晄騎(3)
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剥がれ墜ちた権威の扉は失墜という比喩を示していた。
かつてはその権勢に相応しく、両に開く重厚な扉があったはずだが、今では落ちた眼窩のような闇があるのみ。学園の内から生まれたものによって、扉は文字通りどこかへと流されてしまっていた。
黒き内より木霊す悲嘆の声。〈大樹〉の中を嘆く風はこの場所から流れてくるのだろう。
機密さ故に、外に繋がる大きな窓などはないはずだが、風を生み出す何かが存在する。
吹き付ける風に、深きに沈めるような重さをエトリは感じていた。
ここから先、一歩踏み込めばそこは異界。その狭間の境界線がここだ。
〝足跡〟を辿り、エトリはこの場所にたどり着いていた。階層としては先ほどの三〇二研究室からはさらに上階となる。
運営執行室。
この学園は公的なものだが、各種取り決めを進める為に代表者が存在する。そしてそれを補佐し、並列的に席を連ねる者たちも。
学園の執行者たちが集う統率を図る評議会場。中は在籍の頭数に比して過剰な広さがあるはずだ。なるほど確かにここは条件がそろっているのかもしれない。
確信する。やはりこの場所こそが〈大樹〉の発生地点であると。
躊躇なく、エトリは中へと踏み込んだ。
先ほどから僅かな耳鳴が不快に響くが、エトリはそれを無意識に追い出していた。今はそれを気にしている場合ではない。
仮にそれが凶兆を報せる類であったとしても。
――この場には彼らがいるはずだ。
執行室の中は外とは様相が完全に異なっていた。
ただ高価な棚と机と椅子が並んでいる。目立って壊れておらず、倒れてすらいない。
それ以外に部屋の中に目を引くようなものは何もなかった。
静かな空間がただ広がっていた。
壁一枚隔てた先とは、まるでちがう世界の出来事であるかのように。
「ここも……? いや――」
状況は三〇二研究室と似通っているところもある。
異なるのは部屋に踏み込む瞬間。いや踏み入った瞬間か。
意識の途切れ――無意識に隙間が生じていた。
入室という一歩が確かに届いていなかった。だから執行室に至るために、そこから改めて三歩以上は歩いた感覚があった。
「どこかの異層に入り込んだか」
不可思議な淡い燐光が人工の光を真似て、昼夜の判断を曖昧にさせていた。
つまりここは執行室に直接的に隣接した座標ではない。
一見、異常はない。綺麗に整頓された部屋。何もない――何もないように見える、だけだ。
エトリは並べられた椅子の一つを無造作に蹴り飛ばしてみた。
強い力を込めたが、椅子を僅かに揺らす程度の効果しかなかった。
「見えない何かが時空を固定させているのかしら」
隠蔽という秘匿ではなく、認識できない何かが存在する。
エトリが目指した場所は〈幻魔生物〉を形作る中核。それは心臓であり脳であり、心である。
人そのものであるかのような機能を備えた無形が描くのは、既知の中に在る凍結されたいつかの情景なのか。
ここより伸ばされた蔓と枝は骨と血管。それがやがて魔力を持つものを認めた時点で、野性を持つ獣と化して各々が乱雑に成長を果たし、今の形となり果てたのだろうか。
「あれは……」
ぽたり、ぽたりと。何も描かれていない空間から、時折雫が落ちていた。落涙のようにしとしとと、その源へと視線を辿るが、そこには何もなかった。
空の虚。世界を反転させた孔があるだけだ。
「そうだ。この場全てが〈幻魔生物〉の核。そしてその孔こそが、出づるための門」
いつの間にかエトリの周囲には彼らがいた。
〈晄騎〉。
強大な力を裏付けるように、溢れ出る魔力が顕現する〈套紋〉。
その姿は輝く力の鎧を身に纏う騎士。
誰もその素顔を知らず、ただ戦場に在りて剣を振るう姿が、かつての高潔たる精神の位を体現しているが故に、便宜上彼らはそう呼ばれていた。
数は三。――三?
「あと五人……どこかに」
完全に見えない。魔力の波動も感じられない。だがエトリは目の前の〈晄騎〉と同様の気配が近くにいるのを確かに察知していた。
あの孔からか。おそらく位相が異なる空間にいるのだろうか。この穴の先を追跡している?
視界を巡らせエトリは状況を推測した。
「何者だ」
「この学園の生徒よ。証は〈騎爵〉七八。現在はこの〈幻魔生物〉の評価任務中」
エトリは鎧を解き、〈賢盤〉に描き出された証を示した。
「何をしに、来た」
学生服の若い娘。当然魔術師であり、この学園で起きた災害に対する資格を持つ手練れでもある。それを察してもなお、その声に熱はなかった。
関与せず。心奪われず。願わず。思わず。信じず。期待を抱かず。
ただ黙して剣を振るう。
だからこそ、その戦士たちは希望と呼ばれる。
希望とはただ燦然と輝き在る正義とは限らない。
孤高より凍てついた心と瞳で全てを見降し、見下ろしてなお、超越と示せば人はそこに希望を見る。
奇跡を選び取るかの如く、諦観という停滞を変えれるならば、それは同じ類のものだ。
同意ではないが、近似ではある。その違いを証明することに意味はない。
「この〈幻魔生物〉の解法に目星はついているの」
「ああ、全ての状況を確認した」
「ならば願おう〈晄騎〉。我らにその御力によって奇跡を」
――この学園を守るために。
黄金の光に包まれた〈大樹〉が響く。それは根を伝い大地を轟かせた。
「なんだ。次はなにが起きている」
「潜行者の帰還は待ってはいられん。もう起爆するべきだ」
「いや、何かおかしいぞ。あれをみろ」
まるで全ての感情が黄金へと昇華されたかのように。
やがて輝きが消え、残された〈大樹〉は緑の要塞ではなく白い冬の枯れ木のようであった。
白化。脱色。生物の範疇を超えた速度で爆発的な増殖を果たした代償は、急激に訪れた老化。
超常的な速成の限界を示すかのように〈大樹〉に死が広がっていた。
表面に次々と刻まれる亀裂が〈大樹〉の全身を走り、その軋みは広がる。
崩れていく。ゆっくりと。まるで濡れた砂の塔が乾き、何の繋がりもない粒子をただ積み上げていることに気付いたかのように。
崩壊の景色の中に再生と復元という可逆は起こるはずもなかった。すでに〈幻魔生物〉という魔術の幻想は終わっているのだ。
時折その中から何かの土塊のようなものが零れ落ちていた。風に吹かれることもなく、未練という臓腑から押し出すかのように、ゆっくりと。
それは人であった。おそらくこの時まで残されていた人質たちだろう。
「瘴気値――混沌値が収まりました。……完全に消えています。汚染レベル問題在りません」
そこでようやく現場責任者は息をついた。清浄を解放するトリガーから指をはなし、汗を拭った。
「よし生存者を救出するのだ」
「これはエトリ――七八の成果ですか」
「いや、彼女の力だけとは考えられん」
「しばらく前に〈幻魔生物〉に向かう光が観測されていた。おそらくあれは――〈晄騎〉」
「追跡指示はいかがしましょう」
「〈晄騎〉は追うな。無駄だ。人員は救助に割け。残りは潜行に向かっていた奴らを迎えておけ」
「何とかなりましたね」
「一応は、な」
強大な〈大樹〉を象った幻魔生物現象に、突如として現れた〈晄騎〉が介入しこれを納めた。
ブルツ・アリスで起きた事件の結末はそう記されることになる。
そういう日常は各地で起きている。
これもそう。そんな〝ある日の事件〟の顛末。




