バレンタインのプレゼントにクッキーはいかが?
冷たい風が吹いている。あまりの寒さに僕は身を縮め、コートに手を突っ込む。今は二月、一年の中で最も寒い時期である。寒いのが苦手な僕にとって、とても辛い期間だ。視界に映る枯れ木の並木も心無しか元気の無いように見える。早く春が来てほしいものである。
そんなことを思いながら、僕は寒風が吹き荒ぶキャンパスを歩いていた。一コマ目前だからか、平日の大学とは思えないほど人が少なく閑散としていた。目に映る人も、あまりの寒さに身を縮めていた。その光景が余計に冬の寒さを際立たせているようなそんな気がした。
僕はとある理系の大学に通っている。理系の大学といえば、男ばかりのむさ苦しい集団だと思われがちであるがそうではない。僕の大学は、大雑把に、工学部、理学部、農学部と三種類に分かれている。先程のイメージのように、工学部は男女比率が九対一以下と非常にむさ苦しいのだが、理学部や農学部はそんなことはない。理学部なら男女比率がほぼ一対一だし、農学部に関しては女子のほうが多いぐらいなのだ。つまり、僕の通っている大学は世間一般に思われているほど男ばかりの集団ではないということなのだ。
ちなみに、僕は工学部の知能工学科に所属している。悲しいかな、周りは男ばかりだ。大学生活で誰もが思い描くであろう、男と女の甘酸っぱい青春など欠片も見られない。そんなことも知らずに、夢のあるキャンパスライフを思い浮かべながら入学し、男むさい光景に絶望したのはまだ記憶に新しい。あの頃は若かったなあ。まあ、入学してまだ一年も立っていないので、今も十分に若いのだが。
下らない考え事をして寒さを紛らわせていると、いつの間にか校舎の前まで来ていた。ギイと立て付けの悪い音のする扉を開けて中に入ると、少し寒さが和らいだ気がした。実際にはまだまだ満足できないほど寒いのだが、贅沢は言ってられない。風が吹かないだけマシというものだ。
節電しているせいだろうか、廊下はやけに薄暗い。この大学の経営状況は大丈夫なのだろうかとしなくていい心配をしながら、僕は授業のある教室までスタスタと歩いて行く。目的の教室に近づいていくと、微かに喋り声がする。どうやらすでに先客がいるようだ。
スライド式の扉を開けると、暖かい風が入っていくる。あまりの暖かさに、思わず頬が緩んでしまう。外とは大違いだ。文明の利器は素晴らしい。
感慨に耽った後、落ち着いて辺りをキョロキョロと見渡す。前の方の席には同じ学科の顔見知りの連中が談笑している。そして、教室の一番後ろ、窓際の席には一人、女子がポツンと座っているのが見える。ふわりとしたニットに紺色のロングスカート、耳には無地の白いイヤホン。長い黒髪を右手でかき上げながら、物憂げな表情で教科書を読んでいる。彼女も僕と同じ学科の生徒だ。同学科の数少ない女子。極めて貴重な人材なのだ。
「おっ、羽田じゃん」
声のする方角へ目を向ける。視線の先には太り気味の男子が笑顔を浮かべながらこちらを見ている。
この気さくそうな男の名前は遠野春雄、一緒に入学してきた同期だ。僕の数少ない友達でもある。
「おはよう、遠野。今日はやけに早いな」
僕の言葉にへへっ、と笑い声を上げる。
「そりゃあそうさ。今日は特別な日だからな。例のもの、持ってきたんだろう」
そうやって催促をする遠野に、僕は苦笑いを浮かべながら、カバンからプラスティックでできた小さな袋を取り出す。
「ほら、例のものだよ」
遠野の方へその袋を投げ込む。突然の投擲に、遠野は驚いた様子を見せ、おぼつかないながらもその袋をしっかりとキャッチする。ナイスキャッチだ。
危ないだろ、と文句をたれながら、遠野はプラスティックでできた袋を開ける。
「おっ、チョコクッキーか。なるほどな、確かにこれならバレンタインにぴったりだな」
「お前に渡してる時点でせっかくのバレンタインが台無しだけどな」
まあ、そう言うなって、と言いながら、袋の中からクッキーを一つ摘み、口の中に放り込む。うん、うまいうまいと感想を述べながら、サクサクと大げさな音を立てる遠野。その様子はまるでハムスターだ。愛玩動物を見ているようで、ちょっと微笑ましい気分になるのだが、これ以上食べられては困る。
「食べ過ぎるなよ。他の人にも配る予定なんだから」
ほいほい、と適当な返事をしながら同期の元へ歩いて行く遠野。これ、羽田が作ったんだぜ、上手いもんだろ、と袋の中のクッキーを同期に配っていく。へーそうなんだ、そういえば羽田はクッキー作りが趣味だって言ってたよなあ、など作った本人が不在の中、話が盛り上がっていく。その光景に思わず苦笑いが出る。マイペースなやつだ。
本来ならここで、僕も一緒についていき、何でお前が配ってんだよ、と遠野を叱りながらクッキーを配る場面だ。しかし、僕はそうしない。僕にはそれよりも大事な、やるべきことがあるのだ。
僕は後ろの席へと歩いていく。一歩ずつ、確実に、目的の場所へ近づいていく。部屋の隅で、優雅に本を読む彼女が、彼女の輪郭が、次第にはっきりしてくる。
何故僕が早起きしてわざわざバレンタインにクッキーを作ったのか。同じ学科の男連中に配るためなどでは決してない。それは、彼女との接点を持ちたかったからだ。
後ろの席で一人、孤独に本を読んでいる彼女の名前は三枝映子という。学科の中では珍しい女の子だ。いや、珍しいでは済まされない。同期三十人中で唯一の女性なのだから。そう、彼女の存在はまさに、男どもが跋扈する砂漠の中に咲き誇る一輪の薔薇だ。ちなみに、麦嶋は学部が違うためノーカウントだ。他学部の授業をわざわざ取りに来るなんて本当に勉強熱心だなあと素直に感心する。
麦嶋の話はともかく、三枝さんは僕の学科の中では非常に貴重な存在だ。それに彼女は学業も非常に優秀らしく、主席でこの大学に入ってきているらしい。これだけの要素が揃ってしまえば、貴重を通り越して奇跡と呼んでもいいのかもしれない。そのため、入学当初は彼女にアプローチをかける男どもが耐えなかった。しかし、その誰もが彼女と接点を持つことができなかった。なぜなら、彼女は超が付くほどの人嫌いだったからだ。
まず、彼女は話しかけられるだけで嫌悪に塗れた表情を浮かべる。まるで人ならざるものを見るような、化物を見るような、そんな侮蔑に満ちた表情だ。ここで大半の人は心が折れる。
そんな彼女の嫌忌の表情にも負けず、果敢に会話をしようとしても無駄だ。大した用がないなら、私に話しかけないで、と冷たく言い放ち、それ以降全く会話をしようとしないのだ。取り付く島もないとは正にこのことなのだろう。
そんな有様なので、彼女に話しかけようとする人はニ、三日の内にピタリといなくなった。そうして彼女はいつも部屋の隅で孤独に授業を受けている、というわけだ。
ちなみに、彼女の人嫌いは男も女も関係ない。誰であっても同じ態度を取るのだ。三枝さんは平等主義の鑑とも言える存在だ。
では、どうして僕はそんな人嫌いの彼女に話しかけようとしているのか。それは、単純に僕が彼女のことが気になっているからだ。好きだと言ってもいいかもしれない。
三枝さんはいつも一人だ。誰一人寄せ付けず、孤独に、頬杖をつきながら本を読んでいる。静かに、そして物憂げに読書を進める彼女。その様子を見ていると、まるで触れてはいけない神聖な空間のような、繊細なガラス細工を見ているかのような、そんな気分になる。それが、僕にとって堪らなく心地が良い。
入学してから十ヶ月間、そんな彼女の様子をいつも見てきた。儚くとも美しい、彼女の横顔を見るたびに、僕は胸の鼓動が押さえきれなくなっていったのだ。そして今日、遂に僕は勇気を持って、彼女に話しかけることにしたのだ。
話しかけるには何かきっかけが必要だ。そのきっかけとして僕はクッキーを選んだ。皆にクッキーを配る体で自然に三枝さんに近づき、話をする。会話する内容は何でもいい。今日の天気のことでも、近づいてきているテストのことであっても十分だ。少しずつ、少しずつでいいから、距離を縮めていきたい。それに、彼女に渡すクッキーの袋の中には、こっそりと僕の連絡先を忍ばせてある。自分でもちょっと恥ずかしいが、このまま何もしないよりはマシというものだ。少しぐらい引かれてしまっても構わない。僕には失うものなんて何もないのだ。
意を決して、僕は三枝さんの所へ向かう。彼女は今日も綺麗だ。
彼女も僕が近づいてきたことに気がついたのか、耳につけていたイヤホンを外し、心底嫌そうな目で見つめてくる。朝も家の前で似たような目で見られた気がするな。今日はそういう日なのだろうか。
「誰ですか?」
三枝さんの開口一番の質問に僕は少し動揺する。入学してから十ヶ月間の間で僕の名前など彼女にとって覚える価値のない無意味な情報なのだと突きつけられる。まあ、確かに自分でも自分のことを地味だと思うけど。
「羽田だよ。同じ学科の」
僕の自己紹介に、ふうん、と興味なさそうに息を吐く。
「その羽田さんが私に一体何のようですか」
三枝さんの嫌悪の表情。僕は心が折れそうになるが、グッと堪えて彼女に話しかける。
「バレンタインでこれ作って、学科の人に配っているんだけどさ……三枝さんも食べる?」
僕は三枝さんに袋を差し出す。正直、声が震えていたと思う。これじゃあ不審者だ。僕のそんな不安を裏付けるように、案の定、三枝さんは鋭い眼光で僕の目を見据える。睨みつけられているのだと思う。非常に胸が痛い。話さなければよかったと今更ながら後悔している。
「……どうかな。チョコクッキーなんだけど」
もうダメだ。そう思った時、彼女の表情が変わった。相変わらず僕を睨みつけているが、その表情は僅かに和らいでいるように見えた。
「クッキー?」
「そう、クッキーだよ。バレンタインにクッキーなんて変かな」
次の瞬間、僕は思わず、えっ、と声を出してしまった。僕の頭では理解できない、不思議な現象が目の前で起こっていた。
三枝さんは小さく笑っていた。
初めて見る表情だった。いつも憂鬱げで、冷淡な表情しか浮かべない彼女のものとは到底思えないほど、有り得ない光景だった。僕は三枝さんの見せる笑顔にただ唖然としていた。
受け取っておくわ。三枝さんはそう淡白に言うと、袋を受け取りまたイヤホンをつけ直し、いつもの冷たい表情に戻った。
僕は呆然としながら、トボトボと前の方の席へと歩いていく。僕と三枝さんのやり取りを一部始終見ていたであろう遠野たちが不安そうな目をしている。きっと、今の僕はさぞかし間抜けな表情を浮かべているのだろう。なぜそんな冴えない表情をしているんだ、上手くいっただろう、と彼らの頭の上に疑問符が飛び交っているのがよく分かる。
もちろん、落ち込んでいるわけではない。むしろ嬉しいという感情が胸の中に渦巻いているぐらいだ。僕の彼女と接点を持つという計画は上手くいった。これ以上ない結果だと言ってもいいだろう。しかし、僕にとってはそれ以上に彼女の笑顔が気になって仕方がないのだ。
僕のイメージにある三枝さんは決して笑う人ではなかった。いつも孤独で、冷徹で、気だるげで、時々儚い横顔を見せる……そんなアイドルのような存在だった。そんな彼女が笑っている姿なんて今まで想像がつかなかった。だから、僕は彼女が笑ったことに動揺を隠しきれなかったのだ。
……どうして三枝さんは笑ったんだろうか。何に笑ったんだろうか。分からない。分からないけど、一つだけ確実に言えることがある。
笑顔の三枝さんはとても、とても可愛かった。
それから、僕は三枝さんと特に何のイベントもなく、何の進展もなく、今日の一日の授業を終えた。何かあったことがあるとすれば、遠野に茶化されたことぐらいだろうか。彼にはもちろん、今日の計画のことは話してあった。あの氷の女王と話ができるとは恐れ入ったよ、とか、まずは第一段階をクリアだな、とか、自分に関係がないからと好き放題言っていた。それでもまあ、友人として応援してくれているのは有り難いことだ。
家に帰った後、僕の携帯にメールが届いていた。こんな時間に一体何のようだろうか。僕はぼんやりとしながら、メールを開いた。
そのメールの内容は非常に簡潔だった。
件名 三枝です。
本文 羽田さん。
クッキー作りに協力して頂けませんか。
こうして僕は三枝さんとクッキー作りをすることになった。




