クッキーと出会う
階段を駆け上がると、視界が開ける。目の前には古ぼけた小さな診療所と、そして人影。
僕はその人影に近づいていく。向こうも僕の存在に気が付いたのか、僕の方をじっと見つめている。
近づくに連れて、だんだんと輪郭がはっきりとしてくる。長い黒髪に、真っ黒なワンピース。まるで葬式でもするような出で立ちだ。
こちらが近づいていっても、何の反応もない。彼女の光のない瞳でぼんやりと僕の動向を追っているだけだ。
「ようやく見つけましたよ。三枝さん」
高鳴る鼓動を感じながら、言葉を続ける。
「ずっと、あなたに会いたかった」
僕の呼びかけに三枝さんの口元が動く。
「誰ですか?」
お決まりの台詞を言う。初めて声をかけた時と同じ言葉だ。
「……わかりませんか」
「ええ、わかりません」
ずっと、三枝さんなりのジョークなのだと思っていた。何度も会っているはずなのだから、誰だってそう思う。そう考えるのが自然だ。でも、真実は違っていた。冗談などではなかった。三枝さんは、本当に、誰が誰なのかわかっていないのだ。
「しかし、何となくは想像はつきます。あなたはきっと大学での知り合いだったのでしょう。確か、母があなたの友達が来るかもしれない、と言っていましたから、その友達、という人物だと思いますが。母の連絡どおり、一人できたんですね」
まるで他人事のように三枝さんは話す。
「足元のそれは……」
僕は三枝さんの足元にあるダンボールを指差した。その中には付箋が山のように収まっている。僕はこのメモの数々に覚えがある。確か、三枝さんの部屋で見たものだ。
「私の過去です」
「過去……ですか」
「正しく言えば記憶ですね」
記憶……確か、三枝さんは付箋にメモをつけることで自らの記憶領域を拡張しているのだと、自身の部屋で語っていたはずだ。もちろん、これは忘れないようにするための変わった工夫なのだが、三枝さんの場合は普通の人と少し事情が異なる。付箋をつけなければならない理由があるからだ。
「これは大学時代の記憶……と言っても信じてもらえないかもしれませんね。そうですね……ここまで来たお礼に少しだけお話をしてあげましょう」




