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第13話 国子


   十九


 御食子の病は、三日で癒えるものではなかった。


 熱は上がりきることもなく、下がりきることもなかった。朝になれば少し身を起こし、近しい者の声を聞く。だが長くは保たぬ。昼にはまた臥し、夕には咳が出る。その繰り返しであった。


 御屋の内では、誰もそれを重く言わなかった。


 重く言えば、そのことばが先に走る。

 走れば、人の心も先に崩れる。


 ゆえに皆、病は浅くないとも、深いとも言わぬ。ただ、御食子の君はなお人を見失わず、折々には簡もご覧になる、とだけ外へ伝えた。


 だが、伝え方が慎ましいほど、朝の内では別のものが濃くなった。


 待ちである。


 誰もが、何かを待っていた。

 御食子が起きるのを待つ。

 半島より次の報が来るのを待つ。

 嶋大臣が何を言うかを待つ。

 大王の御座がどこまで静けさを保つかを待つ。


 待つということは、動かぬことではない。

 動きながら、なお決めぬことである。


 政の歩みは止められぬ。ゆえに、人の手は動く。群臣らの手は、いつもより絶えず行き交っていた。その上に立つべき大臣の返しを待ちながら、御食子の不在の分だけ、皆の手が一つずつ多く動いていた。


 鎌足は、そのことを日ごとに知った。


 簡は絶えず来た。

 難波より。

 河内より。

 半島より戻った者の口より。

 信濃の牧より。

 そして、いまだ名の見えぬところからも、遠く細い糸のようにつながってくる報があった。


 そのどれもが、すぐに朝議へ上がるわけではない。

 いったん国子の手に渡る。

 あるものは川瀬のところへ回る。

 あるものは写され、あるものは伏せられる。

 あるものは、まだことばになる前に、ただ人の顔つきだけを変える。


 そうした中で、鎌足の目に少しずつ留まる者どもがあった。


 史部真根ふひとべのまねという吏がいた。


 年は四十に届くか届かぬか。背は高くなく、顔立ちにもこれというところはない。だが、簡を取り、開き、重ね、脇へ除ける手つきが妙に静かであった。ことばの強い弱いではなく、どの簡を先に見せ、どの簡をまだ見せぬか、その順を整える手であった。鎌足は、真根のような者こそ、朝の見えぬ骨を支える正式の吏であるのだと思いはじめていた。


 もう一人、大蔵史真咋おおくらのふひと まくいという吏もいた。


 こちらは倉を預かる吏である。顔色は青く、手は痩せていた。だが、米、塩、乾飯、布、鉄、革、その名を口にするときだけ声が崩れなかった。数を扱う者の声であった。倉に積むことと、そこから先へ保たせることとは違う。その違いを、この男は身にしみて知っているようであった。


 難波からは、難波連網手なにわのむらじあみての名を聞くことが増えた。


 潮の匂いのする男で、船があることと、船が動くこととは違うと繰り返し申す者であると、鎌足は川瀬のことばの端で知った。


 川瀬のまわりにも、いつのまにか顔を覚えた者が増えていた。

 津守首広手つもりのおびとひろて

 額田部牛甘ぬかたべのうしかい

 韓鍛冶首麻加からかじのおびとまか


 皆、板敷の奥へ深く入る人々ではない。

 だが、奥で決められることが、外で本当に形になるかどうかを量る者どもであった。


 ある夕べ、難波より急ぎの使いが着いた。


 日がまだ落ちきらぬうちであった。馬は汗を吹いていた。使いの者は、板敷の端まで来ると、膝をつく前に息を整えた。その息の整え方が、かえって事の切迫を知らせた。


 国子が出た。

 鎌足もまた、その少し後ろにいた。


 使いは簡を差し出した。


 難波津より。百済の伴人、重ねて至る。任那のこと、急を告ぐと申す


 国子は簡を開いた。二行ほど目を走らせたところで、その顔つきが変わった。変わったといっても、大きくではない。眉がわずかに寄り、目の奥だけが深くなった。


 どうだ


 国子の問いに、使いは口で補った。


 任那の名はなおございます。されど、名の下に集まる人と物とは、前のごとくにはございませぬ


 新羅か


 はい


 使いは低く答えた。


 新羅は兵を前へは見せませぬ。先に、残っている者どもへ手を入れております。工人、船人、馬飼、ことばをつなぐ者、津に出入りする者、そのような動く手から先に取っております


 国子は黙った。


 使いはさらに言った。


 百済はなお倭を頼ります。されど、頼ることと、従前のごとく一つの手に収まることとは、もはや同じではございませぬ。向こうでは、皆が皆、古い名を口には致します。されど、その名の下で実際に動いているものは、もう散っております


 鎌足には、そのことばが、先に帰った磐金の報と重なって聞こえた。


 絶えたのではない。

 残ってはいる。

 だが、一つの手のうちにはない。


 国子は簡を閉じた。


 嶋大臣へ上げねばならぬ


 使いはなお頭を下げたままでいた。


 ほかにもございます


 申せ


 向こうでは、倭がこのまま手を出さぬなら、新羅の手はなお深く入りましょう、と見る者が増えております。倉下どのも、任那にて同じ気配を見ておられようと


 国子の目が動いた。


 倉下くらじは、まだ戻らぬか


 はい。任那に留まり、なお見定める由にございます


 そのことばに、鎌足は胸のうちで息を止めた。

 倉下はいまだ向こうにいる。

 ならば、いま上がっているのは、なお途中の報である。

 途中の報でありながら、もうここまで事は詰まっている。


 国子は、しばらく黙っていた。


 やがて言った。


 その者、休ませよ。食わせよ。だが、今のことばは、まだ外へ広げるな


 使いは深く礼をした。


 は


 使いが退いたのち、国子はすぐには動かなかった。


 鎌足には、その沈黙が、ためらいというより、いま聞いたことをどこまでことばにするかを量っている沈黙のように見えた。


 そこへ、川瀬が来た。


 川瀬は使いと入れ違いであったらしい。中へは深く入らず、戸口近くで礼をした。


 聞いたか


 国子が問うた。


 半ばは


 道は


 細っております。されど、なお通っております


 川瀬は短く答えた。


 鉄の数も、革の数も、船の寄る数も、すべて減っております。されど、減りながら続いております。ゆえに皆、なお保つと申します


 国子は低く言った。


 保たぬな


 川瀬は少しだけ間を置いた。


 このままでは


 その言い方に、鎌足は驚いた。


 川瀬はふだん、そうとはっきり踏み込んで言わぬ人である。道を見、人を見、数を見ても、それをことばにする時はぎりぎりまで骨だけにする。だが今は、その骨の先にあるものが、もう誰の目にも見えはじめているのであろう。


 国子は、川瀬を見た。


 兄者に上げるには


 上げるほかございますまい


 川瀬は言った。


 御食子の君が床にあろうとも、外は待ちませぬ


 そのことばは、冷たくはなかった。

 ただ事実であった。


 その夜、嶋大臣のもとへ、ふたたび使いが走った。


 報である。


 鎌足は、それだけで、空気の違いを知った。人の歩く速さが違う。簡を包む手つきが違う。待たせる者と、先に通す者の選び方が違う。


 国子は、自ら使いの文言を量っていた。


 任那の名はなお残る。

 されど、名の下の人と物とは散りつつある。

 新羅は兵より先に手を入れている。

 百済はなお頼るも、頼りきれず。

 倉下はなお任那にあり。

 このまま動かねば、向こうで倭の手はさらに軽く見られよう。


 鎌足は、そのことばの並びを聞きながら思った。


 これだけを聞けば、もう動くほかないように聞こえる。

 だが、動くとは何か。

 兵を出すことか。

 名を立てることか。

 朝を固めることか。


 そのどれもが、まだ一つにはなっていない。


 翌日、嶋大臣の返しが来た。


 短い返しであった。されど、短いからこそ重かった。


 事は軽からず。衆議に決すべし


 それだけであった。


 国子はそれを読み、しばらく何も言わなかった。


 川瀬もまた、そのことばを聞いて、顔を動かさなかった。


 鎌足だけが、その短さのうちに、かえって大きいものを感じた。


 衆議に決すべし。


 それは、嶋大臣がただちに派兵を命ずるつもりも、派兵を禁ずるつもりもないということでもあった。

 だが同時に、自分一人の胸のうちで押しとどめきれぬところまで、事が来ているということでもあった。


 嶋大臣は、なお一人で決めぬ。

 されど、皆で決める道を開きはじめた。


 その日の夕刻、国子は初めて御食子の寝所で、少し強いことばを口にした。


 鎌足は戸口の内で控えていた。

 御食子はまだ臥していた。だが、意識は明らかであった。


 国子が言った。


 兄者、嶋大臣は衆議に決すべしと


 御食子は目を閉じたまま答えた。


 そうであろうな


 道は、もう待たぬところまで来ております


 国子の声は低かった。だが、その低さの底に焦りがあった。


 御食子はすぐには答えなかった。


 やがて言った。


 議は、道を開くこともある。されど、議は、人の手を見えるところへ並べることでもある


 国子は退かなかった。


 見えるところへ並べねば、もう動かぬのではありませぬか


 御食子はようやく目を開けた。


 だからこそ、怖ろしいのだ


 沈黙が落ちた。


 国子は、それ以上は押さなかった。押しても、いまの兄は動かぬと知っていたのであろう。


 だが、その目はなお引いていなかった。


 鎌足には、その場ではっきり見えた。


 御食子は、いまなお決めぬことで朝を保とうとしている。

 国子は、なお決めぬことの限りが近いと見ている。


 どちらも朝を思っている。

 どちらも理に外れてはいない。

 それでも、その二つは少しずつ、同じところには立てなくなっている。


 その夜、鎌足は眠れなかった。


 廊の外には風があり、雲が低く流れていた。雨にはならなかったが、空は一晩じゅう、重いままであった。


 彼は思った。


 御食子が病み、

 国子が前へ出て、

 嶋大臣が衆議を口にし、

 半島の道はなお痩せてゆく。


 いま朝の中では、まだ誰も大声を上げていない。

 だが、ことはもう、声を上げぬまま先へ進みはじめている。


 静けさは、なおある。


 だがその静けさは、前のように、決めぬことで保たれている静けさだけではなかった。

 何かを決める方へ、皆がまだことばにせぬまま押されてゆく、その手前の静けさでもあった。


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