第18話 箸墓 ふたたび
二十四
朝議ののち、真根の前に積まれる簡は、いよいよ高さを増していた。
筑紫へ下るもの。
難波へ返すもの。
御座近くへ上げる控え。
蝦夷へ見せるもの。
大伴の座へ渡すもの。
物部の座へ渡すもの。
どれも同じことを書いているようでいて、同じではない。
先に置く骨が違う。
伏せる語が違う。
届く先ごとに、同じ事も別の顔を持つ。
鎌足は、その日も真根のそばに坐っていた。
真根は顔を上げず、筆を動かしつづけていた。
書きつける。
取り上げる。
脇へ置く。
別の簡を引き寄せる。
その手つきには、少しの迷いもない。
迷いがないのではない。
迷いを筆の先へ残さぬのであろうと、鎌足はこのごろ思うようになっていた。
ふと、真根が一本の簡を取り上げた。
これは御座近くへ上げる控えであった。
兵を発すこと。
その名目。
筑紫へ渡す手。
対馬へ回す分。
いずれも短く削られている。
削られているのに、なお重い。
鎌足は、それを見ていて、急に別の土の色を思い出した。
箸墓である。
あの土もまた、何かを削って残していた。
人の名を多くは語らず、
ことばを多くは持たず、
ただ、ここに朝があったとだけ、土そのもので残していた。
鎌足は、真根の手を見た。
同じことを、同じ形では流さぬ。
届く先ごとに骨を変える。
だが、変えても失わせぬ。
それは、箸墓がしていることと、どこか似ているように思われた。
前に纏向へ行ったとき、鎌足は、ただ大きさを見た。
ここに古い朝があったことを、土が言い張っている、その強さを見た。
だが今は、別の見え方が胸に起こっていた。
姫巫女の朝もまた、皆の手を一つに束ねることはせず、
それぞれの手を、そのまま朝のうちへ置いていたのではないか。
今の大王の御座もまた、群臣の議を受けて裁可した。
そこは似ている。
されど、同じではない。
姫巫女の朝は、まだ朝そのものを立てる方へ向かっていた。
今の朝は、すでに立ってしまった多くの手を、壊れぬように抱えている。
似ている。
だが同じではない。
その違いを、もう一度あの土の前で考えたくなった。
真根どの
鎌足は、筆の切れた折を見て、初めて声をかけた。
真根は顔を上げなかった。
何だ
以前、御食子の君のお許しで、纏向へ参ったことがございます
あるな
箸墓を、もう一度見とうございます
真根の筆が、そこで初めて止まった。
なぜだ
前には、大きい墓としか見えませなんだ
だが今は、別のものが見える気がいたします
真根は、ようやく鎌足を見た。
別のものとは
すぐには申せませぬ
鎌足は正直に答えた。
申せませぬが、朝議ののち、簡の流れを見ておるうちに、あの土をもう一度見ねばならぬと思いました
真根はしばらく黙っていた。
それから、また筆を持った。
わたしに願うことではない
はい
だが、思い立ったことを、そのまま忘れぬのはよい
鎌足は頭を下げた。
御食子の君へ申し上げよ
ただし、いまはご病中だ
ことばを長くするな
は
鎌足はすぐに立たなかった。
真根はもう書きはじめていた。
その横顔には、許しも、励ましも、はっきりとは出ていなかった。
だが、退けとも言わなかった。
それだけで十分であった。
その日の夕刻、鎌足は御食子の寝所の外へ控えた。
火は明るくない。
薬草の匂いは、まだ消えていなかった。
咳は昼より少し鎮まっているようであったが、寝所の中の静けさは、前より深くなっていた。
鎌足は戸口の内で膝をついた。
何だ
御食子の声は弱かった。
だが濁ってはいなかった。
以前お許しをいただき、纏向へ参りました
覚えておる
箸墓を、もう一度見とうございます
御食子は、すぐには答えなかった。
鎌足は頭を下げたまま、待った。
なぜだ
前には、まだ見えませなんだものがございます
何が見えぬ
それは、まだ申せませぬ
御食子は、その答えを聞いても、責めなかった。
ただ、少しのあいだ沈黙した。
その沈黙のうちに、鎌足は、許されぬかもしれぬと思った。
いまは半島のことがある。
兵のことがある。
御食子ご自身も病んでおられる。
その折に、子ひとりを古い墓へやるのは、無用と見られても不思議はなかった。
やがて御食子が言った。
行ってこい
鎌足は思わず顔を上げかけ、すぐまた伏せた。
供は多く要りませぬ
御食子は続けた。
道の分かる者を二人ほどつける
長居はするな
見て、戻れ
は
鎌足は深く叩頭した。
御食子は、それ以上は何も言わなかった。
何を見よとも言わぬ。
何を考えよとも言わぬ。
姫巫女の朝のことも、
今の大王のことも、
群臣の議のことも、
あえて教えなかった。
ただ、行けと言っただけであった。
鎌足は、そのことがかえって重く思われた。
教えを受けて行くのではない。
いまは、自分の目で見てこい、ということなのであろう。
寝所を出ると、空は暮れきる前であった。
庭の木々は黙って立っていた。
廊の外では、なお川瀬の配する足音が絶えず、
真根の前では、なお簡が積まれつづけているはずであった。
朝は、決めたことを崩さぬために、絶えず動いている。
そのただ中で、自分は古い墓を見にゆく。
鎌足には、それがただ昔を訪ねることには思われなかった。
翌朝、供は二人だけであった。
ひとりは道を知る男。
もうひとりは若く、口の堅い者であった。
馬も軽い。
旅装も重くない。
宮を出るとき、誰もそのことを大きくは見なかった。
見なかったが、まるで知られていないわけでもないらしかった。
門の脇にいた吏が一度だけ鎌足を見て、すぐ目を伏せた。
道は晴れていた。
昨夜の湿りがまだ少し土に残り、朝の光を鈍く返していた。
纏向へ向かいながら、鎌足は考えた。
姫巫女もまた、皆の議に任せたのであろうか。
ただ、一人で決めるのでなく、
多くの手を朝のうちへ置いたのであろうか。
もしそうであるなら、今の大王の御座と似ている。
だが、同じではない。
今の御座は、
多くの手がすでに強くなり、
そのどれもを折らずに抱えねばならぬ御座である。
姫巫女の朝は、
もっと初めの、
まだ朝そのものを立てるための議であったのではないか。
その違いは、まだことばにならなかった。
昼近く、箸墓が見えた。
前に来たときと同じく、大きかった。
だが、大きさより先に、そこに置かれているということが目に入った。
道の傍らにある。
隠れてはいない。
見せるためにある。
鎌足は馬を下りた。
土は乾ききっておらず、薄く湿りを含んでいた。
風が草を伏せた。
墓は黙っていた。
だが、その黙り方は、ただの沈黙ではなかった。
ここに朝があった。
そのことを、ことばではなく、形で言い張っている沈黙であった。
鎌足は、しばらく何も考えずに立っていた。
やがて、胸の底から、ゆっくり一つの思いが上がってきた。
姫巫女の朝もまた、一人の強い手で立ったのではない。
多くの手を、一つのかたちに見せることで立ったのではないか。
今の大王もまた、群臣の議のままに裁可した。
そこは似ている。
だが、今の御座は、すでに争いの手を抱えたあとの御座である。
姫巫女の朝は、その争いの手が、まだ今ほど重くなる前の朝であったのかもしれぬ。
つまり、
昔は、議によって朝を立てた。
今は、議によって朝を壊さぬようにしている。
似ている。
だが、まるで同じではない。
鎌足は、その違いを、土の前でようやく一つつかんだ気がした。
前に来たときは、墓を見た。
今は、墓の向こうにある朝の違いを見ようとしている。
それだけ、自分の目が少し変わったのかもしれぬと、鎌足は思った。
風がまた吹いた。
草が鳴った。
道は墓の脇を通って、なお先へ延びていた。
鎌足は長く息を吐いた。
戻らねばならぬ。
見るべきものは、ここだけでは終わらぬ。
この見え方を持って、小墾田へ戻り、
あの決まったあとの朝を、もう一度見ねばならぬ。
鎌足は馬へ手をかけた。
箸墓は、その背を、前と同じく黙って見ていた。




