黒と白(2)
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エトリが侵入したのは〝なにか〟が起きたであろう場所。その異界数値である反転力――混沌値の高い研究棟からだった。
外部では目立った妨害には合わなかったが、その内部では茨と蔓が作り出す緑の結界が彼女を待ち構えていた。
食虫植物のような特性に人の知恵が加わったかのような知略の罠。それが校舎に何重にも張り巡らされていたのだ。
「何かしら、撃ってくると思っていたけど――」
床か壁に何らかの探知器官があったのだろうか。だが放たれたのは物ではなく、臭いだった。
何かを撃ちだしたのであれば〈套紋〉が弾く。しかし臭いはそうもいかない。
臭いというものは生理的にごく自然に吸収されるもの。例えそれが目を背けるような悪臭であっても、それを攻撃の意思と判断できないからだ。
〈套紋〉を強化することで臭い自体を遮断することもできるが、五感という探知器官の一つを自ら失うというのは戦場において悪手以外の何物でもない。
漂う刺激の正体は植物図鑑にも載っている、究極の臭気を放つという大輪の花。
希少かつ特殊な条件でしか開花しないはずのその蕾がエトリを囲むようにして、大量に開こうとしているのに気付いた時。彼女は攻撃ではなく防御を選んでいた。
生物である以上思わず反応してしまう刺激、というものがいくつか存在する。これもその一つ。ただ踏み潰されるだけの存在が故に纏うことを許された生存特性。
最弱ともいえるその一撃の効果圏内に誘い込まれたその時、意思とは無関係に体が反射を選び、支えに歪みが生まれた。立て直すまでの一瞬。おそらくその僅かな時を狙い、間違いなく何かが迫っている。エトリはそう確信していた。
下手に攻撃して、臭気をまき散らせばそれはさらなる隙を生む。仮にそうしていたのなら次の死角からの触手に捕らわれていただろう。あれは放たれた矢のように見えて、極細の繊維が〈大樹〉とつながっていた。そして先端には牙を備えた顎。
〈大樹〉から延ばされた有線端末。つまり、〈套紋〉の防御力では防げないものだ。
だから彼女はあえて悪手と呼べる対抗策を選んだ。
〈套紋〉を強化。単純に強く纏うのではなく、遮断。外部との接点を無効にした。
視界を閉じ、耳を塞ぎ、肌の感覚を消し、嗅覚を麻痺させた。
五感の内、四つの感覚を殺す。
ただ一つ残したのは、味覚。
嘆息するように肺から空気を漏らし、転じて強く吸う。鋭く速く。超極細の糸を吸い込むかのような吸気がエトリの唇を鳴らす。
舐めつくように舌を流れるのは、まさしく憎しみという心の傷。暗き血を煮詰めたかのような不快な味。
どんな甘味よりもそれは慣れ親しんだ味だ。彼女はこの味を良く知っていた。
ここが瘴気の世界であるならば、魔力を放つエトリは確かに異物なのだろう。
彼女がただ存在することで纏われる大気と、この場を支配する瘴気。その希釈の関係という交わりは、微かな気流の膜を生じさせていた。
そこを突き破ろうと迫る存在がいるはずだ。
深く、暗く、静かに突き進む牙が体に触れる瞬間、必ず不快の味が変わるはず。
かくしてエトリの〝魔術師の肌〟にその牙が触れた。それ以上、僅かにもエトリの肌に食い込むことはなかった。
――斬。
首を絶たれた蛇頭が舞い上がる。
瞳すらないそれが断末の景色を見ることはなかった。
そしてエトリもそれを見ていなかった。
敵であり、誰かの意思であり、救いを求めたなれの果てであったのかもしれない。
彼女がそれに気を留めなかったことは悲劇なのか。
それとも果てに待つ災いを象徴しているのか。
――倒れゆく者へ憐憫を示したのか。
それは誰も知らない。
ただ互いという関係に、それ以上のものを持たない両者がすれ違ったに過ぎない。
隠襲の蛇。それが通用しなかった時点で、次の一手は排除へと向けたのだろう。
吹き抜ける瘴気の風に何かの種のようなものを含ませ、飛散させる。取りついた場所にある魔力で爆発的に成長し、そのまま圧殺。疑似的な空間破裂である。
これには先ほどのような感覚頼りのカウンターは不可能である。
しかもこの場所は薄暗く、魔力と瘴気が混沌としている為、魔術効果の発動が非常に見極め難い。どの位置で防壁を張れば防げるのか判断が難しいのならば、回避と対抗に魔力割くこととなる。
再び〈套紋〉の、その応用で切り抜けることを選ぶ。
これが普通の魔術師であればその選択を選ぶしかない。だが〈套紋〉で風の鉈を防げるかは確率という面では分が悪いのだ。
放った魔術師が〈大樹〉であり、放たれた魔術が種子という性質であること。
単純な質量差が魔術戦の全てではないが、砦ともいえる超巨大幻魔生物である。
その有り余る力に対して、戯れのように放たれたものが極小のつぶてであっても、そこにどれほどの力が加えられているか。見た目通りであるはずがない。
このままでは流石に分が悪いか。だからエトリは奥の手を使うことにした――
「いろいろ考えてくる。さすがに厄介か」
侵入時からこれまで、すべての罠をエトリは切り抜けていた。すでに警戒されているのだろう。その性質は捕らえることより、戦闘不能を狙ったものへと変化していた。
「さて、お次は何が来る……」
背後から大きな風切り音が響いていた。
再び放たれたのは先ほどと同じく、有線式の緑の砲弾。それが同時に五つ。
周囲を警戒したが、今度は臭いを放つトラップはないようだ。それがなければ大したスピードではない。ただ撃ちだされただけならば、斬りはらうことは容易い。
「周囲に人影なし。……ネタ切れかな」
だが剣にふれる、その右手が動かなかった。
いつの間にか天井より垂れていた極細の蔓が剣に絡みついていたのだ。
「狙いはこっちか……!」
戦力を削ごうという考えか、次々に擬態を解き、刃に傷つくことすら厭わずに四方八方から蔓の触手が伸ばされ、その腕のみならず四肢へと絡みつこうとしていた。
迫る飛翔体を魔術弾で迎撃。空いた腕も即座に添え、力を入れ引きはがそうともがく。
「く……、このっ……おぉっ……!」
力づくで引き千切ろうともがくが、〈大樹〉の芯からでも繋がっているのか、極細の見た目に反して、鎧に軋みを与えるほどの強靭さで魔術で強化されたエトリの力と拮抗していた。それどころかさらに分枝を重ね、指の隙間に入り込んでエトリの握力を分散させてしまう。
「あっ……!」
さらには接近していた別の触手が、逆の腕にも絡みつき反対側へとエトリを引きずっていた。
「しまった」
遂にはエトリは手を放してしまった。完全に宙に浮いた剣の周りには一瞬で何重にも蔓が絡みつき、激流のようにその場から持ち去っていった。
蠢く波は一瞬で遠ざかっていく。
「……。……今」
エトリは指を弾いた。その瞬間、彼方では剣そのものが魔力の炎と化していた。
それを掴んでいた触手も業火の柱に一瞬で焼かれた。炎は無差別に焼き広がりはせず、ただ触手だけを焼滅させながら繋がる先端へと目掛け、導火線のように走り出していた。
蔓の分岐に対抗して数を増やし、無尽に視界内を走る小さな赤い閃光。
堪らず〈大樹〉の意思は焼き落ちる前の末端を切り離した。それを隠すように急速に緑の苔が発生し中心へと繋がる切れ端を隠してしまった。
これで〈大樹〉の芯――魔術師への手掛かりは途切れたことになる。
「ダメか。上手くいけば最深部まで届くかと思ったのに。地道に降りていくしかないようね」
既に何の力も込められていない蔓を引き千切る。かざした手には再び剣が握られていた。




