しつこいクッキー
ここで、僕と三枝さんとの物語は終わってしまうのだろうか。
もう、三枝さんとは二度と会うことはないのだろうか。
……そのほうがいいのかもしれない。
お互いにとってそれが最善の選択なのかもしれない。
ほろ苦い思い出として。
青春の一ページとして。
心の奥底にしまっておくほうがいいのかもしれない。
大人になってから、時々思い出しては、くすぐったい気持ちになる。
そのぐらいのほうがよいのかもしれない。
無理をする必要なんてない。
わざわざ苦しい道を選ぶ必要なんてないのだ。
それに、三枝さんだってそのほうがよいと言っているじゃないか。
ほら、もう答えは見えている。
今ここで別れを告げるだけ。
実に簡単だ。
悩む必要なんて、これっぽっちもないのだ。
……それでも。
それでも僕は諦められない。
ここで終わってしまったら、ここで止めてしまったら、必ず後悔するはずだ。
何のためにここまでやってきたのか。
何のために三枝を追ってきたのか。
それは、今、僕が、三枝さんのことが、好きだからだ。
三枝さんのことが知りたいからだ。
後のことなんて関係ない。
最善の選択なんて知ったことではない。
この後にどんな苦難が待ち受けていたとしてもいい。
どんな真実があったとしても構わない。
僕はもう前に進み続けるしかない。
自分の気持ちを裏切ることなんてできないのだ。
「一つだけ、質問させてください」
炎の向こう側にいる三枝さんに呼びかける。
「どうして嘘をつくんですか」
唐突に風が吹き、ちらりと三枝さんの顔が映る。その表情は相変わらず無表情そのものであったが、かすかに、ほんのわずかではあるが眉間に皺が寄っているのがわかる。
「嘘? なんのことですか」
「記憶障害、なんて全部嘘ですよね」
そう、三枝さんが記憶障害なんて持っているはずないのだ。
「……どうしてそう思うのですか」
「睡眠薬です」
三枝さんは病院で睡眠薬を受け取っていたと聞いている。でもそれはおかしな話だ。もし、三枝さんが本当に記憶障害を持っているいるならば、睡眠薬なんて怖くて服用できるわけがない。睡眠薬は確かに、睡眠時間をコントロールする、という意味では理にかなっているかもしれないが、それは理性だけ考えた時の話だ。心理的にはとても使える代物ではないのだ。
三枝さんだって人間だ。感情的になるときだって、怖いと思うことだってきっとあるはずなのだ。
「……」
すべてを察したのだろうか。三枝さんは喋らない。沈黙を貫いたままだ。
三枝さんに構わず、僕は話を続ける。
「どうして、記憶障害だなんて嘘を吐いたんですか。こんな作り話までして」
なぜ、嘘を吐くのか。
なぜ、作り話をするのか。
嘘を吐くのにも、作り話を話すのにも、受け手がその話を信じるという前提で成り立っている。その点でいうと、僕は三枝さんの嘘も作り話も信じやすい要素を存分に持ち合わせている。元々、僕は途中までは三枝さんが記憶障害を持っていることを本気で信じていたのだから、これ以上になく相応しい人物だといえる。
よくよく考えてみれば、僕を家に招いたときからおかしいかったのだ。本来なら、わざわざ部屋の中まで上がらせる必要なんてなかったはずだ。マンションの前でも、玄関の前でも忘れ物ぐらいなら簡単に手渡せる。それにも関わらず、彼女は僕を部屋へと招待した。
彼女の部屋は恐ろしく刺激に満ちていた。記憶の拡張の話。そして、壁中に引き詰められたメモの数々。忘れたくても忘れられない。強烈な印象を残すには十分すぎるほどだ。
そう、それはまるで三枝さんが記憶障害を持っている、そう思わせるための要素としてわざと見せつけていた。今となってはそうとしか思えない。
そうなると、また新たな疑問が湧いてくる。なぜ、三枝さんは僕がそう思うように誘導したのか、だ。
しかし、その答えはもうすでに出ている。結果としてはっきりと現れている。
「……そこまでして人と離れたいのですか」
三枝さんは僕達と縁を切りたいのだ。
そのために、下宿先を引き払って、大学を出て、電話番号も変えた。
そして、そこまでしても、誰かが追ってきた時には、ダメ押しに記憶障害を演じる。
これで三枝さんは完全に他人との縁を切る。その予定だったのだろう。
……僕は迷っていた。
それなら三枝さんにとって僕は著しく迷惑な存在に違いないのだ。関わりを持ちたくない理由は分からない。それでも、ここまで用意周到にするのだから、きっと本気なのだと思う。
僕がここで三枝さんの嘘を追求することは、彼女の本意に背くことになる。彼女が嫌がることをすることになるのだ。それは果たして、良いことなのだろうか。選択として正しいのだろうか。
……それでも僕は彼女を諦めなかった。
彼女が離れていくのを良しとしなかったのだ。
僕はまだ彼女のことを知っていない。
僕は彼女のことが知りたいのだ。
これは単なる僕の我が儘だ。
それに、今彼女の元を離れるのは何か間違っている気がするのだ。
彼女は今、何かに悩んでいる。
何か辛い状況にある。
その何かが彼女を一人にさせているのだ。
それを知らなければ、分からなければ、彼女はずっとそのままだ。
一人、孤独に苦しみに耐え続けなければならないのだ。
そんな姿はとてもじゃないが見ていられない。
好きな人が苦しむ姿なんて見たくないのだ。




