第15話 言わぬこと
二十一
朝議の日が定まったのは、その数日後であった。
大王の御座に近いところで、
群臣を限って集める。
議するは海の向こうのこと。
ことに、任那の名の下に残る手をいかに保つかということ。
名目はそれである。
だが、誰もその名目だけで済むとは思っていなかった。
朝議の前の日々は、かえって静かであった。
静かであるのは、ことが軽いからではない。
ことが重いとき、人はむやみに声を立てぬ。
立てれば、その声が先に独り歩きする。
独り歩きした声は、戻せぬ。
戻せぬ声は、人の立つ位置そのものを変えてしまう。
ゆえに皆、声を低くした。
小墾田宮の廊を渡る者の足音は、これまでよりもさらに軽くなった。
軽いが、急いてはいない。
急いて見えれば、それだけで何かが起こっていると知れるからである。
鎌足は、その静けさの底で、人の目だけが忙しくなっているのを見た。
ある者は、誰がどの刻に宮へ入ったかを見る。
ある者は、どの使いがどの門から通されたかを見る。
ある者は、難波からの荷が何日で上がったかを見る。
ある者は、御座の近くへ上がる女官の顔色を見る。
ことばより先に、
人は人の動きでことの重さを量る。
そのころ、山背皇子は小墾田へ参じることが少し増えた。
増えたといっても、露骨なものではない。
もともと参るべき人が、参るべき折に参っているだけに見える。
だが、見ている者には分かった。
呼ばれぬところへは出ず、
呼ばれれば退かぬ。
その歩みの保ち方そのものが、すでに一つの答えになっていた。
田村皇子もまた、姿を見せた。
こちらは山背皇子とは違った。
現れても、周りの空気を変えぬように現れる。
供の数も、声の高低も、ことさらに人の目を引かぬように整えられていた。
だが、それでもなお、見ている者には見えた。
この人もまた、いまここで外のことをただ外のこととしては受けていない。
朝議の前日になると、真根の前に置かれる簡の順がまた変わった。
筑紫へ下る控え。
難波へ返す控え。
御座近くへ上げる控え。
蝦夷へ見せる控え。
田中臣にだけ渡す写し。
鎌足は真根のそばに座り、それが積み替えられてゆくさまを見ていた。
真根は顔を上げずに言った。
明日は、ことばそのものより、並ぶ順がものを申します
鎌足は問うた。
順、にございますか
順にございます
真根は筆を置かなかった。
誰が先に聞くか
誰の耳へ、どの骨が先に入るか
議の場に出る前に、半ばはもう決まります
それを聞きながら、鎌足は、朝議がまだ来ぬのに、朝議の中身だけはもう別々の手に分けられているように思った。
その日の夕刻、田中臣が真根のところへ来た。
若い吏を一人連れていた。その吏は細長い文箱を抱えていた。
田中臣は、出された簡を二、三通見て、静かに言った。
筑紫へ渡す手ども、名は分けておるな
分けております
責の名も分けておるか
真根は少しだけ間を置いた。
散らしすぎぬようにはしております
田中臣はうなずきもしなかった。
寄せすぎれば後に残る
散らしすぎれば今が動かぬ
いちばん厄介な折よ
それだけ言って去った。
そのあとで、小治田連真手が来た。
山背皇子の近習である。
真手は、前のように問いに来たのではなかった。すでに決まるべき議の中で、どこまでが動き、どこまでが動かぬかを見に来た顔であった。
兵の名目は
真根が答えた。
御座の兵としてございます
筑紫へ預ける手は
分けてございます
真手はしばらく黙ったのち、言った。
分けて見せるか
分けて見せぬか
真根はわずかに頭を下げた。
分けて見せぬようにしております
真手は、ようやく小さくうなずいた。
それでよい
去るとき、真手は鎌足の方を一度だけ見た。だが何も言わなかった。
その無言のうちに、山背皇子の側はいまもなお、派兵そのものより、その派兵がどう見えるかを見ているのだと鎌足には分かった。
入れ違うようにして、小足も来た。
田村皇子の側の者である。
小足は真手よりもさらに短く言った。
戻る兵の扱いは
真根が、初めて少し顔を上げた。
まだ、そこまでは
定めておかれよ
小足は言った。
兵は、出すときより戻るときに形を変えます
それだけで去った。
鎌足は、その一言がひどく胸に残った。
まだ渡ってもいない兵の、戻るときのことを先に言う。
それが田村の側の見方であるように思われた。
日が沈む前、御食子の寝所へ、蝦夷が入っていった。
国子もすでに中にいた。
鎌足は戸口の外で控えていた。
中のことばは途切れ途切れにしか聞こえぬ。だが、その途切れ方が、かえって重かった。
最初に聞こえたのは蝦夷の声であった。
兵は発す
されど、筑紫へ預ける手どもは限らねばならぬ
国子が答えた。
限りましょう
されど限りすぎれば、渡る兵が浜で詰まります
詰まらぬほどに預け、重くなりすぎぬほどに削れ
それをするのが難しきにございます
そこで御食子の咳が聞こえた。
中の者どもが一瞬ことばを止めた気配がした。
やがて御食子の声がした。
難しきことを、形にしてこそ政だ
しばらくして、御食子はさらに言った。
分けよ
されど、分けて見えぬようにせよ
蝦夷も国子も、すぐには答えなかった。
その沈黙を破って、国子が深く礼をする気配がした。
承る
その一言の重さを、鎌足は戸の外で聞いていた。
分ける。
しかも、分かれて見せぬ。
理で言えば短い。
だが、人と船と粮と馬と顔と名のあいだで、それを本当に形にするのがどれほど難しいか、鎌足ももう少しは知っていた。
その夜のうちに、御食子は鎌足を呼んだ。
火は明るくない。
咳は昼より少し静まっていた。
だが、顔のやつれは隠せなかった。
明日、議が立つ
御食子はそう言った。
鎌足は深く頭を下げた。
見ておけ
は
議とは、ことばの勝ち負けではない
少し息を置いて、さらに言った。
誰が何を言うかより、誰が何を言わぬかを見よ
言わぬことのうちに、その人の怖れも、望みも、立つところもある
鎌足は、そのことばを胸の深いところへ入れた。
御食子はまた言った。
嶋大臣は、一人で押し切ったとは見られまいとされよう
山背皇子は、兵のことに名の影が混じるのを嫌われよう
田村皇子は、御座の兵であることを確かめよう
国子は、外の急を押すであろう
御食子はそこで咳をこらえた。
皆、それぞれに正しい
されど、正しいものが並べば、それで朝が保つとは限らぬ
では、何が朝を保つのでございます
鎌足は思わず問うた。
御食子は、目を閉じたまま答えた。
正しさが、互いに相手を折らぬところだ
鎌足には、そのことばのすべては分からなかった。
だが、忘れてはならぬことばであることだけは分かった。
御食子は最後に言った。
そなた、明日は出る者どもの戻りを見よ
顔を見よ
ことばはあとからでも聞ける
されど、顔は、その人がまだことばにしておらぬものを先に語る
鎌足は、深く叩頭した。
外へ出ると、夜の空はひどく澄んでいた。
ここ数日の重い雲がいったん切れたのである。
だが、晴れた空を見て、鎌足はかえって胸が詰まった。
明日、ことは少し先へ進む。
それが兵の議として進むのか。
あるいは、兵の形を借りて別のものまで動かすのか。
それはまだ分からぬ。
ただ一つ分かるのは、
明日の朝議は、
海の向こうを議しながら、
そのまま倭の朝の形をも量る場になるということであった。
鎌足は、長く息を吐いた。
風は涼しかった。
だが、その涼しさの底に、まだ見ぬ刃の気が薄く混じっているように思われた。




