黙った。


 長は、ゆっくりと言った。


 西へ抜く手は抜かねばなるまい

 宗家よりの命であり、朝の決定でもある

 背くことはならぬ


 誰も口を挟まなかった。


 されど、鹿嶋はあづまのかなめよ

 抜いたように見せてはならぬ


 老麻呂が、すぐに応じた。


 社への出入りは変えませぬ

 厩の見回りも減らしませぬ

 若い者どもを表へ多く立てます


 広主が言った。


 浜も変えませぬ

 舟の上げ下ろしは、いつもどおりの刻に見せます

 荷の多寡より、動いて見せることを先にいたします


 坂戸首老が言った。


 良馬を悉くは出しませぬ

 脚の立つものを少し出し、残りは替え馬に見せてつなぎます

 ただし、急脚に使う馬だけは手放せませぬ


 麻佐が言った。


 研ぎたての刃を幾つか西へ回します

 だが、修繕用の鉄は残します

 こちらの刃が鈍れば、抑えが名ばかりになります


 阿良手が言った。


 辺の小家どもへは、先に声を回します

 鹿嶋は変わらず、と

 人は少し動く

 されど、抑えはなおある、と


 長は、ひとりずつ見た。


 老麻呂


 は


 家ごとの割りを作れ

 一家に偏らせるな

 だが、寄せ集めの見苦しき数にもするな


 坂戸首老


 は


 出す馬と残す馬を分けよ

 数ではなく、脚で分けろ


 麻佐


 は


 刃より先に、細き物を見よ

 釘、革紐、馬具、そういうものが先に尽きる


 広主


 は


 浜を静かに見せよ

 騒げば、抜いたことが人の心に先に立つ


 阿良手


 は


 東へ走れ

 蝦夷にではない

 その手前の家々へだ

 鹿嶋はなお立つと、先に知らせよ


 皆が、短く応じた。


 老麻呂が言った。


 返しは、いかように


 長は少し考えた。


 命は承る

 出しうる手は量り、順次これを出す

 ただし、あづまの抑えを薄く見せぬよう、残すべき手は残す

 そのように返せ


 使いは深く頭を下げた。


 は


 長は、そこで一度だけ、遠く東の方を見た。


 空は高くはなかった。

 低く曇っているわけでもない。

 ただ、ひどく遠かった。


 何も起きてはいない。


 浜もある。

 社もある。

 厩もある。

 辺の小家どもも、今日ただちに背くことはない。

 蝦夷が大きく動いたという報もない。


 だが、何も起きていないことは、何も動いていないことではなかった。


 西で兵を発すと決まったそのときから、

 鹿嶋では、東をどう薄く見せぬかが始まっていた。


 その日、社の前を行き来する若い者は、いつもより少し多かった。

 厩では、馬の出し入れをあえて絶やさなかった。

 浜では、軽い荷であっても、いつもどおりの刻に舟を寄せた。

 そして、東へ走る使いは、まだ昼のうちに二手に分かれて出ていった。


 鹿嶋は、変わっていないように見えた。


 だが、その変わらぬ顔は、多くの手で保たれていた。


 西へ抜かれる手と、

 なお東に残る手と、

 そして、抜かれたように見せぬための手と。


 長は、そのすべてを見ていた。


 宗家もまた、苦しい折にある。

 御座もまた、苦しい折にある。

 半島へ手を伸ばすことが、あづまを薄くする。

 あづまを薄く見せぬためには、さらに別の手が要る。


 朝とは、ひとところにだけあるものではない。


 長は、そう思った。


 海の向こうの道を守るための議が、

 いま鹿嶋では、東を守るための数になっている。


 そのことを、誰も大きくは言わなかった。


 ただ、夕方になるころ、返しの簡が整った。


 命は承る。

 馬、人、武具、その出しうるものを量り、順次これを出す。

 ただし、あづまのかなめとして、残すべき手は残す。

 辺の家々へも先に声を回し、抑えの形を崩さぬよう努む。


 長は、その簡を閉じた。


 そして今度は、西ではなく、ふたたび東を見た。


 そこにはなお、何も起きてはいなかった。


 だが、起きていないことを保つためにも、手は要る。


 鹿嶋は、その手の一つであった。


簡を閉じた長は、しばらく使いの顔を見ていた。

そして言った。


 鎌足は息災であるか


 使いが、微笑んだ。


 はい


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