クッキーはたどり着く
三枝さんの母親は長い話を終えると、力を抜き、ふう、とため息を吐いた。
「すみません、それで、三枝さんは今どこにいるのでしょうか。この家にはいないようですけど」
僕は焦る気持ちを抑えきれず、質問する。
「あの子なら今、病院にいると思うわ。高校まで通っていた病院ね。大きさ的には診療所って言ったほうが良いのかしら。あの子が卒業する頃に丁度廃業になっちゃってね。そのことを話したら、大きな荷物を持って出掛けていったわ」
何か紙束みたいだったけどねえ、と他人事のように呟く。
「その診療所はどこにありますか」
そう食い気味に尋ねると、ふうん、と何か分かったような声を出し、好奇の目でこちらを見つめる。
「あの子に話したいことがあるのね」
「はい」
素直に返事をする。
母親は少し真剣な表情で僕の様子を伺う。何かを見定めているかのような、そんな目だ。
見つめられていたのは、ほんの数秒の間だっただろうか。急に、ふっ、と肩の力が抜けた柔らかな表情に変わり、微笑みを浮かべる。
「わかったわ。いまそこまでの地図をあげるからちょっと待ってて」
しばらくすると、その母親は紙と何かの入った袋を持ってきた。
「ちょっと汚いかもしれないけど、これが診療所までの道のりよ」
手渡されたのは手書きの地図。診療所までの道のりが丸っこい筆質で書かれており非常に見やすい。
「それでね、これもあの子に渡してほしいの」
そう言って僕に差し出す。
「これは?」
「クッキーよ。昔あの子が好きだったものと同じものを買ってきたの。あの子が帰ってくる、なんて言い出したから、食べさせてあげようと思ってたんだけど、中々渡す機会がなくてね。丁度いいから持っていってもらえるかしら」
否定する理由もなく、黙って受け取る。
「それじゃあ、気をつけてね」
別れの挨拶をそこそこに、僕達は三枝さんの実家を後にした。
貰った地図によると、三枝さんの実家からその診療所まではそう遠くないことが分かる。大体十五分ぐらいだろうか。もう少しで彼女に会える、そう思うと何だか妙な緊張感が襲ってくる。心臓の音がうるさく思えるほど激しく胸打っている。このまま心臓発作で死んでしまうのではないのかと思えるほどだ。少し落ち着かないと。ここで死んでしまっては、悔いても悔いきれない。
そう思って深呼吸を始めようとするも、上手く行かない。過呼吸をしている人のようになる。実際、苦しい。やはり走りながらでは無理なのか。隣で麦嶋が怪訝な表情でこちらを見つめている。……今の僕は明らかに変人のように映るのだろう。しかし、これは僕なりの努力の結果なのだ。その過程をもう少し評価して欲しい。
麦嶋が足を止める。僕は息を切らしながら、地図を確認すると、この辺りが目的地であることが分かる……分かるのだが、目の前の景色に少しゲンナリする。そこには長い、長い階段が続いているのだ。どうやら、診療所はこの階段の先にあるらしい。本当に診療する気があるのだろうか。こんな山の上の立地じゃあ廃業するのも頷ける。
「……羽田」
麦嶋が僕に呼びかける。なんだ、と息も切れ切れに答えると、すぐさま言葉を繋ぐ。
「私はここで待ってるわ」
意外な言葉だった。ここまで来て三枝さんに会わないつもりなのだろうか。階段を登るのが面倒、というわけではないはずだ。
「どうして?」
当然のように疑問を呈すると、麦嶋は寂しそうに呟く。
「三枝さんには、あんた一人で会ったほうがいいと思うの」
麦嶋がそっと上を向く。その視線の先には左右が樹木に囲まれた、三枝さんへと続く階段がある。
「ここまで来ても、やっぱり何を話せば良いのか分からないのよ。私には三枝さんが何で苦しんでいるのか分かっても、どうしたら救えるのかが分からないから。私が何を話しても、きっと心に響かないとそう思うのよ。だからね」
顔をゆっくりとこちらへ向ける。
「ここから先には、私は行けない。羽田、あんた一人で行くべきなのよ」
「麦嶋はそれでいいのか」
そうだ。麦嶋だって三枝さんのことを思ってここまでやってきたのだ。言いたいことなんていくらでもあるはずなのだ。それに、麦嶋の言葉が心に響かない、なんてことはない。あっていいはずがない。
僕の言葉に麦嶋は微笑を浮かべる。その悲しげな表情を見ると、何だが胸が締め付けられそうな気分になる。
「いいのよ。あんたをここまで導くことが私の役目なんだから。三枝さんを救えるのは私じゃない。ずっと彼女のことを想い続けてきたあんたが相応しいのよ。だからほら」
ぽん、と僕の背中を押す。
「早く行ってあげなさい。三枝さんに言いたいことが、言うべきことがあるんでしょう」
背中を押された僕は、その勢いのまま階段を上がっていく。息が切れ、足腰が悲鳴を上げているのが分かるが、それでも登り続ける。
「羽田!」
後ろから麦嶋の声が聞こえる。だけど、僕は振り向かない。振り向いてしまっては僕の歩みが、決心が鈍ってしまう。そんな気がしたからかもしれない。
「思い込みを捨てなさい!」
思い込みを捨てる、か。確かにそうだ。僕は初めて会ったときから今までずっと思い込みをし続けていたのかもしれない。三枝さんはそういう人間なのだと決めつけていたのかもしれない。でも、それは間違いなのだ。それでは三枝さんを理解したことにはならない。三枝さんを好きになる資格なんてないのだ。
「頑張りなさい!」
後ろから後押しする声がはっきりと聞こえる。まるで背中を押されているような感覚に、さらに駆け上がる速度が上がっていった。




