その日の放課後(2)
その部屋は無人だった。
「……」
鼻を鳴らすような小さな吐息。少し落胆したのかもしれない。
通り掛けにテレビのリモコンを入れると、洗面所へと侵入した。
鏡を見た。わずかな微笑が自分を見つめていた。頬をなでる。笑顔という形を確認する。もうすこし目を細めた方がいいのかもしれない。
表情をほぐしながら衣服に手をかけた。
〈D装備〉と呼ばれる実用性という名の拘束具。
幾重にもまかれたベルトと鋼の護りが繋がれ、薄手の衣がそれ以外を覆っている。だがよくよく見れば気付くだろう。急所各部の鉄板は小さな金属片の集合体であり、その大部分は取り巻く布繊維を立体的に折り重ねたものであると。
つまり防護のための加重は最小限に、俊敏性を生かした行動を意図とした装備である。
「よっ……と」
一番の外皮である胸部装甲に手をかけた。ボタンを外すように一定角度に金属片を回すと、鎖骨とわきを通るベルトの拘束が緩んだ。それが布本来の余幅を広げ、窮屈に収められていた胸が主張するように膨らんだ。
「ふう……」
押し込めるような締め付けがなくなり、思わず息を吐いた。そのままベルトを順番に外し、それに連動して布が金属片に巻き取られていく。
「んっ……」
薄暗闇の中、僅かな光源が汗に濡れた肌を照らしていた。
授業とは違い、本気で体を動かしたことにより僅かに乱れた鼓動が身体を揺らす。首筋から胸へ。胸の膨らみをなぞり下腹部へ。流れる滴りが瑞々しい輝きを散らした。
「あつい……」
思い付きで放課後の約束をしてしまった。いつも通りという日常と、時々の意外性というスパイス。多分こうやって友好という絆は強くなるのだろう。だが何度もやると嫌われてしまうかもしれない、相手が間違いなく時間を余らせている状況を見極めなければならない。
逆に誤算だったのはしばらく時間をつぶさねばならなかったことか。まあ、いろいろと準備とかあるし。それにこういう時こそ、あれをするべきなのだろう。
「よし……お腹は空かせた。話題もそろえた」
あれから一時間は経っていた。ブライカとは逆に、授業がなかったエトリはその時間を使って一人でトレーニングしていた。
着替えを続ける。下半身を縛るベルトに手をかけていく。幾重にもまかれたベルトを一本ずつ外すたびに溜まった汗がエトリの体を冷たくなぞった。
「よ……っと」
脱ぐというより、外すといった手際で身体の固定をほどいていく。
臀部から太もも、膝、脛へと武骨に固められたシルエットから脱し、魅惑的な脚線を取り戻していく。
同じ授業を選ぶ生徒の中にはそうしたエトリの容姿を目当てにしている者も多くいるが、邪な考えで近寄るものは何一つ近寄る手段を得られないままに去っていく。逆にその涼やかな姿勢に憧れている者は残っていた。彼女に技術的に近付こうと努力するので、結果として参加者の技量の平均がどんどん上がっていることを当の本人は知らない。
「んー」
薄いインナーだけが包むお尻を撫でた。芯となるしなやかな筋肉の上につく柔らかな脂肪が気になるが、これは仕方がない。股間に向かい鋭角を描いているのはブライカに線が出ないからと勧められたやつだ。
肌に張り付く髪を柔らかく絞ってから後ろにはじき、タオルで滴る水気をふき取る。拭い終えて水分を吸ったタオルはまとめて備え付けの洗濯かごに放り込んだ。
その背後に気配が近付いていた。
足音はそのまま一息たりとも止まることなく、通り過ぎていった。
レールカーテンの簡素な仕切りはあるが、エトリはそれを閉めてはいなかった。
「遅かったわね」
恥じらうどころか、むしろ堂々とエトリは通り過ぎた背中に声をかけた。長い髪がまだ湿りを残す肌に絡みつく。それをかきあげる仕草は気だるげだが、首筋から鎖骨へと流れる体のラインはむしろ淫奔な匂いすら感じさせる。
「どうした」
振り返って教師が問いかけた。その視線はまっすぐにエトリを捉えている。そこに気恥ずかしさや戸惑いは微塵も感じてはいないようだ。親密というよりも、ただ教師が生徒の行いに疑問を感じ状況を尋ねる、そんな声色だった。
だからそれを見返すエトリも気に留めない。自分と彼は付き合っている。友好的で、親密な関係であることを疑わない。疑問を挟む余地などない。だから今日もこうして僅かな時間に理由をつけて足しげく会いに来ているのだ。
「汗をかいたから、着替えながら待っていた」
エトリたちがいるのは女子更衣室でも、浴場でもない。ここはただの教師用事務室だ。そして臨時といえど、参加した彼が終了一時間後に事務処理のためにここに来る可能性が高いのは当然である。……いや違うか。一時間。授業が終わって一時間後。確かその時間に会う約束をしていたはずだ。その指定はきっかり一時間後、だったはずだ。
「そうか」
教師はそのまま引き返して、エトリのいる脱衣場のカーテンをぴしゃりと閉めた。
足音が遠ざかる。椅子が軋みを上げた。机についたのだろう。
「ええ」
カーテンを閉める間際に一糸まとわぬエトリの素肌を確実に目にしたはずだが、やはり平然としていた。それから無言が続いていた。仮にこの場にブライカがいたとすれば、付き合って早くも倦怠期を迎えて破局間近だと含み笑いしていたかもしれない。それ程に互いのことなど気にしていないかのように。もしくは熟年したつがいだけが持ち得る無言の疎通か。どちらにせよ枯れてはいるが。
着替え終わったエトリがカーテンを開けた。そのまま彼の真後ろまで忍び寄った。
手を伸ばす。キャスターが軋みをあげそれより早く百八十度回転した。
「他に予定は?」
「特になかった。――貴方の顔を見ることぐらい」
いつもかけている眼鏡はまだ胸元のシャツに挟んでいる。エトリは椅子に座ったままの恋人の、その僅かな吐息すら感じる距離まで顔を近付けた。
見つめるように。伝えるように。映すように。瞳をじっと覗き込んだ。
「感想は?」
精悍な顔立ちをしているが、働く大人特有のどこか輝きの濁った眼。髭は丁寧に処理しているのか剃り残しはなく、この時間でさえさっぱりとした肌艶。
肩にタオルをかけてはいるがあまり湿り気はない。汗臭くもなく香料も匂わせない。
「んー」
剣を握るにしては長く柔らかい指が教師の頬と首を包み込んだ。体温と血の流れを感じる。
――食い込む指はまるで首を絞めているように見えるのかもしれない。
小さく息を吐く。蠱惑的な吐息と共に、暗い茶色の眼球をのぞき込んだ。
この教師は自分の、世間的に言うなれば恋人。付き合っている、という人間関係。家族という間柄未満としては最も親しき者。
「うん、そうね」
視線が重なる。数秒。時間にしてわずかにその程度。二人の時が止まっていた。
――それはまるで巨大な何かが、僕となる者への契りを施すかのように。
「まあまあかな」
そんな返事をすると、胸にかけていた眼鏡をつけてエトリは事務室を出て行った。