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クッキーフレンド  作者: 加護景
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特別なクッキーはもう目の前

「それってどういう……」


 いや、僕には思い当たる節があった。忘れられもしない。三枝さんと初めてクッキー作りをあの日、彼女は僕の指を甘噛したのだ。何の意図があったのか分からなかったが、今ようやく理解できた。あの時、三枝さんは僕の、いや、人の形をしたクッキーの味を確認していたのだ。


「不思議ですよね。見た目はクッキーでも、味はクッキーじゃないんですよ」


 三枝さんはポケットの中からあるものを取り出した。それは白い布に包まれていた。ひらり、とその布を解くと中から鈍色の光が垣間見えた。


 三枝さんの手には確かに包丁が握られていた。


「中身はどうなのか、試すには丁度いい機会です。ここまで知られてしまっては生かして返すわけには行きませんからね」


 僕に包丁を突きつける。三枝さんから包丁を取り上げられれば良いのだろうが、残念ながら僕はそこまで運動神経が良いわけではない。必死で抵抗すれば何とかなるかもしれないが、きっと無傷では済まないだろう。刺された場所が悪ければ死んでしまうかもしれない。所謂、絶体絶命というやつなのだろう。


 すぐに逃げるべきだ。誰もがそう思うはずだが、不思議とそんな気持ちにはなれない。動揺して動けないわけではない。頭は実に冴えているし、冷静そのものだ。


 ここで逃げるわけには行かない。そうすれば、今までの決断も、覚悟もすべて無駄になってしまう。それに、まだ、僕は三枝さんに聞くことが残っている。


 僕は三枝さんのことを知らなければならないのだ。


「三枝さん」


 なんですか、と三枝さんは答える。三枝さんの手元を見ると両手でしっかりと包丁が握られている。その矛先は相変わらず僕の方へと向いている。


「あなたは人を殺しても平気なんですか」


「大丈夫ですよ。私には人には見えませんから。事後処理は少々面倒ですが」


 僕の言葉に無表情で答える。


「本当はそんなことしたくないんじゃないですか」


「言っている意味がわかりません」


「ずっと気になっていたんです。三枝さんはこのクッキーだらけの世界を何でもないように話すことができるのかと。まるで自分の感情を押し殺して話しているように、そう聞こえてならないんです。本当は辛いんじゃないですか。苦しいんじゃないですか」


 自分が信じてきた常識がすべて覆された世界だ。ずっと過ごしてきて辛くない訳がない。苦しくないわけがない。


「誰かに分かってほしかったんじゃないですか。自分がどんな目に遭っているのか。どんな思いで日々生活をしているのか。伝えたかったんじゃないんですか」


 それでも、周りの人間はクッキーにしか見えない。自分がこんな状況になる原因を作ってしまった親にも、何の改善策も提示できない医者にも頼れない。そんな状況で頼れるのは自分一人しかいない。自分しか、理解者がいないのだ。


「伝えられる人がいないから、頼れる人がいないから、今もこうして、一人でこの世界と戦っているんじゃないのですか」


 あの日、三枝さんと病院前で話した時を思い出す。


 普通とは何なのか、そう問いかけていた。僕はただの謎掛けだと思っていた。でもそれは間違っていたのだ。具合が悪いことも、歩けなくなった人の例も、すべて自分の姿を重ねていたのだ。


 あの時、三枝さんは元の世界に戻るために、昔いた普通の世界に戻るために一人で戦っていることをひっそりと明かしていたのだ。


「でも、もう大丈夫なんです。三枝さんの話を聞く人は確かにいるんです。もう感情を押し殺して、一人ぼっちで戦わなくてもいいんです」


「違います。私は、一人でも、いいんです」


「無理しなくてもいいんです。あなたを分かってくれる人なら少なくともここにいますから」


「分かって欲しいなんて思っていません。こんなクッキー風情に、私の気持ちが分かるはずがありません。そう、理解できるはずがないんです。何年も、クッキーに囲まれて過ごす日々なんて、クッキーだけしか食べられない生活なんて想像できるはずがないんです。それに……」


 三枝さんの双眸が真っ直ぐ僕を捉える。濡れたように黒い瞳が僕を覗いている。その瞳にはまるで強い想いが、意思が宿っているように、そう思えてならない。


「これは私への罰なんです。あの日、私が辛いことから逃げ出したから、目を背けたから世界が変わった。ただそれだけなんです。これは過去の私が望んでいた世界です。その責任を、その罪を受け入れるのは当然なんです」


 三枝さんに罰を与える神様がいるのだとしたら、なんて残酷な神様なのだろうか。確かに三枝さんは親の厳しい教育から逃げ出した。それは良いことではないのかもしれない。しかし、それは誰もがすることなのだ。彼女に限った話ではない。三枝さんが悪いなんて誰が責められるだろうか。


 厳しい世界から、救いを求めた結果、辿り着いたクッキーの世界。それで確かに三枝さんの望みは叶ったのかもしれない。好きなクッキーをいくらでも食べられるし、嫌な者はすべてクッキーに変わってしまったのだ。ある意味で救われたと言ってもいい。


 でも、それはあくまで一時的に救われただけに過ぎない。永続的に、クッキーしか食べられないなんて、人を認識できないなんて、悪夢以外の何物でもない。


 ……きっと三枝さんは今までずっと逃げ出したという罪の意識を抱えながら、このクッキーの世界を我慢してきたのだろう。生き延びるために、人を拒絶して、毎日クッキーを食べて生活してきたのだ。どれだけ辛いのか、苦しいのか僕には分からない。想像のつかない世界だ。だけど、そんな僕にも三枝さんにできることがある。


「確かに、三枝さんの今までの生活なんて想像できません。考えている以上に過酷なのだと思います。それでも、その辛さを、苦しみを分け合うことはできるはずなんです。罪は一人で背負いきれるものじゃありません。誰かに、分けてしまってもいいんです。そうしないと三枝さんが潰れてしまいます。そんなこと誰も望んでいないんです」


「分かったようなことを聞かないでください。あなた達に話したら、私は元の世界に戻れるのですか。私の罪は消えるのですか。そんなはずない。そんなことで、そんなことで消えるのであったら、私は、私がしてきたことは――」


 グッと、三枝さんの両手に力が入る。


「私はもう、止まれません。これからも、一人で、生きていきます。そのためには、あなたは邪魔な存在なんです。邪魔者は消さなければいけません。いなくならなければいけません」


 ゆっくりと三枝さんが近づいてくる。その様子を僕はただ黙って見守っている。僕はその場から動かない。僕は逃げ出すわけにはいかない。今ここで逃げ出してしまえば、三枝さんはもう、戻ってこない。そう思えてならないのだ。


「これで、さよならです」


 そういって一気に助走をつける三枝さん。もう逃げ出すことはできないだろう。


 ああ、どこを刺されるのだろうか。どのくらい痛いのだろうか。料理の時に手をちょっと切ってしまった、ぐらいの痛みじゃあないんだろうなあ。致命傷にならなければいいのだが。いや、滅多刺しにされたらどのみち死ぬのか。


 ……それでも、好きな人に殺されるのであれば、それはそれでいいのかもしれない。


 伝えるべきことは伝えた。後は、僕の言葉で三枝さんが考え方を変えてくれれば、自分と向き合うことができれば、良いのだが。


 ……

 ……


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