黒と白(3)
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さらにエトリは進んでいた。
学園は外見こそ大きく変貌を遂げてはいるが、その内部はそれほどの変化はない。
破裂寸前の圧力によって壁や床が剥がれ落ちてはいるが、それでもC級オリハルコンの骨組みに支えられた校舎は内に抱えるものを溢れさせぬよう構造を保っていた。
「……」
〈大樹〉の胎の中。蔓に巻き付かれ、壁に磔られた人影をエトリは見送った。
彼らはまだ生きている。だが力のない空虚な表情のまま、目の前を通り過ぎてもその瞳に光は戻らなかった。ただ時折悪夢に苛まれるように、苦悶に歪む表情を返していた。
これで何人目だろうか。幾度か救出を試みたりもしたが、既にそれは断念していた。
エトリは何度か彼らを外へと運ぼうとしてみた。
あらかじめ周辺の蔓を焼き払い、力のない身体を担ぎ、一歩、一歩と進む。
それが数歩といかぬうちに、消滅させたはずの廊下の植生がいつの間にか復元していた。
確実に消滅させたはずが、時間を巻き戻したかのように再び深緑が押し寄せたのだ。
回復と再生力、そして繁殖は〈大樹〉の植物という性質由来のものだろうが、その速度は常識的な範疇を大きく越えていた。
一番厄介なのがこれである。
ただ焼き払うならば容易いが、その対象が巨大すぎる。引き離すために再生を上回る力を、散り散りに捕らえられている要救助者を傷つけないよう手加減した上で放つ、という繊細な結果は魔術で遂げるものではない。
中途半端な状態を残してしまえばすぐさま再生して囲まれ、再び絡めとってしまうのだ。
その応酬が何度も続いた。それを阻むエトリの攻撃に傷つくこともいとわずに続けられる執着はまるで彼らもこの〈幻魔生物〉の一部であるかのようですらあった。
ひとまず救助は後回しにしておく。あまり悠長に放置するのも危険だが、これではどうしようもない。
彼らの症状としては体内から魔力が失われた状態だが、それで人が死ぬことはない。
魔力とは人が人として営む歴史のさらに後に組み込まれたもの。水や血、骨や臓器といったように、必ずしも体内に無ければならないというわけではない。
体内に在り、力として作用はしても、その目には見えないもの。
魔力とは意思である。
意思とは心である。
そして心とは、経験に基づく思考的な反射である。
魔力欠乏症。それは空腹や貧血に近い。彼らが脱出の為の意思を起こせないのは、行動という思考との連動力阻害されているからである。
この場に置かれているのは徐々に回復する魔力を再び奪うため。そして内外問わず、大規模魔術での破壊をさせないためだろうか。
つまり単純に人質である。
外部との連絡はすでに出来なくなっていた。
〈幻魔生物〉の体内にいるのだから当然だが。攻撃の予兆を感じ、評価をR〝人質あり。慎重な対応が必要〟としたのが最後だ。これで連絡を送らずとも周囲を巻き込むような強硬手段をとることは暫くはないだろう。
「とりあえずどこから手を着けるべきか……」
濃緑という景色は熱帯の只中に近いが、その空気は焦がすような灼熱感ではなく、肌を刺す冷気に近かった。
魔術の余波が空気を塗り替える。
魔術。その源は魔力である人の意思の具現だが、この場に流れるのは――瘴気。
魔力と瘴気。二種の力。その源流を語るなら同じ場所へと辿り着く。
魔力とは人の意思を源としている。そこから派生する瘴気とは入り混じった善悪正負が織りなす心の天秤に、さらに別の力の介入によって転じると言われている。
ただの負の感情が瘴気へと変わってしまうのならば、すでに世界は魔力ではなく瘴気で満たされているだろう。だが瘴気は限定的な状況でしか観測されることはなかった。一体何を原因として、そう転じるのか。その要因はいまだ不明なのだ。
「ただ内に溜まるだけの力。人の身でそれを循環制御して、魔術として放つのは不可能。だから使い道は――自身を滅ぼすこと」
故に瘴気と〈幻魔生物〉という関係は密接に関わっている。変貌という結果はその中心に瘴気を持つ生物が存在することになる。
見慣れた校舎のはずが光の屈折すら違えて見えた。
まるで蜃気楼。瘴気が作る異常温度の間隔と魔力の交わりで大気を歪ませる。混迷した戦場ではごく稀に観測される〝幻象〟であった。
それをものともせずエトリは進んでいた。最初の目的地までは間もなくだ。
「ここで間違いない、はず……」
到着した。第三○二研究室。教師たちが使う事務所兼個室で固められた棟の三階。
戦技や実践魔術の講義と違い、大掛かりな設備を必要としない授業としてはごく普通の個人事務室である。普段なら彼はここにいるはずだ。
「……ふむ」
そこには何も異常はなかった。ただそれが異常だった。
その研究室は不自然なほどに平時のままだった。
蔓延る緑の侵蝕がその場には全く及んではない。
建具の開閉スペースも、換気のためのダクトスリットも、壁に貼られた会報も年月という劣化を除けば、見事に奇麗なままだった。壁を穿ち突き伸ばされた枝もなく、蔓も茨もわずかに生えた苔でさえも、何かの境界線で分かたれているかのように、この研究所だけを避けていた。 授業中の戦技場のように、一般生徒が出入りを制限されている場所というものが学園にはいくつかある。
ここもそれに含まれる区画。もっとも教師たちの未発表の研究も保管されているので、権限というよりはプライバシーの問題なのだろうが。
――この研究棟は所謂悪の魔法使いが、色々怪しい鍋をかき混ぜている台所である。
生徒たちの間にはそういう噂が流れていた。そして彼もそれを否定はしなかった。
つまり教師たちは学園の機材を使い、各自がこっそりと趣向的な研究をすることを許されている。無論本気でやらかしてしまった者は捕まって処罰されるのだが。
魔術補ゆえ最新機種ばかりではないが、それでも高価な機材を自由に使えるのだ。
中には個人で所有するだけでいくつもの制限がかかる物もあるはずだ。自治を持つ学園に所属するということの恩恵である。
――では。例えばそういった機材によってこの〈大樹〉の侵蝕を防げたか。
「……」
鎧の魔術を解放させる。全身を纏う鎧の一部が弾け、素肌の腕がむき出しになった。
エトリは扉に手を掛けた。
音も熱も感じられない。魔力の変動もない。――ひと思いに押し開いた。
「誰も――いない……?」
名前を読んだ。返事はなかった。
非常灯が健気な光量ながら部屋を照らしていた。当然薄暗い。視界は不十分だが、どうやら室内も荒れた形跡はないようだ。
整頓された机まわりも、資料の数々を収めた背の高い書架もいつものままだった。
小さな部屋である。隠れるような場所もない。確認するまでもなく、ここにはいないようだ。
「……」
エトリは両目を閉じた。視野を塞ぎ、深く考えをまとめる。
どこまでもが、いつも通り。平時のままにある。ということは当初よりこの場所にはいなかったということなのだろうか。だが最後に〈賢盤〉が受け取った発信は確かにここだった。
状況的に外に逃げるよりここにとどまっていた方がいいと考えたか。それとも逃げようとしたところで襲われたか。その二つの仮定はどちらにも矛盾があった。
これまで現場を見た状況を思い出し、さらに仮説を立てる。
あの触手は人の魔力を判別し、狙っていた。
つまり魔力を必要としている。増殖するという本能のままに。
だから〈幻魔生物〉は出現地点より、最も近くにある魔力を貪り成長を果たした。
校舎内に大勢の生徒や教師がいる状況では、その成長速度は顕著だった。裏を返せば、大勢の生徒たちがいるからこそ、手当たり次第に爆発的な成長を遂げた、とも言える。
その形跡がこの部屋にはなかった。室内は荒らされてはいない。つまり〈幻魔生物〉が出現した時点ではこの部屋の内外問わず、周辺には誰もいなかったことになる。
ともすれば幻象の一つがあてはまる。
魔力感知に混沌値を多量含むことで情報の精度が下がる。
例えば三次元的な情報解析の誤差。この場所から発信を受けたという解析自体がそもそも間違っているとしたら。
この階より上か下か。それとも同じ階のさらに奥か。
「さて、どこに行ったの、か」
何かメッセージを残していることもないようだ。やはりこれ以上手掛かりはない。エトリは事務室を後にした。
「……!!」
――それと目が合った。
驚愕とともに眼球が躍る。
エトリは戦慄した。たった数秒。致命的に認識が遅れていた。
そこに立つ何かを判別出来ていなかった。
視線の先、吹き抜けを挟んで対称的に廊下があり、同じく多くの研究室が並んでいる。
そこから何かが、真っすぐにエトリを見ているのだ。
それは完全に風景に溶け込んでいた。確かに人のようではある。だが二足で直立した人型をしていようとも、それに意思があるとは思えなかった。
この非常事態である。避難と危険を示す赤信号はいたるところに灯っていた。
その赤色の輝きに紛れるように。何かの発光信号のようなものだと思ってしまっていた。
「何だ……」
エトリの全身は鎧で覆われている。その表情を外から窺い知ることは不可能だろう。
当然視線が合うはずもない。それでも明確にこちらを見ている。鉄の仮面を隔て、エトリという少女の顔を確かに見ている。その視線を感じた。
黒と赤の鐵。
紅玉のように輝く二つの赤。相貌が示す色に嘘はない。確かにそれは警戒色。
〈幻魔生物〉とはまた違う感覚の脅威を感じて、肌がざわつく。
闇の使者の如き黒い身体。宵闇の鋳型から抜き出した黒曜の鋼。陰影で描かれた人の型そのもの。姿形以外に人らしさは感じられない。それは果たして人間と呼べる何かなのか。
生物ではなく、造形という存在。あるいは本当にそうなのかもしれない。
エトリの纏う魔術の鎧に対し、あれは身体に何かを纏っているのではなく、皮膚そのものが鋼鉄に置き換わったかのような印象だった。
残像を揺らがせるような鈍い赤光。その双眸は彼女をどう見ているのか。
すでに数秒。動きはなかった。ただ観察されているのだろうか。
この状況でここにいるということは、やはり〈幻魔生物〉に深い関りがあるのだろうか。敵であればエトリの油断をついて攻撃することはできたはずだったが。
「――」
あれは、ヤバい。
危険で、異質だ。
意思を持っているのか。敵意を持っているのか。言語は通じるのか。
――すべて不明。
エトリの瞳はその鐵の心を写せない。定義できない。
未知という焦燥。その不利は後手に回らねばならぬという覚悟を要する。
容易い案件だと高を括っていたわけではないが、このような危機と遭遇することはさすがに予想してはいなかった。
エトリは決めた。
仮にこちらに向け一歩でも進んで来たのならば、それは攻撃の合図であると断定する。
それを迎え撃たねばならない。
静かなにらみ合いは続いた。数分。いや、もしかしたら一分にも満たないものだったのだろうか。
口火を切ったのは小さな音だった。電子音に近く調整された〈賢盤〉の報せ。限定的に選んだ状況が達成を告げた。
「来たか」
エトリのつぶやきに反応するかのように〈大樹〉が蠢き、新たな枝葉の生成を始めていた。




