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クッキーフレンド  作者: 加護景
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クッキーの世界から抜け出して

「そこまでよ」


 遠くから声がする。その声に三枝さんがピタリと動きを止め、音の発生源へと目を向ける。


 聞いたことある声。僕はその方向へ目を向けると、案の定、そこには麦嶋がいた。


「……あなたは」


「麦嶋よ。麦嶋香織。知っているでしょう、三枝さん」


 三枝さんの目が見開かれる。明らかに驚いている様子である。


 三枝さんはゆっくりと僕の方へと向き直る。


「じゃあ、あなたは……」


「羽田ですよ」


「そう、でしたか。私はまんまと嵌められたのですね」


「そんなつもりはなかったのだけど……あくまで保険ね」


 何のことを言っているのだろうか。突然のことに僕だけ事態を飲み込めていない。


「どういうことなんだ」


「ああ、つまりね、三枝さんは今までずっと私と話していると勘違いしていたのよ」


 僕を麦嶋と勘違いするなんてこと……いや、あるかもしれない。三枝さんは人をすべてクッキーだと認識してしまうのだ。つまり、最初に自己紹介でもしない限り、誰が話しかけているのか分からない状態にいるということだ。取り違えてしまう可能性は大いに有り得る。


「三枝さん、あなたが辛い状況にいるのは分かっているわ。その状況が誰にも共有できないことも、一人ぼっちで生きていこうとしていることも理解しているつもりよ。だけど、殺人は流石にやり過ぎよ。こう見えても彼は私にとって大切な友達なの。死んでしまったら困るのよ」


「……流石に二人を一度に処理するのは無理ですね」


 諦めたようにひっそりと呟く。だらりと、腕の力を抜いてはいるが、包丁はしっかりと片方の手に握られている。まだ、油断はできない状況である。


「三枝さん……私達は別にあなたを追い詰めようとしているわけではないわ。むしろ、その逆よ。あなたを助けたいの」


「助けたい……ですか。困っている人を見ると助けたいと思う性分なのでしょう。いい人なのですね。残念ながら、私はそんなことを望んでいません。私は、あなたが信じられません。だってそうでしょう。私の目から見たら、あなたはどこからどう見てもクッキーなんです。私とは全然違います。クッキーに助けを求める人なんていませんよ」


 三枝さんの辛辣な言葉に傷ついたのか、表情に陰りが見える。三枝さんに気持ちばかりの善意は伝わりそうにない、ということなのだろう。


「……そう、そうよね。私のことを信じてくれなくてもいいわ。それでも、羽田のことは、信じてあげて欲しいの。羽田はずっとあなたのことを想って、ない頭を振り絞って、ようやくここまでやってきたの。そのことだけは知っていて欲しいの」


 麦嶋はいつも一言余計な気がする。でも、全くその通りだ。麦嶋は、一人で難なく三枝さんまで辿り着けているのだ。僕はその尻馬に乗っただけに過ぎない。僕は麦嶋のように頭が良くないのだ。それでも、僕には誰にも、麦嶋にも負けないものがある。それは三枝さんへの想いだ。麦嶋はそのことをちゃんと理解しているようだ。しっかりと三枝さんに伝えてくれている。……何だかんだいって麦嶋は人のことが見ているのだ。もうちょっと自信を持ってもいいと思うが、そういうわけにはいかないのだろう。難儀なものだ。


「あなたが羽田を刺そうとした時、羽田は逃げなかったでしょう。もしかしたら、死んでしまうかもしれない。そんな状況でも、羽田はね、本気であなたに向き合おうとしていたの」


「そんなこと、私に、関係ありませ――」


「関係ないわけないでしょう。だって羽田はあなたのことが」


「聞きたくありません。あなた達の話も、この世界も、もううんざりです。どうして私だけがこんな辛い思いをしないといけないんですか。私が何をしたっていうんですか。辛いことから逃げ出すことがそんなにもいけないことなんですか。罪深いことなんですか。クッキーの匂いも、味も、食感も、もう、耐えられないんです。嫌で嫌で仕方がないんです。そう、おかしいのは私の方なんだって、分かっているんです。人がクッキーに見えるなんて誰がどう考えてもおかしいんです。私が悪いのであれば、そうなんだったら、私が、私がいなくなれば――」


 三枝さんは自分の喉元に包丁を突き立てる。


「やめ――」


 麦嶋の声が虚しく響く。三枝さんには届かない。

 僕は気がついたら走り出していた。

 早く、早く。手を伸ばして、三枝さんの元へ。

 今、三枝さんを救えるのは、助けれられるのは僕しかいない。

 

 そして、包丁は勢い良く突き上がった――


 鮮烈な痛みが僕を襲う。あまりの刺激に呻き声上げそうになるが我慢する。

 地面にポタリ、ポタリと赤い雫が落ちていく。

 これは間違いなく僕の血だ。間一髪の所で間に合ったのだ。


 カラン、と音を立てて包丁が落ちる。


「どうして……」


 手のひらがドクドクと血が吹き出しているのを感じる。もう片方の手で出血を抑えようとするが中々止まらない。これはパックリと裂けているのかもしれない。だが、貫通はしていないようだ。あまり刃が研がれていないのが幸いしたのだろう。


「どうして、そこまでするんですか。あんなに拒絶したのに、あんなに否定したのにどうして……」


 三枝さんの口から言葉が溢れ出す。そこにはもう、氷の女王と呼ばれた三枝さんの面影は消え去っている。そこには、今にも泣き出してしまいそうな一人の女性の姿があるだけだ。


「私は……もう、耐えられない。このクッキーだらけの世界で生きていくことに、もう、我慢できない。どれだけ頑張っても、どれだけ足掻いても、何も変わらない。何も変わらなかった! 元の世界に戻れないのなら、もう死ぬしかないじゃないですか! どうして、どうして止めたりするんですか!」


 クッキーの世界。そんな過酷な世界を一人孤独に耐え忍んできた三枝さん。どれだけ辛かったのだろうか。どれほどの苦難があったのだろうか。一人で抱えるにはあまりにも重すぎる。それでも、彼女にはその苦しみを伝える相手がいなかった。共有する相手がいなかった。何せクッキーしかいない世界だ。彼女にとってはすべてが敵にしか見えない。それでも、いつか、元に戻る日を信じて、罪が許される日を信じてひたすら耐え続けるしかないのだ。だけど、そんなこといつまでも続くはずがない。たった今、彼女はその限界を超えてしまったのだ。


 そんな彼女をどうすれば、救うことができるのだろうか。なんと声をかければ良いのだろうか。


 何が正解なのかは分からない。僕は正解に辿り着けるほど頭が良くない。心理学をやっているわけでもないし、精神科の医者でもない。僕にできることはたかが知れている。


 だから、正直に自分の気持ちを伝える以外に一体何ができるというのだろうか。


「三枝さん、それは、僕があなたが好きだからです。僕はもっと、あなたのことが知りたくて、知りたくてたまらないからです。だから、死んでしまっては困るんです。それ以上の理由はありません」


「自分が好きだから、必要としているから、あなたのために生きろというのですか! どうして私はどう見てもクッキーにしか見えないあなたのために生きなければならないんですか! そうすれば、私の苦しみは取り除かれるのですか! クッキーの世界から開放されるのですか! そんなことできないでしょう。できるはずがないでしょう!」


「緩和することはできます。三枝さんが抱えている悩みも苦しみもすべて受け入れます。どんな話でも聞きます。困っていることがあれば何でも手伝います。力になります。だから、諦めないで下さい。逃げ出さないで下さい。三枝さんはもう、一人じゃないんです」


「自分が何を言っているのかわかっているんですか! あなたは、この地獄のような世界でまだ生き続けろと、そう言っているんですよ。私の気持ちも知らないで、私の苦しみもわからないのにどうしてそんな残酷なことがいえるんですか! もう、私に関わらないでください。私は、もう」


「僕は諦めません」


 三枝さんにとって、この世界は残酷なのだろう。そんな世界で生きていてほしいだなんて、僕の願いはとても自分勝手なのだろう。それでも、僕は、三枝さんには生きていてほしいのだ。三枝さんと離れたくないのだ。


「三枝さんの苦しみも、悲しみもすべて受け入れます。共有します。これから、面白いことも楽しいこともたくさん体験させてあげます。だから、どうか三枝さんも諦めないで下さい。生きていて下さい」


 三人の間に沈黙が流れる。


 僕はもう、言うべきことを言った。するべきことをした。後の選択はもう、三枝さん次第だ。これからどうするか。それは彼女にしか決められない。今ここで死ぬというのなら、僕にはもう、止められない。言うべき言葉が見つからない。


 もし、三枝さんに生きる意志があるのだとしたら、僕は全力で彼女を支援する。彼女のために人生を捧げる覚悟だ。これだけは誓って言える。


「そう、ですね」


 三枝さんの口が開く。


「確かに、今ここで諦めるのはまだ早いかもしれません。羽田さんがそこまで私の手伝いをしてくれるというのであれば、まだ諦めるのは時期尚早なのかもしれません」


「それじゃあ」


「ええ、一旦、自殺するのは辞めようと思います。あなた達は私の秘密を守ってくれそうですし」


 僕達の顔を見て三枝さんは言う。僕らに話しかける三枝さんの表情はどこか晴れやかで憑き物が取れたような顔をしている。


「それで、早速なんですけど」


 三枝さんが少し視線を逸して言う。三枝さんの照れくさそうな仕草に思わずドキッとする。


「また、クッキー作りを手伝ってくれませんか?」


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