迷宮と邂逅(6)
◆
「チッ……」
エトリは眼前の空を睨み、光を描いた。
魔術行使の打ち火となる動作だ。
だが奇跡を命ずる言葉を放つより早く、生まれた閃光と風によって鼻先さえ見えない濃霧が広がり、視界を閉ざしてしまった。
魔術失敗の典型だ。望まれる意思の造形が足りていなかったのだ。
想定を欠いた杜撰な雑念は世界に解釈されることもなく、ただ光と風をまき散らした。
「――良し」
ただその結果こそが成功だった。転げるようにエトリは近接空間から離れることが出来た。
魔術は意図的に失敗したのだ。
あの技に二を返す刃は存在しない。それは仕損ずれば死に体の隙を曝すという欠陥。
しかも魔術行使とは異なる呼吸法に切り替えているため、正確な魔術を放つ為には発端の集気から始めなけれなならなかった。
一瞬とは言え、魔術も放てず、剣も振るえず完全な無防備となる。次を迫られるならば急ぎ距離を取り、体勢を立て直さねばならなかった。
逃げるという行動を実行するために、無我へと至った意識からすぐさま手を打てたのは、偏にエトリの練磨の賜物といえた。
不発が確定された事実を逆手にとって、あえて魔術を放った。
魔術の構築とは意思と想定。包み込む殻を思い描かなければ力の奇跡は容易く崩壊する。
不完全な集束が生み出す効果は賭けだったが、上出来だ。
「けど、あれでもダメか……。凄いわね」
称賛の言葉とは裏腹に、怒りと困惑が渦を巻いていた。
後継者として作られた。
あの親たちから与えられたものはそれだけだった。
その意味を得るために失った幾つもの思いはいつも彼女の背中を刺していた。
泣き叫び、歯を食いしばり続ける。胸中は硬く閉ざし、忘却の深い海へと沈ませて。
堕ちれば何もない忘れられた虚無に掛けられた朽ちたつり橋。
今、彼女の心を揺らがせる風が吹いていた。
「あんの師匠どもめ……」
弱々しくも口汚く呪うが、既にどこにもいない者たちに届く事は無いだろう。
白煙を突き破って迫る〈黒鉄〉には聞こえたかもしれないが――。
「来たか」
斬って、打って、跳んで、潰して、躱して。これまでと同じ、繰り返しが再び始まった。
ひと時も気の抜けない時間の密度は、現実を流れるそれと乖離していく。
随分と時が経過したような気がしたが、月の角度にさほどの変化はなかった。
感じた疲労は精神的なものだろう。
手札を尽くしながらも決着へと繋がらない。
新たなる切り札を模索するためには、あの虚無へと潜らなければならないようだ。
その苛立ちが雑念となる。
エトリという一流の剣士の太刀筋を感情が曇らせる事は無い。だが意思を媒介とする魔術には現れる。正確には魔術となる以前の、魔力の性質に変化が生じることとなる。
異物が混ざる。それは精度が落ちるわけでも、出力が下がるわけでもない。無論それを知らないエトリではないが、知ったところで意思というものが常に平坦を保つ事は無いのだ。
エトリは再び煙幕となる濃霧を放った。
「この霧のようにいつか晴れたらいいのだけど」
色々なことにため息を吐きたくなるが、エトリは剣を振るった。
彼女にはそれしかできなかった。
「はっ――!」
掠めた切っ先から放たれた青白い光が、天へと逆巻く稲妻となって夜空を突いた。
吸い込まれた雲に潜む龍が逆鱗の轟きで応えたかのような放電が鳴いた。
「……」
エトリは再び剣に青い光を纏わせて〈黒鉄〉を見た。
――。
下界では青白い輝きの燐光が躍っていた。
時折、その光は空へと昇るが、どれも雲に届くことなく消えていった。
最初の一撃だけが違った。
躱された魔術の光刃は、雲の中で今なお溜まっていたのだ。
通常ならば魔術師の認識を越えた先にまで、魔術がそのままの形で滞留するはずはない。
つまりこの現象は意図をもってそうあり続けているのだ。
時を止められた逆さの雷光。青白い輝きの中に小さな破片が込められた。
光の中に異なる反射を返す――鏡。
世界を見つめ返す目として、古来より万物を現す祭事呪いの象徴として扱われてきた。
その概念によって、万物の境界を示す歪曲の神具という属性を秘めている。
雲に隠され、それは力を集めていた。
月の光を写し、風で回り、雲に濡れていた。
星に到達した大いなる光のエネルギーを受け継ぎ、風の鳴動と水の拡散を覚える。
風の流れを変えることも、雲を欠けさせることも、空の光を遮ることもせず、ただ静寂のままに。
自然という自由意思の集合体を魔力として転化。微力なエネルギーを一点に収束させていた。
静かな空には何の変化もない。
だが鏡の中の世界にのみ、二つ目の月の様な巨大な魔力塊が夜空に浮かんでいた。
空へと放たれた雷は再度落ちる。
零れた流星となって。
「――来た」
魔術が完成したことをエトリは感じた。やがてこの場所へと落ちてくるだろう。
蓄積された魔力は膨大な量となっているはずだ。このまま落ちれば町への被害は免れない。
町への被害を抑える為にも圧力開放型ではなく、中心に向けて風を展開しながら攪拌収束を行う、対消滅型の浮遊弾としての機能を設定した。
当たれば一瞬で消滅させることが出来る反面、魔力発生の前兆となる力の波動は誤魔化しようがなくなる。つまり前提条件として不意打ちを狙うことはできない。しかも対象範囲を狭めた分、逃げられる可能性も高い。
要は発動の瞬間に〈黒鉄〉を確実に逃さず釘付けにする作戦が必要だった。
「……よし」
エトリはそれを実現させるための目途はすでにつけていた。
細かいコントロールはいらない。可能な限り気取られないようその瞬間を待てばいい。
広大な夜空から見ればネオンの光でさえも微細な星屑。そこから離れ、何もない黒き渦のような暗黒地帯に極々小さな光を発する四角い領域があった。
交差する光を合図として、風を切り、一直線に落ちてくる――
「いま!」
すかさず地を叩き、爆風を舞い上げ視界の閉ざされた中を強引に走り抜け急速接近。
全てを膂力にまわし、無理矢理に抱きしめるように動きを封じ込めた。
舞い上げた瓦礫が落ちる中、紛れるように小さな鏡が落ち、砕けた。
封じ込められていた光と風と水の魔力が一気に解放した。
咆哮が吹き荒れた。棟を溶かすように圧し潰しながら、再び天へと舞い上がっていく。
物質崩壊の〈天落刹〉。
怒涛の明滅が重力の捻じれを起こし、破滅の槌で分解し風に返す。
全ては一瞬のことだった。咀嚼された音の中、彼方の遠雷は静かな夜を侵す事は無かった。
やがて存在していたものは砂塵へと還った。
灰は灰に。塵は塵に。
全てのものは無に帰り、巨大な海月のような傘が棟の頂上を漂っていた。
〈黒鉄〉は悪意ある敵とよべるものだっただろうか。
例えばあの砦に住む盗賊団のように悪事を重ね、多くの者から応報の招来を願われていた存在だったのだろうか。
学園を崩壊させた〈大樹〉の塔を創り出した瘴気の主だったのだろうか。
ロウを殺したのだろうか。別の誰かである可能性はないか。
その正体は何であったのか。
多くの謎が残ってしまったが、一切を知る術はもうない。
「――やった」
勝った。
剣も魔術も通じたと言える手ごたえではなかった。搦め手となってしまったが、倒すことが出来た。
殺すことが出来た。
最後まで立っているのは――あたしだ。
「ははっ……は――」
近くで誰かの嗤い声がした。
とても醜い呻きのようにも感じたが、高揚感に包まれたエトリにはどうでもいい事だった。
「あはっ――」
そしてなぜか涙がこぼれた。
遠くでした小さな音と共に、それも止まった。
音は一度ではなかった。二つの音が交互に間隔をあけて床を軋ませている。
足音だ。
「……!」
〈黒鉄〉だ。
ようやく夜の寒さを思い出したかのように体が震えを発した。
文字通り今のエトリは何一つ服を着てはいなかった。
魔術師の〈套紋〉も今のエトリにはなかった。全てはあの〈黒鉄〉を欺くために。
煙幕の中で〈現身〉という姿と魔力を切り取った影を生み出し離脱していた。そして離れた場所からあたかもその場にいるかのように、がらんどうの魔力の塊を操作していたのだ。
この場所から――あの尖塔から離れた無人となった廃ビルの暗い一室。建物の背は低く直接視界に収めることはできないが、魔力の同調により状況の把握には問題はなかった。
そして頃合いを見計らい、鎧を目印に崩壊の流星を〈黒鉄〉へと墜とした――はずだった。
それがどこからともなく扉一つ隔て、風の通りさえ聞こえる廊下からの報せ。
ここも人の手が入らぬ廃墟として長い時が過ぎたのだろう。
窓は割れ、雨風が運んだ泥がこびり付き、瓦礫は至る所に転がっている。
月明かりだけでどこかに潜むものを探すのは容易ではないはずだ。
だが間違いなく足音はエトリが潜む一室にゆっくりと近付いて来ていた。
「……」
服の下の加護も魔力を失ったエトリの体から刻々と剥がれ落ち、本当の意味で一糸まとわぬ褐色の肌が露わになっていた。
足音と心臓の重奏が逸る。
鎮まれ。ここを通り過ぎることは期待できるだろうか。
エトリは、動くことはできなかった。
手立てがない。魔力が尽きた。暫くすればある程度は回復するだろうが、それでも戦闘続行には不足、不全とも言っていい。
室内の扉の反対側に窓がある。あそこを割り階下へ。道路へ着地し全力で逃げる。最低限これだけをこなすための力を蓄えねばならない。
せめてあと少し時間が稼げれば。
そして足音はエトリが潜む一室の扉の前で止まった。
やはり気付かれている――!
今度こそ〈黒鉄〉はエトリを殺すだろうか?
少なくとも、エトリは無拍子と〈天落刹〉を放った。あれは手加減することの出来ない殺すための技だ。
その報復として、そしてこれまでの勝敗を決するということなら不可解な動機ではない。
だが不思議なことに、〈黒鉄〉は扉を一枚隔てそこから動こうとはしなかった。
「……?」
何か罠を警戒しているのだろうか。諦めるか、いや時間を稼ぐことはできるだろうか。
滴る汗を感じたエトリ。一滴が頬から流れ床に落ちた。
扉一枚を死神とにらみ合ったのは五秒か十秒ほどか。
ドアノブがゆっくりと降りてきた。
魔力は回復してはいない。やはりこの程度では短すぎる。
「――」
短い音をエトリは囁いた。ドアの裏側にも届いたはずだ。
それは魔術ではなかった。
だがドアノブが止まった。
つまり硬直という隙が生まれたのだ。
――仕留めろ。
エトリは自らに命じた。
その殺戮の刃はもう、そこにあるはずだ。
魔力が尽き、打つ手がなかったはずの体から確かな力の源泉が生まれようとしていることにエトリは気付いた。
深い深い深淵の底に沈んだ何かによって、手を伸ばせば届く上澄みとなって――あった。
エトリはそれを掴んだ。
後はいつものように意思を手綱とし、感じるままに放てばいい。
僅かに力を入れただけだが、殺意のトリガーは敏感に反応を示した。
扉には穴が穿たれていた。その孔を開けたのは剣ともいえぬ光の波動だった。
エトリの攻撃の意思に従い、早く鋭く長く伸び、扉とその向こう側にいる〈黒鉄〉を貫いていた。
握った光の束から〈黒鉄〉が藻掻く手応えが伝わってきていた。
止めを刺さねば。
準備は完了していた。
「突撃」
向かう扉よりさらに離れた場所で、外から突き破るかのような轟音が響いた。
それはあの尖塔から呼び戻した人の形をとったままのがらんどうのエトリの鎧だった。
再びエトリの魔力から発現させたのではなく、残留と余剰の魔力から再生したのだ。
響いた轟音は瓦礫や壁などを薙ぎ払う破砕機のような荒々しく近付いて来ていた。
エトリの座標と並行する、その重なる座標には〈黒鉄〉がいる。
衝突。
全身全霊をかけて。一瞬の足止めではなく、動きを妨害し介入し干渉し阻止し続けていた。
絶対に、離さない。
その指示を忠実に、まさしく機械の如くそれだけを果たすために鉄の塊が動く。
中に何も入っていない伽藍の魔力の塊は、骨と筋肉と関節という動作の制限を無視する、執念の鎖となって絡みついていた。
やがて暴れまわる音が遠ざかっていく。
今しがた掴み取った力を加味した結果、エトリの魔力が完全に〈黒鉄〉を上回ったのだ。
「さようなら」
エトリが別れを告げる言葉をささやいた。
魔術師の鎧とは。物理的なそれにみえて実態は高密度の魔力の塊である。
それが装着者と一体化することで、鋼の装甲と翼の推力という効果を持続発現させているのだ。
故に術者が纏わぬならば、強大な力を秘めた魔力そのもの。
「さようなら」
もう一度告げた。
〈黒鉄〉の正体は――あの中にいたのは――あの教師……彼だ。
後悔はなかった。彼はエトリの命を狙っていたのだから。
恋とは熱しやすく冷めやすいとも聞く。
それは単なる状況に酔った勘違いでもあり、恒久でも絶対でもない脆い口約束。
信じたくはなかったが、事実を確認した以上、諦めることはできた。
紛いものの感情は虚像に過ぎなかった。
決裂ではない。恋も愛も、そんなもの最初から持っていなかった。
もう涙は出なかった
再び響いた轟音は、遠くへと尾を引きながら空を走る。
やがて遠くで音が響いた。
エトリの力が及ばぬ空の先で魔力の光は弾けたのだ。
確かな手ごたえを感じた。
「はあ……」
今度こそ勝利したはずだ。
エトリは油断なく周囲に索敵魔術を放った。
異常はない。あるとすればこの力か。
「この力は――まさか」
普通の魔力とは異なる鼓動を感じる。そして今では念じるままこの力を操ることが出来た。
「おっ、何かが」
強い気配が近付いてくる。
ようやっと騒ぎを感知した〈晄騎〉たちがエトリのもとへと駆け付けたのだ。
「さて、どう説明しようかな」
2020/05/25【投稿】在宅時間が増えても投稿スピードが変わらないのは、気分転換が出来ないからといえなくないかもしれないかも。