黒と白(1)
【8】
その町の名を冠した学び舎は、町の興りと共に長き歴史を歩んできた。
中央の繁華街や区画整理の対象となっている廃墟区域。そんな静と動との間。程よい距離をおき、校舎は小高い山を背に、閑静な土地にあった。
丘の麓にある本館と、その周辺に点在するいくつかの別館。本来ならば学生たちが日常を送る平和な場所だが、今では緑の苔がはびこり〈大樹〉という砦の一部へと変貌していた。
◆
割れた窓。荒れた教室。そして薙ぎ払われ、意味のなくなった壁や天井。
学校という檻の中で爆ぜた爆弾。
校内のどこもかしこも似たような状況だった。
その空いた空間を縫いつけるように生い茂る〈大樹〉の端末が今では学園を侵食していた。
風化した人工物に長い年月をかけて草木が根付き、生態系の一部となる。
そう見て取るにはちぐはぐで、歪な光景。この場所には継ぐ為の息吹というものが感じられないからだろう。緑の匂いも、通り抜ける風も何処か違和感を感じるオブジェでしかない。
なぜならここは魔術という奇跡が生み出した、幻想という回路の一つなのだ。
「まるで……あの場所のよう」
寂寥の心象をかき分けるようにして足音が近付いてきていた。
この棟の内部は地上階からの吹き抜けがあるため、その全ての階を〈大樹〉が貫くことで、完全に深緑の世界と化していた。
反転した世界。その中の異物。躊躇なく進む足取りは緑を侵していた。
純粋な魔力は混沌という淀みを、再び在るがままのものへと希釈してしまう。瘴気の中に生きる存在には、それは汚染と同意なのだ。
この場に至るまでも。領域の只中を進むその異物は、妨げるもの悉くを〝拓く〟ことでここまで進んで来ていた。
――その傲慢の足音こそ、人間の証。
そして意思は目を覚ます。幾重にも壁に張り付いた蔓のごく小さな一房に光が宿った。
目だ。意思を持つことを示すかのように妖しく瞬く。ただの蔓にしか見えなかったものが植物としての擬態を解き、餓えた肉食獣のように獲物に狙いを付けた。
――この瘴気の胎にいて、何故まだ人間が動いていられるのか。
そう自問することはなかった。魔力という餌を持つならば。彼処に敷き詰められている苗床と同様に、栄養源としてしまえばいいのだ。
今、侵入者が角を曲がった。
陽の光の乏しい屋内に生まれた密林は無数の死角を作りだしている。その中の小さな個体が植物にはもちえない狡猾さで、死角より窺がっていることなど、まったく気付いてはいない。
いや気付くことすら不可能だろう。同様に壁や床にびっしりと絡みついた蔓はいくらでもある。目の前に立ち塞がるならばともかく、魔力と瘴気の混在するこの空間からその小さき存在を探すのは、森の中から選ばれた一枚の葉を探しぬくようなものだ。
「……」
かくしてその意思の目論見通りに、人間の女は愚かにも通り過ぎた。
振り返ることも何かに気付くこともなく、歩みを止めることはなかった。
一歩。さらに一歩と女は遠ざかる。
ゆっくりと過ぎ去る背中。そこに。まるで木々から葉が不意に流れ落ちるかのように。無音の悪意は放たれていた。
それは植物ではあり得ない、自律的に食欲を満たすための連携。
何かがはじける小さい音。
「うっ……」
呻くような女の声。
それが合図だ。
地上に突き出た根の先端。ただの節くれのようなものが活性化した。
死角を狙い矢の如く弾かれる。直線的な動きではない。狡猾にも風を読むように、接近の気配を巧妙に消して見せた。
低空を滑る蛇は捻じれるような鎌首をもたげた。
だが、その牙が届くよりも早く、顎は両断されていた。
もとより魔力で作られた不確かなもの。本体から切り離され、宿った力を失ったことで魔力へと還り、世界に霧散した。
その女は剣を抜いていた。背後を振り返ることもなく。ただその身を狙うものを斬り捨てたのだ。
しかしこれで終わりではなかった。
最初の一を失うことが合図であったかのように、無体の波が彼女に迫っていた。
狭い通りを吹き抜ける旋風。その中に紛れ込んだ何かが颶風の鉈となり、彼女を包む全方位を囲み、切り刻むかのように吹き荒れた。
無軌道に騒ぐ鎌鼬。閉じ、絞り、縛る。流れ、過ぎた跡に残るのが人の形であるはずがない。
餌とするのではなく、その身体に溶け合う魔力ごと喰らう気なのだろう。
一本の矢ならば狙い斬り飛ばせても、同時に放たれた複数の矢では何かで遮るしかない。
荒廃したとはいえ、この場は直線的な通路である。遮るものも身を隠す場所も、ない。
それどころか、そこら中に蔓延る見えない射手から狙いをつけられている状況では、逃げ場など有るはずがない。
「……」
その時。空気の流れが変わった。
生まれた風は不可視の空間歪曲となり、瞬く間にすべてが焔に焼かれたかのように、溶けた。
霧散する朽ちた瘴気の残滓が、籠った室内に濃霧となり広がっていく。
再び風が流れ、澄み晴れたその時。
そこには制服を着た女生徒ではなく、輝く純白の騎士が立っていた。
全身を覆う鎧はただ鉄を重ね張り合わせたものではなく、むしろ掲げる白銀の剣に同じく、鋼を削り、鍛え上げたかのような攻撃的な鋭角で構成されていた。
白刃の翼をたたむ猛禽。
その双翼はただ雅を誇るのではなく、獲物へと強襲をかける戦女神の拵えを思わせる。
護る為の鎧ではなく、いわば斬る為の鎧。騎士がもつ第二の剣。
白き輝きの中に立つ、月光を携えた騎士。
「邪魔をするな」
鎧の騎士がその剣を翻した。響く声は確かにエトリのものだった。




