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第12話 薄くなるところ


    十八


 夏へ入りきる前のころであった。


 朝の空は晴れていたが、日が高くなるにつれて、光の底に薄い重みが溜まるような日であった。風はある。だが抜けぬ。庭の草も、木の葉も、動いてはいるのに、どこか息を詰めているように見えた。


 その朝、御食子は起きなかった。


 まったく起きぬというのではない。夜明け前にいったんは身を起こし、届いていた簡を二、三枚見たともいう。だが、まもなくまた臥した。熱があるとも、胸が塞がるとも、はっきりしたことは外へは告げられなかった。ただ、しばらくは人を減らせ、急がぬことは持ち越せ、とだけ命が下った。


 それだけで、御屋の空気は変わった。


 人はなお動いている。簡も来る。馬も出入りする。門のところで止まる荷もある。だが、その動きのどれにも、いつもなら途中で御食子のところへ上がるはずの一筋が消えていた。消えているのに、誰もそのことを口にしない。口にせぬまま、その不在を埋めようとしている。


 鎌足は、板敷の端に控えていた。


 呼ばれはしない。

 だが、退けとも言われぬ。


 そういう時は、そこにいて見ておれ、ということであることを、もう知っていた。


 川瀬が、朝の早いうちから絶えず出入りしていた。外のことは、この人がまとめているのだと鎌足には分かった。門で詰まったものをほどき、使いの順を入れ替え、急ぎの荷だけを先へ通し、待たせる者には待たせるだけの場所を与える。ことばは短い。だが、その短さのうちに、いま誰の耳へ何を届かせ、何をまだ伏せておくかまで入っているようであった。


 国子もまた、朝から中へ入っていた。


 兄の実の弟である。されど、その日はただの弟ではなかった。御食子の前へ上がるはずであった報や問いが、いったんはその人のところへ集まっていることを、鎌足は人の動きで知った。国子は人を返す。簡を分ける。あるものには手をつけず、あるものにはすぐ返しを出す。迷っているようには見えなかった。だが、迷わぬことと、重くないこととは同じではない。


 ときおり、奥の方から咳が聞こえた。


 低く短い咳であった。長くは続かぬ。されど、それがひとたび聞こえるたび、板敷にいる者たちの肩のあたりが、目に見えぬほどわずかに固くなるのを、鎌足は見た。


 翌日の昼近くになって、嶋大臣のもとより使いが来た。


 使いは供を二人だけ連れていた。だが、その二人の歩き方だけで、軽い使いではないと知れた。ことばも短かった。


 大臣家より。御食子の君の御容体をうかがう


 国子がそれを受けた。


 御食子兄は、いま人に会うてはおられぬ。されど、お心は変わりなくございます。急ぎのことあらば、わたくしが承る


 使いは、それで引かなかった。


 大臣には、病とだけでは申し上げにくい


 国子は少し間を置いた。


 では、こうお伝え申せ。熱あり。されど、人を見失うほどではなし。簡も少しはご覧になった。ご心配には及ばぬ、と


 使いは頭を下げた。だが、その下げ方には、まだ案じるものが残っていた。


 鎌足は、そのやりとりを見ながら思った。


 嶋大臣は、御食子が病んだと聞いて、ただ病を案じているのではない。

 御食子が今、誰に会えず、何を止め、何を国子に渡しているか、そのことを知ろうとしているのである。


 それは見舞いである。

 だが同時に、朝のどこが薄くなったかを測ることでもあった。


 その日の午後、山背皇子の御屋からも人が来た。


 近習がひとり、供も少なく、ひどく静かな足取りで上がってきた。嶋大臣の使いとは違って、名乗る声まで低かった。


 山背皇子の君より、御食子の君へ。お見舞い申し上げる


 この使いにも、国子が出た。


 皇子には、御食子の君、床に臥しておらるるも、心は明らかにございます、とお伝え申せ。いま少しお静まりあれば、必ずやお目にもかかりましょう、と


 近習は深く礼をした。そのまま去るかと思われたが、ふと顔を上げた。


 皇子は、近ごろ朝のこと、御食子の君とよくお量りでございました


 国子は、そのことばを受けても顔を動かさなかった。


 いまは、お量り申すことも、少しお休みいただくほかございますまい


 近習は、答えず、ただ再び頭を下げて去った。


 鎌足は、その背を見ながら思った。


 山背皇子もまた、御食子の病をただ人の病としては受けていない。

 これまで、ことばにせずとも通じていたものが、いま少しずつ滞るのを見ているのである。


 山背皇子は、自ら前へ出る人ではない。されど、その人が前へ出ぬまま立っておられるためにも、どこかで御食子のような人が、手と手のあいだをつないでおらねばならぬ。鎌足には、そのことが少し分かるようになっていた。


 夕方近く、宮の奥から女官がひとり来た。


 御座の近くに仕える者であった。衣の乱れもなく、ことばも静かである。だが、その静かさがかえって事の重さを知らせた。


 大王が、御食子の病を案じておられます


 そのことばに、周りの者はみな頭を下げた。


 女官は続けた。


 このところ、内外の報、ことに海の向こうのこと、御食子の君に量らせておられた。御病みとあれば、御心にかかると仰せである


 国子は、深く礼をした。


 ありがたく、申し上げます。わが兄、病のうちにも、御座を案じておられます


 女官はうなずいた。


 御座もまた、御食子の君を案じておらるる


 それだけ言って、去った。


 鎌足は、その言い方を胸にとどめた。


 御食子が御座を案じる。

 御座がまた御食子を案じる。


 それは美しいことばのようでもあった。だが、そのうしろには、もっと固く、もっと現実のことがあるように思われた。御座は高いところにある。されど、その高みへ届く前に、御食子のところで量られ、切られ、整えられてきたものが多い。いま、その手が弱れば、御座へ届くものの形そのものが変わるのだ。


 日が落ちるころ、ようやく鎌足は、御食子の寝所の近くへ呼ばれた。


 入ってよいのは、戸口の内側までであった。薬草の匂いがした。火は明るくない。御食子は横になっていた。顔色は悪い。だが、目はまだ澄んでいた。


 鎌足


 は


 そこにおれ


 鎌足は膝をついた。


 御食子は、しばらく何も言わなかった。息が少し浅いように見えた。だが、意識は明らかであった。


 人は、ひとり欠けただけで、すぐ騒ぐものではない


 不意にそう言った。


 されど、ひとり欠けたところへ、何が集まり、何が滞るかで、その人がどこにおったかが知れる


 鎌足は黙っていた。


 今日、何を見た


 大臣家より使いがございました。山背皇子の御屋よりも。御座の近くからも


 御食子は目を閉じたまま、かすかにうなずいた。


 それだけではあるまい


 川瀬が外をつないでおりました。国子どのが、内へ入るものを分けておられました


 御食子はそこで、ようやく目を開けた。


 よい


 少し間があった。


 病とは、身のうちだけのことではない


 御食子は低く言った。


 人がどこで止まり、どこで困り、誰を見に来るか。それが外へあらわれる


 鎌足は、そのことばを深く聞いた。


 御食子はさらに言った。


 嶋大臣は、わたくしの病を案じておられる。山背皇子もまた、案じておられる。大王もまた、案じておられる。されど、皆、ただわたくし一人の熱を案じておるのではない


 御食子は少し咳き込んだ。国子が一歩進みかけたが、御食子は手をわずかに動かしてそれを止めた。


 朝のどこが薄くなるかを、見ておられるのだ


 鎌足は頭を下げた。


 それは、怖ろしいことでございますか


 御食子はすぐには答えなかった。


 怖ろしい


 やがてそう言った。


 だが、怖ろしいからこそ、人はその薄くなったところへ手を当てる。朝とは、そのようにして保つものだ


 鎌足は、そのことばを聞きながら、昼のうちに見た人々の動きを思い出していた。嶋大臣の使い。山背皇子の近習。御座の近くの女官。川瀬。国子。誰も騒いではいなかった。だが、皆がそれぞれ、薄くなったところへ手を当てようとしていた。


 御食子は、目を閉じたまま言った。


 鎌足よ


 は


 よく見ておけ


 人が立つところは、一つではない。御座の前に立つ者もおる。外の道に立つ者もおる。人のあいだに立ち、まだぶつからぬようにする者もおる


 鎌足は、深く頭を下げた。


 夜になると、御屋はまた静かになった。


 静かである。だが、昼よりもさらに、人の気は張っていた。御食子が眠れば、皆が少し安んじる。咳が出れば、皆がまた息を詰める。川瀬はなお外を歩いていた。国子はまだ奥にいた。簡を持つ者は減らず、灯の影だけが長く板敷を渡っていた。


 鎌足はその夜、はじめて知った。


 一人の病は、一人の病にとどまらぬ。


 御食子が床にあるということは、

 嶋大臣にとっては、朝の一つの支えが弱ることであり、

 山背皇子にとっては、ことばなく通じていた手がひとつ届かなくなることであり、

 大王にとっては、御座へ届く前に朝を量る眼が、ひとつ曇ることであった。


 そして、鎌足にとっては、

 これまで黙ってそこにあるように見えていた朝が、

 実は何人もの手で、危うく支えられているのだと知る夜であった。


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