第14話 座に着く前
二十
衆議に決すべし。
嶋大臣の返しは短かった。だが、その短さが、かえって朝の内へ深く響いた。
それは、ただ皆で相談せよということではない。
誰がどこまで責を負うかを、一人の胸のうちではなく、朝の見えるところへ移すということである。
国子は、その返しを受けてのち、しばらく誰にも見せぬ顔をした。
迷いではない。
ようやく、ここまで押し出せたという顔でもない。
むしろ、もう戻せぬところへ来たと知った者の顔であった。
朝議は、すぐには開かれなかった。
開けぬのである。
議を開くということは、名を並べることである。
名を並べれば、人はその名のまわりで自らの位置を量る。
半島のことを議するはずが、やがては誰が前へ出るかの気配まで、同じ座のうちに入りこみかねぬ。
ゆえに、議の前に、議より長い手順が要った。
その日より、小墾田宮の内外では、人の動き方がまた一つ変わった。
表向きには静かである。
使いも、荷も、馬も、これまでと同じように出入りする。
だが、その静けさの下で、ことばはまっすぐには進まなくなった。
いったん止まり、
別の耳へ入り、
別の口からやわらげられ、
あるいは削られ、
ようやく次の人のもとへ届く。
鎌足は、その流れを見ていた。
同じ報であるのに、
国子へ届くものと、
嶋大臣へ届くものと、
御座の近くへ届くものとでは、
ことばの骨の見え方が少しずつ違っていた。
国子のところへ行くものは、切迫が前に出る。
外の道は痩せている。
人も物も散りつつある。
いま手を出さねば、向こうで倭の手は軽くなる。
嶋大臣のところへ行くものは、なお一段慎ましくなる。
道は細る。
されど絶えてはおらぬ。
ゆえに、軽々に兵を言い立てるには及ばぬ。
だが、備えを怠れば、のちに失うものは大きい。
御座の近くへ入るものは、さらに形を変えた。
海の向こうの事は軽からず。
群臣の議を尽くすべし。
御座の安きことを損なわぬよう、慎みて定むべし。
同じ報であっても、届くところが違えば、骨の見え方が違った。
それを形にしていたのは、ただ国子一人ではなかった。
史部真根である。
鎌足は、ある朝、その真根が国子の前で二通の簡を並べているのを見た。
片方は嶋大臣へ上げる簡。
もう片方は御座の近くへ入れる簡であった。
真根が言った。
こちらは任那の手の散ずることを前に置きます
こちらは、御座の安きを損なわぬよう群臣の議を尽くすべしを前に置きます
国子は簡を見た。
同じ事か
同じ事にございます
されど、同じようには届きませぬ
国子はしばらく黙っていた。
やがて言った。
簡を変えておるのではない
届く順を変えておるのだな
真根は深く頭を下げた。
鎌足はそのやりとりを、言い終わるまで息を止めて見ていた。
政とは、ただ強いことばを持つことではない。
同じ事を、誰の耳へ、どの順で入れるかを知ることでもあるのだと、そのとき思った。
難波からは、難波連網手が来た。
網手は礼をして言った。
難波の津には、まだ船はございます
されど、船があることと、すぐ出せることとは同じではございませぬ
国子が問うた。
何が詰まる
人にございます
網手は答えた。
漕ぐ者、綱を扱う者、積み替える者、潮を読む者、そのどれもが細うなっております。船腹はございましょう。されど、船は腹だけでは動きませぬ
川瀬が、脇で黙って聞いていた。
網手はさらに言った。
兵を渡すなら、まず筑紫へ下ろす分と、対馬へ回す分とを分けねばなりませぬ。荷が一つに寄れば、浜で詰まります
国子は、そのことばのうちの、対馬という名に少しだけ目を留めた。
対馬は、もうそのように見ねばならぬか
網手は答えた。
海を渡るなら、もとよりそのように見ておりました
いまは、それが隠せぬようになっただけにございます
それだけ言って、深く頭を下げた。
そのあとを受けるように、大蔵史真咋が来た。
真咋が言った。
粮は集められます
されど、集めた粮をどこまで先へ送るかは別にございます
別とは
国子が問うた。
集めるは倉の事にございます
保たせるは道の事にございます
筑紫まで送るのか
対馬まで回すのか
その先まで見るのか
同じ粮でも、保たせ方が違います
真咋は顔を上げなかった。
布も足ります
されど、兵に持たせる布と、船で包む布と、傷を巻く布とは別にございます
川瀬が、そこで初めて口を出した。
倉は、まだ痩せぬか
真咋は答えた。
痩せます
ただ、いま痩せるか、のちに痩せるかの違いにございます
その返しに、国子は何も言わなかった。
言わなかったが、鎌足には、その沈黙のうちで、いま痩せることを取るのか、のちに痩せることを取るのか、そのどちらも選ばねばならぬことが、国子の胸へ入っているように見えた。
最初に動いたのは、山背皇子の近いところであった。
その人自身ではない。
いつものように、まず近習が来る。
小治田連真手という男である。
若くはない。かといって老いてもいない。衣もことばも整っていた。低く話すが、その低さの中に、こちらの胸の内を量ろうとする気配があった。
国子が会った。
鎌足は板敷の端に控えていた。
真手は言った。
皇子の君、海の向こうのこと、軽からずとお聞き及びにございます
国子はうなずいた。
軽からず
朝議に上がるのでございましょうか
上がりましょう
真手は少しだけ間を置いた。
皇子の君は、外の道を軽うは見ておられませぬ
されど、道を救う名目にて、内の御座が狭くなることもまた、望まれませぬ
国子は、そのことばを受けても顔を変えなかった。
もっともにございます
真手はさらに言った。
兵を出すと申せば、兵だけでは済まぬこともありましょう
それもまた、もっともにございます
では
国子はそこで初めて、少しだけ声を低くした。
皇子は、外の道をこのまま痩せさせてよいとも、思うてはおられぬのでしょう
真手はすぐには答えなかった。
皇子の君は、倭の手が軽く見られることも、また望まれませぬ
それだけ言って、深く礼をした。
去ったのち、鎌足は思った。
山背皇子は、なお自ら前へは出ぬ。
だが、そのまわりの者どもは、すでに問いの立て方を知っている。
兵を出すべきか否かではない。
兵を出したのち、何が内へ入りこむか。
その問い方であった。
別の日には、田村皇子のもとから人が来た。
こちらは山背の近習とは違った。
ことばは少ない。
少ないが、あいまいでもない。
まるで、余計なことを一つでも口にすれば、そのぶんだけ損をすると知っている者の口ぶりであった。
阿倍臣小足という男である。
背は高くなく、目も細い。顔を上げぬまま話す。そのため、ことばだけが先に出るように聞こえた。
小足は言った。
田村皇子の君、海の向こうのこと、群臣の議に従われる由
国子は、その短さにかえって気をつけた。
皇子ご自身のお考えは
御座の安きことを先とされます
それは、いずれの皇子も同じことを申しましょう
小足は頭を上げなかった。
されど、御座を安んずるとは、外より軽く見られぬことでもございます
国子は、そのときだけ、わずかに目を細めた。
田村皇子は、兵を否とは申されぬか
小足はすぐには答えなかった。
否とも、軽々には申されますまい
それは、是ということか
それもまた、軽々には申されますまい
そう言って、深く礼をした。
鎌足には、そのやりとりが山背皇子の側とは正反対に見えた。
山背の側は、
兵を言えば内が狭くなることを先に案じる。
田村の側は、
否とも是とも先に言わぬことで、自らを損なわぬようにしている。
だが、両方に共通しているものもあった。
どちらも、すでに兵ということばの影を知っている。
まだ口の外へ大きく出さぬだけである。
御座の近くでも、ことばは選ばれていた。
大王は、御食子の病をなお気にかけておられた。
そこへさらに、海の向こうの道の細りが重なる。
女官を通して下ることばは、いつもより慎ましかった。
来たのは采女臣伊理比売であった。
年は若くない。だが、老いてもいない。ことさらに飾らぬ衣で、静かに板敷へ上がった。御座近くにある者の静けさである。
伊理比売は礼をして言った。
大王は、外のこと軽からずとおぼしめす
されど、兵のことは人の死を近づける
軽々に定めてはならぬ、と
そのことばは、拒みではない。
だが、ゆるしでもない。
国子は、その返しを聞いて、しばらく何も言わなかった。
伊理比売はさらに言った。
御座は、御食子の君の病もまた案じておらるる
その上に、兵まで重ねること、心穏やかならず、と
国子は深く礼をした。
ありがたく、承ります
伊理比売は去った。
だが、その去り際の足の運びまで、どこか重かった。
川瀬が言った。
御座は、怖れておられます
怖れるのは当然だ
国子は低く答えた。
兵は、人を外へやるだけではない。内へも、刃の気を呼ぶ
鎌足は、そのとき思った。
ここまで来ると、もはや半島のことだけではない。
派兵を定めるとは、倭の朝が自らの形をどう保つかを、もう一度量りなおすことでもある。
その夜、川瀬は外の者どもを一か所へ集めた。
難波連網手。
津守首広手。
大蔵史真咋。
馬を見ている額田部牛甘。
鍛冶のことに通じた韓鍛冶首麻加。
皆、板敷の端よりもさらに外、火の届ききらぬところにいた。
だが、そこに集まっているものの方が、明るい座の中よりよほど実のあることを話しているように、鎌足には思えた。
川瀬が言った。
兵は足りる。されど、足る兵と使える兵とは同じではない
それぞれ申せ
最初に答えたのは牛甘であった。
馬は出せます
されど、筑紫まで保つ馬と、その先まで保つ馬とは違います
浜へ下ろせば痩せる馬もおります
次に麻加が言った。
刃は打てます
されど、馬具の金、船に積む釘、革を留める小き物、そういうものから先に足らなくなります
真咋が言った。
粮は積めます
されど、積んだ粮を誰が守るかまで要ります
倉から出しただけでは、まだ兵の口には入りませぬ
広手が言った。
船は出せます
されど、出す船と戻す船は違います
荒れれば、戻る船から先に減ります
最後に網手が言った。
難波は持ちましょう
されど、筑紫へ寄せたのちのことは、筑紫の手を借りずには済みませぬ
対馬へ回す分も、いまより重う見ねばなりますまい
皆が黙ったあとで、川瀬が国子へ向かって言った。
急がねばならぬ折にございます
されど、急ぐほど、誰を前へ置くかを誤りやすうございます
国子はすぐに答えなかった。
やがて低く言った。
そなたも、わたくしが急ぎすぎると申すか
川瀬は頭を下げたまま言った。
申します
急がぬでは間に合わぬ
されど、急ぐほど、あとに残る形は深くなります
国子は、少しのあいだ答えなかった。
やがて低く言った。
兄者と同じことを申す
川瀬は黙った。
否みも、うなずきもしない。
それがこの人の答え方であった。
御食子は、まだ臥していた。
だが、ある夕べ、国子を枕辺へ呼んだ。
鎌足もまた、戸口の内にいた。
国子
は
そなた、押しておるな
国子は少しも否まなかった。
外が待たぬゆえにございます
御食子は目を閉じたまま言った。
待たぬものを前にして、こちらまで急げば、足を踏み外す
されど兄者、待たぬものを待たせるのが政なら、待たせきれぬ時もございます
御食子は、少し咳いた。
それを鎮めてから、ようやく言った。
山背皇子は、何と
内が狭くなることを案じておられます
田村皇子は
否とも是とも、先には申されませぬ。されど、御座の安きは外より軽く見られぬことでもあると
御食子の眉が、わずかに動いた。
どちらも、それぞれに己の立つところから見ておる
嶋大臣は
議の形を崩すなと
御食子は、そこで目を開けた。
それを忘れるな
声は弱かった。だが、弱いからこそ、かえって深く入った。
兵を出すか否かより先に、誰の議で出たかが残る
それが、のちの朝に残る
国子は、深く頭を下げた。
心得ております
御食子は、しばらく弟を見ていた。
そして、静かに言った。
心得ておる者ほど、前へ出すぎる
国子は、答えなかった。
その沈黙は、反発ではなかった。
だが、引きもまたしなかった。
鎌足は、その二人を見ていた。
兄は、なお形の壊れを怖れている。
弟は、形のうちにとどまっていては間に合わぬと見ている。
どちらも誤ってはいない。
だが、同じ場所には立っていない。
その夜、川瀬は遅くまで外を歩いていた。
難波へ走る者。
嶋大臣のもとへ返しを運ぶ者。
御座の近くへ伺候する者。
山背、田村、それぞれの近いところへ気配を探る者。
筑紫へ、対馬へ、まだ命とはならぬ備えだけを伝える者。
まだ朝議は開かれていない。
だが、朝議で言われるべきことばの半ばは、すでに廊の外、庭の端、門の近く、夜の馬の鼻息のあいだで、形を取りはじめていた。
鎌足は、その夜も眠れなかった。
思えば、これまでの朝も、決して一つの座だけで動いていたのではない。
だが今は、それがいっそう見えていた。
嶋大臣が一人で定めぬように量り、
山背皇子が前へ押し出されぬように沈み、
田村皇子が軽々に手の内を見せず、
大王が兵の怖ろしさを忘れず、
国子がなお外の急を押し、
御食子が床の上からなお形の崩れを恐れ、
川瀬がそれらのあいだを、まだ詰まらぬようにつないでいる。
朝議は、まだ来ていない。
だが鎌足には、すでに始まっているように思われた。
議とは、座に着いてから始まるものではない。
座に着く前に、どこまで人の胸の内へことばを入れておけるか。
その積み重ねが、やがて衆議という形を取るのであった。
夜の空は低く、雲はなお重かった。
雨はまだ落ちなかったが、朝の上には、すでに降るべきものが満ちているようであった。




