六十話 閉ざされた門と、崖の道
今回は、夜明け前から始まります。
巡礼者に紛れて、祝祭の谷へ。
でも、敵は、思っていたよりずっと早く動きます。
そして、背中に、誰かの視線が触れます。
夜明け前。
目を覚ますと、洞窟の入り口の闇が、薄い灰色に変わり始めていた。
体が、軽い。
指先の震えは、消えていた。
(……ちゃんと、眠れたんだな)
身を起こすと、入り口に、セラの背中があった。
「……ずっと、見張りをしてくれてたのか」
「はい。眠るのがあなたの仕事だと言ったのは、私ですから」
セラは、振り返って、少しだけ笑った。
「ルシェさんは、もう偵察に出ました。日の出までには戻る、と」
「そうか」
「見張りの二人の様子を、確かめに行きましょう。封は、朝にもう一度、重ねておきたいので」
岩陰の洞窟に回ると、入り口の大岩の表面に、白い紋様が、一晩経っても薄れずに残っていた。
「異常は、ありません」
セラが、岩の隙間から、中を覗き込む。
「起きていた方は……眠っていますね。もう一人は、まだ目を覚ましていません」
「あの男が、眠れるのか」
「眠ったふりでしょう。目を閉じたまま、口元が笑っています」
背筋が、ひやりとした。
「あの気配の古さは、今の天界の命令で動く者のものではありません」
セラは、隙間から目を離さずに言った。
「おそらく、天界を離れた天使たちです」
「神に仕えてるのに、天界とは別なのか」
「ええ。……それが、いちばん、奇妙なところです」
セラは、岩の封に、もう一枚、光を重ねた。
白い紋様が、ぱっと明るくなる。
その光が——
まばたいた。
「……っ」
一瞬、光が、閉じて、開いた。
まるで、瞼みたいに。
同時に、首筋に、視線が触れた。
冷たい指で、うなじをなぞられたような。
反射的に、振り返る。
谷の向こうの、薄明るい空。
誰も、いない。
遠くて、高くて、冷たいのに、すぐ傍から覗かれているような視線だった。
視線は、一呼吸ほど、俺の顔のあたりに留まって、それから、すっと離れた。
「ハエル?」
「……今、誰かに、見られてた」
セラの目が、鋭くなった。
「教団の見張りでしょうか」
目を閉じて、周囲の気配を探る。
「……何も、感じません。人も、天使も、近くには」
「気のせいかもしれない」
「かもしれません。ですが、念のため、警戒を強めます」
セラは、掌の光を消した。
その手を、ほんの一瞬だけ、じっと見つめて、袖の中に隠した。
「……セラ?」
「何でもありません」
少しだけ、間があった。
「私は、天界の命令に背き続けています。調査の報告を怠り、大天使の命令にも逆らいました」
セラは、静かに言った。
「それなのに、何の沙汰もありません。罰も、警告も」
「ああ。前から、言ってたよな」
「見逃されているのだと、思っていました。でも」
袖の中の手が、握りしめられる気配がした。
「見逃されているのではなく、何かを待たれているような気がして」
「何を」
「分かりません」
セラは、首を振った。
「ただ、今朝の光は、昨日より、ほんの少し重く感じます。気のせいだと、思いたいのですが」
首筋には、冷たい感触が、まだ薄く残っていた。
光が、まばたいた。
見間違いだったのか。
でも、あの一瞬、確かに、光が、目の形をしていた気がした。
言葉にするには、あまりに頼りなかった。
「何か変だと思ったら、すぐ言う。お互いに」
「はい。約束です」
セラは、少しだけ、安堵したように頷いた。
日の出と同時に、ルシェが戻ってきた。
「戻った」
岩の上から、ひらりと飛び降りて、肩についた草を払う。
「橋の向こうは、どうだった」
「思ったより、ずっと厄介だ」
ルシェは、地面に、爪で、がりがりと線を引き始めた。
「橋を越えて、半日ほど北へ行くと、巡礼者が通る本道に出る。そこから先に、見張り小屋が三つ。どこも、人間と天使の二人組だ」
「人間が剣と弓を持って、天使が結界を張る。役割を分けているのでしょうね」
セラが言った。
「昨日の二人も、その一組だったのかもしれません」
「谷の奥には、天幕が、ずらっと並んでる」
ルシェは、顔をしかめた。
「数百はある。白い帯を腕に巻いた連中が、続々と集まってる。ほとんど、人間だ。病人も、爺さん婆さんも、子どもまでいる」
「……皆、教団の信者ですか」
「信者ってより、巡礼者だ。皆、歌ってる」
「何を」
「『巫女様、お帰りなさいませ』ってな」
腹の底が、ぎゅっと冷たくなった。
「荷車も、何台も見た。白い布と、花を山積みにして。……満月の夜の、準備だろうな」
「祭りの、ですか」
「祭りの準備みたいだった」
ルシェは、吐き捨てるように言った。
「リナを神のお側に差し出す儀式を、祝祭にしてる。気持ち悪い連中だ」
胸の奥が、ざらついた。
人を差し出すことを、祝う。
あの男の、うっとりした顔が、頭をよぎった。
「もう一つ、妙なことがある」
ルシェが、眉をひそめた。
「天幕も、見張り小屋も、どれも、まだ新しい。木の匂いがする。張られてから、十日かそこらだ」
「十日……」
セラが、はっとした顔をした。
「リナが覚醒してから、ちょうど、それくらいです」
「覚醒?」
「教団は、長い間、活動の形跡が、ほとんどない組織でした。それが、これだけの人数と設備を、短い間に整えて、表に出てきた」
セラは、静かに言った。
「眠っていたものが、リナの覚醒を合図に、一斉に目を覚ました。そうとしか、考えられません」
「あの転移の石も、そうか」
「ええ。あれも、古い仕掛けでした。巫女の覚醒で、動き出したのでしょう」
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
(……リナが、目覚めなければ)
そこまで考えて、首を振った。
違う。
あの時、リナが目覚めなかったら、セラは、取り戻せなかった。
「リナのせいじゃない」
「はい」
セラが、静かに頷いた。
「リナの覚醒が引き金になったとしても、責められるべきは、リナではありません」
「悪いのは、攫った連中だ。それだけだ」
ルシェが、短く言った。
「見張りの目をかいくぐって、奥に忍び込むのは、無理か」
「無理じゃない。でも、一晩じゃ済まない。罠も、結界も、多すぎる」
ルシェは、爪の先で、地面の天幕の群れを、とんとんと叩いた。
「だから、巡礼者に紛れて、堂々と入る」
ルシェは、腰の小袋から、白い布を三本、取り出した。
「巡礼者は、全員、これを腕に巻いてる。……借りてきた」
「借りてきた?」
「本道沿いの、巡礼者の休憩所の、洗濯物の中から」
「それは、盗んだと言うのでは……」
セラが、困った顔をした。
「代わりに、干してた場所に、銅貨を置いてきた」
ルシェは、少しだけ視線を逸らした。
「……たぶん、足りてる」
「ルシェ……」
「文句は、後で聞く。使えるもんは、使う」
三本の白い帯が、朝日に、白く光った。
「もう一つ。これは、最後の手段だ」
ルシェは、爪で、線をもう一本引いた。
「三つ目の門の、少し手前。谷の岩壁に、縦の裂け目がある。そこから、岩に沿って、獣道が奥へ延びてる」
「見張りは?」
「いない。足場が最悪な分、誰も、そこを通るとは思ってない」
「覚えておく」
「ああ。使わずに済めば、それが一番だけどな」
「セラは、どうする」
俺は、セラを見た。
「天使が巡礼者の列に混ざってたら、目立つだろ」
「光を、体の奥に閉じ込めます」
セラは、静かに言った。
「そうすれば、ただの旅人の気配になります。ただし、その間は、ほとんど魔法が使えません」
「なら、先にルシェの偽装をかけてくれ」
「はい」
「角は、フードで隠せる。気配は——」
セラが、ルシェに向き直った。
「私の光で、薄く覆います。天使の光に包まれるのは、不快かもしれませんが」
「不快なんてもんじゃない。全身が、むずむずする」
「我慢してください」
「……さっさと、やれ」
ルシェは、諦めたように目を閉じた。
セラが、掌をかざす。
柔らかい光が、ルシェを包んだ。
ルシェの肩が、びくっと跳ねる。
「……っ、これは……」
「もう少しです」
「……自分の体が、自分のじゃないみたいだ」
やがて、光が収まった。
ルシェの魔族の気配が、薄い膜に覆われたように、かすんだ。
「完璧です。近くで見ても、人間の少女にしか見えません」
「いつまで、もつんだ」
「三日は、大丈夫です。満月の夜までは、十分です」
セラは、胸の前で、両手を重ねた。
体を包んでいた淡い光が、すうっと、内側へ吸い込まれていく。
「……光が、消えた」
「消えたのではありません。奥に、閉じただけです」
セラは、少し、心細そうに笑った。
「翼を縛られているようで、落ち着きませんが」
「ルシェ。巡礼者の挨拶、できるか」
「できる」
ルシェは、胸を張った。
「神のご加護がありますように」
「……」
「……」
ルシェが、むっとした顔で、二人を見た。
「何だ、その沈黙は」
「いえ。とても、心がこもっていました」
セラが、真面目な顔で言った。
「棒読みだけどな」
俺が言うと、ルシェの爪が、ぴくりと動いた。
「……次は、もう少し、滑らかにやる」
思わず、吹き出しそうになって、咳でごまかした。
俺は、武器を、短い刃物一本だけ残して、袖の内側に隠した。
巡礼者に、剣は似合わない。
白い帯を、腕に巻く。
「行こう」
三人は、橋を渡った。
鈴は、布を巻かれたまま、沈黙していた。
谷沿いの細道を、歩いた。
昼過ぎ、道が開けて、巡礼者の本道と合流した。
白い帯を腕に巻いた人々が、ぞろぞろと、同じ方向へ歩いている。
その列の中に、俺たちは、そっと紛れ込んだ。
白い花を抱えた老婆。
杖をつく、片足の男。
小さな子を背負った、若い母親。
誰もが、穏やかな顔をしていた。
穏やかすぎて、胸が、ざわついた。
「お前さんたちも、巡礼かい」
隣を歩いていた老人が、話しかけてきた。
「……はい。遠くから」
「そうかい、そうかい。ご苦労さん」
老人の隣には、七つか八つくらいの男の子が、手を引かれていた。
こほ、こほ、と小さな咳をしている。
「うちはな、先祖代々、巫女様のお帰りを待て、と言い伝えられてきた家でな」
老人は、嬉しそうに言った。
「親からは、決して人に話すな、ときつく言われて育った。だから、ずっと、黙っとったんだ」
「……ずっと、ですか」
「ああ。まさか、本当にその日が来るとは、思わんかった」
老人は、腕の白い帯を、愛おしそうに撫でた。
「十日ほど前だ。村に、白い外套の天使様が訪ねて来てな。『巫女様が、お目覚めになった。時が来た』と、おっしゃった。それまで、教団の名を、口に出したことすらなかったんだがなあ」
セラが、ちらりと俺を見た。
さっきの推測が、本人たちの口から、裏づけられた。
老人は、男の子の頭に、手を置いた。
「この子もな、その頃は、肺をやられて、寝たきりだった。医者は、もう駄目だと言った。それを、天使様が、一晩で治してくださったんだ」
セラの肩が、わずかに揺れた。
「天使様の光に包まれてな。朝には、歩けるようになっとった」
「だから、ご恩返しだ。巫女様が、お帰りになる。これで、神様もお元気になられて、世の中も、また穏やかになる」
「……そう、ですか」
声が掠れそうになるのを、必死で抑えた。
この人は、知らない。
巫女が、神の側に仕えたまま、この世に戻れなくなることを。
言ってやりたかった。
でも、言ったところで、信じてもらえるはずがない。
孫の命を救われた人間に、「その天使たちが、一人の娘を差し出そうとしている」と言っても。
「……元気になって、よかったですね」
絞り出すように言うと、老人は、目を細めた。
男の子が、またこほ、と咳をした。
ルシェが、フードの奥で、ふいに動いた。
腰の小袋から、小さな瓶を取り出す。
リナにもらった、疲労回復の薬の、残りだった。
ルシェは、それを、そっと男の子の掌に握らせた。
「……少し、舐めとけ。元気が出る」
低く、短く。
男の子は、きょとんとした顔で、瓶を見た。
老人が、慌てて頭を下げる。
「これは、ご親切に。ありがとうございます」
「いい。咳が、耳に障るだけだ」
ルシェは、そっけなく言った。
男の子が、瓶の中身を一口舐めて、目を丸くする。
「……あまい」
「だろ」
ルシェは、それ以上、何も言わなかった。
胸の奥が、じんと熱くなった。
リナの薬が、リナを連れていった連中を信じて巡礼に来た子を、元気づけている。
皮肉みたいだった。
でも——それでいい、と思った。
あの薬は、そういうものだ。
疲れた誰かを、元気にするために、作られたものだ。
一つ目と二つ目の見張り小屋は、白い帯を見せるだけで、通れた。
人間と天使の二人組は、疲れた顔で、列を眺めているだけだった。
その時は、まだ。
同じ頃。
一つ目の見張り小屋の屋根の上で、白い外套の天使が、橋の方角へ、掌をかざしていた。
「……おかしい」
隣で弓を構えていた人間の見張りが、顔を上げた。
「どうしました」
「橋の小屋から、昼の合図が来ない」
天使の掌から、白い光が、ちかちかと、短く点滅した。
橋の方角へ。
返事は、ない。
もう一度。
返事は、ない。
「……何度、呼んでも?」
「交代の者が着くまで、定時の合図を欠かしたことは、一度もなかった」
天使の顔から、血の気が引いた。
「連絡が、つかない」
人間の見張りが、息を呑んだ。
「橋の小屋は、何があっても——」
「分かっている」
天使は、屋根を蹴って、地面に降りた。
「騎を一人、橋へ走らせろ。それから、谷の奥へ、至急の合図だ」
「はい!」
天使は、掌を、谷の奥へ向けた。
今度の光は、長く、強く、何度も点滅した。
光は、見張り小屋から小屋へ、リレーのように、谷の奥へ伝わっていく。
やがて、谷の奥の白い建物の、いちばん高い塔の窓に、小さな返事の光が灯った。
短い光が、三つ。
天使は、それを読み取って、低く言った。
「……門を閉じよ。巡礼者は、全員、検めよ」
人間の見張りが、唾を呑んだ。
「橋の見張りが、襲われたんですか」
「分からない。だが」
天使は、白い建物を、睨んだ。
「見張りを黙らせるほどの者が、巫女様を狙わないはずがない」
その少し後、谷に、角笛の音が響き渡った。
長く、鋭く、三度。
列が、ざわついた。
「何事じゃ」
老人が、首を伸ばす。
前方の門の上で、白い外套の天使が、大きく腕を振っていた。
「門を閉じる! 巡礼者は、全員、その場で待て!」
重い扉が、ぎしぎしと音を立てて動き出す。
「これより、全員に、光の検めを行う! 列を乱すな!」
巡礼者たちが、不安そうに顔を見合わせる。
「検め……?」
「何かあったのか」
門の脇から、人間の見張りたちが、槍を構えて列の前に出てきた。
天使が、一人ずつ、掌をかざしていく。
掌から放たれる白い光が、巡礼者の体を、さっと撫でる。
それだけで、何かを見透かしているようだった。
セラが、小声で言った。
「光の検めです。天使の光で、魔の気配や、隠した力を調べる術です」
「ルシェの偽装は?」
「近くで光を当てられたら、持ちません」
セラは、自分の袖を、そっと握った。
「私が光を閉じているのも、調べられれば、分かります」
「……橋の見張りが、気づかれたのか」
「そう考えるのが自然です。思っていたより、ずっと早い」
ルシェが、前を向いたまま、舌打ちした。
「悪くない手際だ。気づくのも、動くのも早い」
「感心してる場合か」
「してない。腹は立ってる」
列の前方で、検めを受けた巡礼者が、一人、また一人と、門の中に消えていく。
こちらの番まで、あと、三十人ほど。
「……使うぞ」
ルシェが、俺にだけ聞こえる声で言った。
「さっき言った、崖の獣道」
「ここからか」
「少し手前に戻る。検めを嫌がって、後ろに下がる連中は、他にもいる。紛れて、藪に入る」
俺は、老人の方を見た。
「……すみません。連れが、少し具合が悪いので、後ろで休ませます」
「おや、そうかい。無理はいかんぞ」
老人は、心配そうに頷いた。
男の子が、ルシェを見上げた。
「……おねえちゃん、行っちゃうの」
「また、あとでな」
ルシェは、少しだけ、男の子の頭に手を置いた。
「あまいの、一気に全部舐めるなよ。少しずつだ」
「うん」
また、あとで。
その「あと」が、この子たちにとって、どんな形で来るのか。
俺は、何も言えなかった。
「祈りの間で、また会おう」
老人が、にこにこと手を振った。
俺たちは、頭を下げて、列の端から離れた。
三人は、藪に滑り込んだ。
藪の奥、谷の岩壁に、縦に割れた裂け目があった。
その裂け目から、獣の通った跡が、岩壁に沿って、上へ延びている。
「ここだ」
ルシェが、先頭に立った。
道、と呼べるものではなかった。
岩壁に張りついた、足一つ分ほどの出っ張り。
風が、谷底から吹き上げてくる。
見下ろすと、巡礼者の列が、小さな白い点になって並んでいた。
「……これを、行くのか」
「見張りがいないのは、見張るまでもないからだ。普通は、落ちる」
ルシェは、先に岩壁に手をかけた。
爪が、岩の隙間に食い込む。
「あたしの足跡だけ、踏め。ずれたら、死ぬ」
「簡単に言うなよ、、」
ルシェに続いて、俺が登った。
最後に、セラ。
セラは、岩壁の前で、少し立ち尽くしていた。
「……セラ?」
「飛べれば、楽なのですが」
「飛んだら、一発でばれる」
「分かっています。……分かっているのですが」
セラの指先が、わずかに震えていた。
「飛べる翼を閉じたまま、高いところに立つのは、思ったより、怖いものですね」
「手、貸す」
俺は、岩壁の途中から、手を差し伸べた。
セラは、少しだけ迷って、その手を取った。
冷たい手だった。
ぎゅっと、握り返される。
セラは、小さく息を漏らした。
笑ったのか、深呼吸したのか、分からなかった。
岩壁を、半分ほど進んだ時だった。
「……っ」
先頭のルシェの足が、止まった。
「ルシェ?」
「……まずい」
ルシェの輪郭が、ぼんやりと、揺らいで見えた。
フードの下で、何かが、ちらりと透ける。
「偽装が、持たない。風と、疲れと、あとは——この高さだ」
「角が」
「分かってる」
谷の下を、見下ろす。
巡礼者の列の脇を、白い外套の天使が、歩いていた。
その天使が、ふと、足を止めた。
顔を、ゆっくりと、上げる。
こちらを、見ている。
「……見られる」
「セラ」
「分かっています」
セラは、ルシェの肩に、そっと手を置いた。
「動かないでください。一筋だけ、足します」
掌から、細い光の糸が、ルシェの体に染み込んでいく。
ルシェの輪郭が、ふっと、落ち着いた。
その瞬間——
光が、まばたいた。
「……っ」
首筋に、あの視線が、触れた。
今度は、はっきりと、重かった。
冷たい指が、うなじから、背骨の上を、ゆっくり撫でていく。
息が、止まりそうになった。
視線は、俺の顔を、ゆっくり、舐めるように見て、それから——セラの掌の光を、見つめた。
まるで、確かめるように。
やがて、すっと、離れた。
谷の下の天使も、首をかしげて、視線を外した。
「……行ったか」
「ええ。もう、大丈夫です」
セラが、掌を引いた。
指先が、白く、血の気を失っていた。
「……セラ」
ルシェが、岩壁にしがみついたまま、低い声で言った。
「今、お前の光、二重に聞こえた」
「聞こえた、ですか」
「音がしたんだ。魔族は、光を匂いと音で感じる。同じ音が、少しずれて、二つ重なってた」
ルシェは、顔をしかめた。
「一つは、お前の光だ。……もう一つは、分からん。冷たくて、でかい。あんな音は、聞いたことがない」
「……分かりません」
セラは、静かに答えた。
「私にも、分からないんです。ただ、今朝から、ずっと」
セラは、掌を、強く握りしめた。
「誰かが、私の光の後ろに、立っている気がします」
岩壁を、風が吹き抜けた。
「……見られてる」
俺は、小さく言った。
「今朝も、さっきも。セラが光を使った時に」
「……やはり、そうですか」
セラは、目を閉じた。
「ですから、必要な時以外は、使いません。使わなければならない時は、使います」
セラは、顔を上げた。
その目は、青ざめていたけれど、揺らいでいなかった。
「そして、私が傍にいる限り、あなたまで見られてしまうのかもしれません」
「……セラ」
「離れた方がいいのかもしれない、と、一瞬だけ思いました」
セラの目が、俺を見た。
「ですが、離れないと決めています。……それで、よろしいですか」
「当たり前だろ」
自分でも驚くほど、すぐに答えが出た。
「見られてるなら、見せつけてやればいい。俺たちは、逃げも隠れもしてないって」
セラは、少しだけ、目を見開いた。
それから、ゆっくりと、息を吐いた。
「……ありがとうございます」
「礼を言うなら、あとだ」
「それ、二度目です」
「……分かってる」
ルシェが、先頭で、小さく鼻を鳴らした。
「話は、そこまでだ。落ちるぞ」
その後は、誰も、口を開かなかった。
岩壁を、一歩ずつ、進んだ。
どれほど経っただろう。
足元の岩が、少しずつ、広くなった。
やがて、道が、天幕の裏手の岩場に、降りていった。
最後の岩を下りて、地面に足をつけた時、膝が、少し笑った。
「……着いたな」
「ああ」
ルシェが、フードを深くかぶり直した。
天幕の列の、いちばん端だった。
白い帯を、腕に巻き直す。
巡礼者の波が、すぐ目の前を、流れていた。
誰も、こちらを見ない。
天幕の影から、その流れに、そっと、混ざった。
夕焼けの空の下、谷の底に、天幕が、無数に並んでいた。
数え切れない白い布が、波のように揺れている。
あちこちで、篝火が灯り始めていた。
その向こう、山の腹に、白い建物が、そびえていた。
高い塔。
何本もの柱。
窓の一つ一つに、淡い灯りが滲んでいる。
「……あれが」
「祈りの間だ」
ルシェが、低く言った。
ルシェは、建物を睨んだまま、続けた。
「古い造りだな。柱は苔だらけなのに、壁だけが、やけに真っ白だ」
「最近、塗り直したのでしょう」
セラが言った。
「長く閉ざされていた場所を、この数日で、慌てて整えたように見えます」
風に乗って、歌声が聞こえてきた。
何百人もの声が、重なっている。
『巫女様、お帰りなさいませ』
『巫女様、お帰りなさいませ』
優しい、祈りのような歌だった。
その優しさが、ひどく、恐ろしかった。
(……リナ)
あの白い建物のどこかで、リナは、この歌を聞いているのか。
どんな顔で。
何を、思って。
胸の奥が、きしんだ。
ポケットの中の紙に、そっと触れる。
『お茶、冷めないうちに、どうぞ』
(……待ってろ)
その時だった。
白い建物の、中ほどの高さの窓の一つで、白い布が、ほんの少しだけ持ち上がった。
誰かが、外を覗いている。
遠すぎて、顔は見えない。
ただ、その人影が、胸の前で、片手をぎゅっと握りしめたのだけは、分かった。
不安な時の、リナの癖だった。
「……リナ?」
人影は、すぐに、布の向こうに消えた。
「あの窓、位置は覚えたな」
ルシェが、短く言った。
「ああ」
忘れるわけがなかった。
満月まで、あと二日。
その時、また、首筋に、あの視線が触れた。
今度は、ほんの一瞬だけだった。
セラの袖の下で、光が、かすかにまばたいた。
セラは、光を閉じているはずだった。
それなのに。
見ている。
誰かが、俺を、見ている。
それでも、俺は、目を逸らさなかった。
白い窓を、睨み続けた。
60話、読んでくださってありがとうございます。
人を差し出す儀式を、祝祭と呼べるのは、差し出す側が、それを善いことだと信じているからです。
咳をしていた男の子が「あまい」と言った時、ルシェが何も言わなかったのは、敵と味方では分けられない人たちが、あの谷に、たくさんいたからかもしれません。
次回、祝祭の夜が始まります。
またお会いしましょう。




