第17話 形をつける
二十三
朝議が終わっても、その日のうちに何か大きく変わったようには見えなかった。
小墾田宮の廊は、朝と同じように静かであった。
人はなお低く歩き、
声はなお高くならず、
庭の石も、木も、風も、何事もなかったようにそこにあった。
だが鎌足には、朝の前と後とで、空気の張り方が違っているのが分かった。
議の前の静けさは、まだ決まっていないことの静けさであった。
いまある静けさは、決まってしまったことの静けさであった。
戻せぬものが一つ、朝の中へ置かれた。
それだけで、人の足の運びまで少し変わるのである。
退出してくる群臣らの顔を、鎌足は廊の陰から見ていた。
御食子に言われたとおりであった。
ことばはまだ知らぬ。
だが、顔は先に語っていた。
田中臣の顔は沈んでいた。
敗れた顔ではない。
諫めきれなかった顔でもない。
自らの言ったことが退けられたのではなく、そのまま抱えられたまま事が進むと知った顔であった。
大伴の座の者どもは、もう数を数える顔になっていた。
船の数、兵の数、馬の数、どこからどこへ何日で送るか、そのようなことが、すでに眉間のあたりへ出ていた。
山背皇子は静かであった。
来たときと同じように、人はその前で自然に道をあけた。
だが今日は、その道をあける手つきの中に、敬いだけではない、測るようなものが混じっているように鎌足には見えた。
皇子は何も言わず、まっすぐに廊を渡っていった。
その後ろ姿は乱れていない。
されど、これまでより少しだけ遠く見えた。
田村皇子は、それとは別の仕方で静かであった。
顔に色はない。
だが、何かを受け取った者の静けさであった。
前へ出たのではない。
されど、この日の議が、自分の重さをまた少し増したことを知っている人の背であった。
国子は最後の方に出てきた。
顔は強ばってはいない。
だが緩んでもいない。
勝ち負けを問う顔ではなかった。
自ら押してきたものが、ついに朝の形となったと知った者の顔であった。
鎌足は、その顔を見て、ふと怖れを覚えた。
この人は、願ったことが成ったから前へ出るのではない。
成った以上、それを次へ進めねばならぬと知って、さらに前へ出る人である。
朝議とは、ことの終わりではない。
ことの始まりである。
その思いが、鎌足の胸へ重く沈んだ。
その日の夕れ、川瀬はすでに人を割り振りはじめていた。
難波へ戻る者。
河内へ走る者。
信濃へ馬のことを伝える者。
筑紫へ先触れを立てる者。
対馬へは、まだ命とはせぬが、津と船との備えを改めよとだけ伝える者。
鎌足は、川瀬のそば近くで、それを見ていた。
川瀬は、名を呼ぶ。
呼ばれた者は短く答える。
その短さのうちに、どれほどのものが渡されているのか、鎌足にはまだ半ばしか分からぬ。
だが、朝議の場で積まれた理が、ここではもう人と馬と道の順へ変わっていることだけは分かった。
川瀬が言った。
網手
は
難波へ戻れ。船腹の見立てを改めよ。出す船と戻す船は分けて考えよ。戻りを軽く見るな
網手は頭を下げた。
真咋
は
倉より出す分を二つに分けよ。筑紫へ寄せる分と、まだ動かさずに置く分だ。皆まで前へやるな
真咋は、深く礼をした。
牛甘
は
浜へ下ろして痩せる馬は、はじめから数へ入れるな。見た目の数を大きくするな。保つ馬だけを出せ
牛甘は短く答えた。
麻加
は
刃より先に馬具を見よ。船に積む釘を見よ。細き物から先に尽きる
麻加は、表情を変えずにうなずいた。
川瀬はそこでようやく一息置いた。
それから、広手を見た。
津守首広手
は
筑紫へ入る者どもに、まだ兵の数を大きくは伝えるな。浜が騒げば、人の心が先に走る
広手は、静かに礼をした。
皆が去ったあとで、鎌足はなおそこにいた。
川瀬は、板敷の端に立ったまま、庭の暗くなりかけた方を見ていた。
呼吸も乱れてはいない。
だが、疲れていないわけではないことは、子どもの目にも分かった。
鎌足は思いきって問うた。
もう、後戻りはできぬのか
川瀬はすぐには答えなかった。
やがて言った。
後戻り、とは何にございます
兵を出すと決まったことに
川瀬は少しだけ目を動かした。
決まったことは、まだ形にせねばなりませぬ
形にならぬうちは、決まりきったとは申せませぬ
されど、形にせぬまま戻せば、それはそれで別の傷になります
鎌足は黙った。
川瀬は続けた。
朝議で決まることは、多うございます
されど、朝議で決まったままに済むことは、そう多くはございませぬ
そのことばは、低かった。
だが鎌足には、朝議の場で聞いたどの理よりも、深く胸へ入った。
その夜、御食子の寝所には、いつもより長く灯がともっていた。
国子が呼ばれていたのである。
蝦夷も来ていた。
鎌足は戸口の外で控えていた。
中のことばは、ところどころしか聞こえぬ。
だが、聞こえぬことの方が、かえって重かった。
最初に聞こえたのは、蝦夷の声であった。
兵は発す
されど、筑紫へ預ける手どもは限らねばならぬ
国子が答えた。
限りましょう
されど限りすぎれば、渡る兵が浜で詰まります
詰まらぬほどに預け、重くなりすぎぬほどに削れ
それをするのが難しきにございます
そこで御食子の咳が聞こえた。
鎌足は思わず顔を上げた。
中の人々も一瞬ことばを止めたらしかった。
やがて御食子の声がした。
弱い。
だがまだ濁ってはいない。
難しきことを、形にしてこそ政だ
しばし沈黙があった。
蝦夷が低く言った。
御食子どの、今のうちに、筑紫へ渡す権を細かく分けておくべきと存ずる
一つの手へ寄せれば、のち重くなりましょう
国子が、すぐには応じなかった。
その沈黙だけで、鎌足には分かった。
国子は、分けすぎれば間に合わぬと思っている。
蝦夷は、寄せすぎれば後に残ると思っている。
同じ派兵の決定の下にあっても、もう見ている先が違うのである。
御食子の声が、もう一度した。
分けよ
されど、分けて見えぬようにせよ
蝦夷も国子も、すぐには答えなかった。
それから、国子が深く礼をする気配がした。
承る
鎌足には、その一言の重さが分かった。
分ける。
しかも、分かれて見せぬ。
それは理で言えば簡単である。
だが、人と船と粮と馬と顔と名のあいだで、それを形にするのがどれほど難しいか、鎌足もこの数日で少しは知っていた。
やがて蝦夷が出てきた。
廊へ出た顔は静かであった。
だが、若く見えなかった。
父の後ろにある者の顔ではなく、自分の手でも朝の形を持たねばならぬ者の顔であった。
蝦夷は鎌足の方を見た。
見たが、何も言わなかった。
ただ一度だけ、子を量るようではなく、これからこの子も見て覚えてゆくのであろうという目で見た。
そのあとで国子が出てきた。
国子の足は、朝議の前より速くなっていた。
だが、荒れてはいない。
決したあとの人の速さであった。
鎌足
は
明日より、真根のもとへ行け
真根どのの
簡を見る
写すな、まず順を見よ
どの簡がどこへ先に行くか、それだけを見ておれ
鎌足は深く頭を下げた。
は
自分に命が下った。
小さなものである。
だが、小さいからこそ、本当に歯車の一つへ入れられたのだと分かった。
国子はそれだけ言って去った。
鎌足は、しばらく動けなかった。
これまでは、見ておれと言われてきた。
いまは、そこへ行けと言われた。
それだけの違いである。
だが、その違いは小さくなかった。
翌朝、真根のところへ行くと、すでに簡の山ができていた。
真根は顔も上げずに言った。
遅くはない
そこへ座れ
鎌足は言われたままに座った。
真根の前には、同じことを書いているように見える簡が幾つもあった。
だが、よく見れば違う。
任那のことを前へ置くもの。
筑紫のことを前へ置くもの。
船のことを先にするもの。
御座の安きを先にするもの。
真根は一本の筆を持ったまま言った。
これは筑紫へ下る前の簡
これは難波へ返す簡
これは御座近くへ上げる控え
これは蝦夷どのにも見せる
鎌足は見ていた。
見ているうちに、ただ書いているのではないことが分かった。
同じ事が、同じ形では流れぬ。
届く先ごとに、先に聞かせる骨が違うのである。
真根がふと鎌足を見た。
分かるか
少し
少しでよい
全部分かったと思うようになれば、かえって誤る
それから、また筆を動かした。
鎌足は、そのことばを覚えた。
昼近く、入鹿が来た。
ひとりであった。
供も少なく、足音も立てぬ。
だが、入ってきたとたん、部屋の空気が少し痩せるように鎌足は感じた。
入鹿は真根の前に坐した。
見せよ
真根は幾つかの簡を差し出した。
入鹿はそれを一息に見た。
読んでいるというより、置かれているものの形をまとめて見ているようであった。
筑紫へ渡す手は、これで散るか
真根は答えた。
散ります
入鹿は、かすかに笑った。
散るように見えるだけで、実は寄ることもある
真根は黙った。
入鹿はさらに言った。
寄るところは、いずれ重くなる
重くなれば、切るか抱くかしかなくなる
そこで少しだけ鎌足の方を見た。
今のうちに、抱く手を考えておけ
真根は、今度も答えなかった。
入鹿は立ち上がった。
去り際に、鎌足へ言った。
見ておるか
は
よい
見ておるだけのうちは、まだ軽い
それだけ言って去った。
鎌足は、しばらく息を整えられなかった。
入鹿は、朝議の決定を実行する人々の一人ではない。
だが、決まったことの先に、さらに別の形が生まれるのを、すでに見ている人であるように思われた。
その夜更け、御食子の咳がひどくなったと聞いた。
鎌足は寝所の近くへ走った。
戸は閉じていた。
中には国子がいる。
薬草の匂いが、外まで濃く流れていた。
しばらくして、戸がわずかに開き、国子が出てきた。
顔色は悪かった。
だが、立つ姿に揺らぎはなかった。
兄者は
鎌足が問うと、国子は短く言った。
まだ保つ
それから、少し置いて続けた。
保つうちに、形をつけねばならぬ
鎌足はうなずくこともできなかった。
国子は、そのまま廊を渡っていった。
その背を見ていると、御食子の病と派兵の決定とが、もう別々のものではなくなっているのが分かった。
御食子が床にあるから、国子が前へ出る。
国子が前へ出るから、事は速く形になる。
速く形になるから、今度はその形が、御食子のいない朝に残る。
人が一人病む。
それだけのことが、どれほど深く朝を変えるか。
鎌足には、ようやくその恐ろしさが見えはじめていた。
外では、まだ雨は降っていなかった。
だが、空気は重かった。
庭の木々も、ひどく黙って見えた。
兵は、まだ渡っていない。
倉下も、なお向こうにある。
海の道も、まだ完全には切れていない。
それでも朝は、もう朝議の前の朝ではなかった。
真根の前には、なお簡が積まれていた。
灯はまだ消えず、
川瀬の足音は廊の外を去らず、
御食子の咳は、遠く、短く、夜の底で聞こえていた。
決めぬことで保ってきた朝は、この日よりのち、決めたことを崩さぬために、別の手を要する朝になったのである。




