さあ、クッキーを作ろう
「……なんでお前がいるんだよ」
僕のアパートの前には麦嶋がいた。偶然遭遇した、という感じではなく、僕達がここに来るのを待っていた様子だった。
「心配だからよ……三枝さんが」
余計なお世話だ。さっきだって少し怪しげだけれども、会話もできたのだ。心配することなど一つもない。
「この人は?」
三枝さんの不安そうな声。ほら見ろ、彼女だって奇妙に思っているじゃないか。二人の時間を邪魔しないでいただきたい。
僕の心の声が届かないのか、麦嶋は三枝さんの方に近づいていく。
「はじめまして……じゃあないかな。線形代数の授業では一応会ってるし。私の名前は麦嶋香織。そこの羽田くんの幼馴染よ。この男が変なことをしようとしたらすぐにここに連絡してね。警察呼ぶから」
そんなことするか、と突っ込んでいる内に、麦嶋は一枚のメモを三枝さんに差し出す。三枝さんもその紙を黙って受け取る。
「私の要件はこれだけ、じゃあ、またね」
そう言ってそそくさと帰っていく。何だったのだろうか。
三枝さんの方はというと、無表情でその紙を見つめながら携帯を弄っている。連絡先を登録しているのだろうか。もしかする
と本気で警察を呼ぶことがあるのかと思っているのかもしれない。努めて紳士に振る舞う必要がありそうだ。
気を取り直して、僕は三枝さんを家に招き入れる。
部屋の中には大きめな袋が一つ無造作に置いてある。袋の中身は今日作るクッキーの材料だ。今日の日のためにわざわざ買ってきたのだ。力の入り具合が違う。
買ってきたものの中には薄力粉や卵といった基本的な材料の他に、いろんな種類の調味料を買い揃えている。ジャム、アーモンド、ピスタチオ、チーズ、レーズンといった定番のものから、胡椒、醤油、ラー油、わさびといった一見、クッキー作りにそぐわないものまである。これだけ見たら、とてもクッキー作りを始めるなんて思う人はいないだろう。何かの罰ゲーム用のお菓子を作っているといったほうが、まだ現実味があるかもしれない。
ちなみに、これらの材料はすべて三枝さんの要望に沿って買ってきたものである。三枝さんは本当にクッキーを作るつもりなのだろうか。
「羽田さん」
三枝さんが僕に呼びかける。とても澄んだ、聞き取りやすい綺麗な声だ。
「これから、クッキーを作りたいと思います」
もちろん、そのために今日は僕の家に集まったのだ。まあ、僕としてはクッキー作りは口実みたいなもので、そこまで重要じゃあないんだけど。
「……作りたいと思うのですが、残念ながら、私はクッキーが作れません」
なんと、三枝さんはクッキーを作ったことがないのか。なるほど、だからクッキーを作れる僕に連絡を取ったのか。
「もちろん、作り方なら僕がレクチャーするよ」
三枝さんと一緒のクッキー作り。今日のメインイベントだ。これを思い浮かべるだけで朝からワクワクが止まらなかったのだ。どれだけ楽しみにしていたことか。
僕の回答に、三枝さんはゆっくりと首を振る。えっ、違うの?
「いいえ、私は作りません。諸事情により、作ることができないのです。ですので、申し訳ないのですが、クッキー作りの一切を羽田さんにやってもらいたいのです」
「それは構いませんけど……」
三枝さんはクッキーの作り方を教わるために、来たわけではないということなのだろうか。それでは今日は何のためにクッキー
を作るのだろうか。
「そうですね。確かに不思議に思うのも無理もないですね。クッキー作りの目的を話していませんでしたから。先程否定したように、今日の目的は、私がクッキーを作れるようにすることなどではありません。私がクッキーを作れるようになったところで、特にメリットなんてありませんから。今日の本当の目的は……」
「目的は?」
僕が促すと、三枝さんが続きを答えた。
「美味しいクッキーを作ることです」
あまりにも平凡な答えに、拍子抜けしてしまった。おいしいクッキーかあ、そりゃあ、まあ、作るならおいしいものを作るようにはするけど。何というか、それは当たり前の話ではないのだろうか。
「三枝さん、それなら僕みたいな素人が作ったクッキーじゃなくて、店で売ってるプロが作ったクッキーを買えばいいんじゃないですか」
思わず、本音が出てしまった。僕は三枝さんと一緒に過ごしたいだけなので、理由なんてどうでもいいはずなのだが、つい勢いで聞いてしまった。これは明らかに墓穴ではなかろうか。このまま打ち切って帰ってしまったらどうしよう。
そう思って三枝さんの方を見てみると、いつも通り冷たい表情をしている。毎日こっそり見てきた僕なら分かる。これは三枝さんのニュートラルの状態だ。僕の発言の内容など想定の範囲内なのかもしれない。
「いいえ、それでは足りません。店で売っているようなクッキーでは、世界に流通しているようなクッキーでは不十分なのです」
「プロにまさるようなクッキーを作るということですか」
それは無理だ。絶対に無理だ。確かに僕は小さい頃からクッキー作りをしてきたけれど、別に本気で取り組んできたわけではない。お菓子作りのプロを超えるものなど作れるはずがない。
そんな不安を察したのか、三枝さんが僕の発言を否定する。
「そうではありません。私の考えているクッキー作りは、羽田さんの考えているものとは違います。いいですか、そもそも美味しいとは何でしょうか」
「それは」
僕はとっさに答えられない。意外と難しい質問だ。普段、そんなこと考えたことがないからだろうか。
「味覚というのは人によって異なります。甘いものが好きな人がいれば嫌いな人がいます。クッキーのようなサクサクした食感が好きな人がいれば、ゼリーのようなプリプリとした柔らかい食感が好きな人もいます。匂いもそうですね。甘い匂いが苦手な人がいれば、香辛料の効いたスパイシーな匂いが好きな人もいます。だから、美味しいという感覚は人によって異なるんです」
確かにそうだ。僕のようにクッキーの味、食感、匂い、すべてが好きな人もいれば、麦嶋のように甘い匂いを嗅ぐだけでしかめっ面をする人もいるのだ。美味しい、というのは人によって違うというのも考えてみれば当たり前の話だ。
「もちろん、万人が共通して好きな味というものもあるでしょう。人気な料理店などにいけば少なからず、そうした味に出会うことができます。グルタミンなどといった旨味成分の含有量などが美味しさに関与しているという研究結果も出ているようです。そういったものが共通項の一端を担っているのかもしれません。しかし、私はそういった一般的な美味しさ、万人が共通して美味しいと感じるものに全く興味がありません。私は、私だけが美味しいと感じる、私だけの味に興味があるのです」
自分だけが美味しいと感じる、自分だけの味。他人にとって三十点ぐらいでも、自分にとって百点の味を求めているということなのだろうか。それなら、最初から高級店に行って周りにとっての九十点以上の料理の中から、満点の味を探すほうが楽だと思うのだが、口ぶりから言うと、そういうものではないらしい。
「味だけではありません。視覚も嗅覚も聴覚も触覚も同じです。私と羽田さんでは、他の人では、見えている景色も、匂いも、音も、触感もすべて違うんです。だから、私は、私だけが美しいと思うもの、綺麗だと思うもの、心地の良いと思うものを追い求めているんです」
僕は三枝さんの言葉に驚きを隠せない。もちろん、自分だけの味覚を求めているという三枝さんの話も十分衝撃的ではあったが、僕が一番驚いたのはそこではない。僕が一番驚いたのは、三枝さんがこんなにも喋っている、というところだ。いつもクールで、人を寄せ付けない三枝さんが饒舌になっている。しかも、他でもない僕に対して話しかけている。これは、今まで僕が見てきた三枝さんからは考えられないことだ。これが本当の、素の状態の三枝さんなのだろうか。
「ひとつ質問があるんですけど」
「何でしょうか」
僕が口を挟むと、三枝さんは冷淡な目を向けながら返答する。せっかく気持ちよく話していたのに水を差してごめんなさい、と心の中で謝りながら僕は質問する。
「どうしてクッキーなんですか」
自分だけの味を探すのにどうしてクッキーなのだろうか。僕はそこが気になって仕方がなかった。
「それは……」
三枝さんが口ごもる。視線を少し上に向け、考える素振りを見せる。何か話せない理由でもあるのだろうか。僕がそう思っているうちに考えがまとまったのか、三枝さんは真っ直ぐ僕の方に向いてこう答える。
「私にとって生活の一部だからです」
ああ、なるほど。三枝さんも僕と同じでクッキー愛好家なのだ。クッキーが好きで好きで堪らないのだ。それなら、自分だけのクッキーを追い求めるのもよく分かる。
「そうなんですか。三枝さんもクッキーが好きなんですね。それで、今日のクッキー作りは、一体何をすればいいんでしょうか」
そう言い終わった後に、僕は何か違和感を感じた。一瞬、三枝さんの表情が固まっていたのだ。何か余計なことを言ってしまったのだろうか。そんなことを考えているうちに、三枝さんはいつもの冷たい表情に戻っていた。
「……今日のクッキー作りは――」
言葉の途中でピタリと口を閉ざした。どうしたのだろうを様子を伺うと、三枝さんは携帯を取り出し、操作をし始めた。携帯に何かメモをしているかなと、三枝さんの動向を伺っていると、ピロリと僕の携帯が鳴った。携帯を見るとメールが届いていた。
三枝さんからだった。
『今日のクッキー作りはプレーンクッキーを作って下さい。その後に、色々調味料をつけてみて味を確かめましょう』
また携帯で返答する三枝さん。こちらも負けじとメールで返答してみる。
『どうしてメール何ですか』
三枝さんからすぐに返信が来る。
『今日の発言限界数を超えてしまったので……』
……三枝さんは本当に変わった人だった。




