六十一話 計画は、鐘の音で崩れた
60話で、三人は祝祭の谷に潜り込みました。
今回は、そこで立てた計画が、思ったようには進まない話です。
相手は、思っていたより、ずっと賢い。
夕焼けの最後の赤が、谷の縁に引っかかっていた。
天幕の列の端、荷車の陰に、三人で身を寄せた。
荷台には、白い布と花が、山のように積まれている。
「……ここなら、しばらく、目につかない」
ルシェが、フードの奥から、辺りを見回した。
「通る奴は、みんな、前しか見てない」
巡礼者の波が、天幕の間を、ゆっくり流れていく。
誰も、荷車の陰など、見向きもしない。
「状況を、整理しましょう」
セラが、声を落とした。
光を閉じているせいか、いつもより、ひと回り小さく見える。
「満月まで、あと二日。リナは、あの窓の向こう。私たちは、天幕の列の端です」
「夜のうちに、あたしが偵察に出る」
ルシェが言った。
「塔の周りの見張りの数と、交代の時間。窓までの道筋」
「私は、巡礼者の方々から、話を聞きます」
セラが言った。
「教団のことは、天界の記録に、ほとんど残っていません。あの建物についても、何も分かりません。ですが、ここで祈っている人たちなら、あの建物のことを、一番よく知っているはずです」
「嘘が苦手なのに、できるのか」
「嘘は、つきません。聞くだけです」
セラは、きっぱりと言った。
「ハエルは?」
「試したいことがある」
俺は、荷車の車輪の脇に、しゃがみ込んだ。
靴紐を直すふりをして、右手を、地面につける。
「あの道具の文字が見えたのと、同じだ。闇は、隠されたものが見える。この谷にも、何か隠されてるなら」
指先だけ。
細い糸みたいに、闇を、地面に滑らせた。
とくん、と、脈打つ感覚。
土の下に、白い光の線が、浮かび上がった。
「……っ」
線は、髪の毛より細かった。
それが、天幕の通路に沿って、碁盤の目みたいに、走っている。
全部が、谷の奥へ、同じ方向へ、伸びていた。
「見えた。白い線が、網みたいに、地面を走ってる」
「結界の、格子でしょうか」
「たぶん。全部、塔の根元に、集まってる」
線の行き先を、目で追う。
血管が、心臓へ向かうみたいに。
白い網が、一点へ、吸い寄せられるように流れ込んでいた。
「……何か、集めてるな」
「祈りの力でしょうか。巡礼者たちの」
セラが、眉をひそめた。
「何百人もの、祈りを」
「どこか、薄いところは、、」
「探しだす」
網の目を、一本ずつ辿る。
水汲み場の脇の、細い溝の下。
そこだけ、線が、他より、わずかに細く、ほつれていた。
「あった。水汲み場の溝。あそこだけ、線が細い。夜半に、溝を伝えば、抜けられるかもしれない」
「悪くない」
ルシェの口が、わずかに緩んだ。
「溝なら、足跡も残らん。夜半に、行く」
「ああ」
闇を、指先に戻した。
手を離すと、白い線は、すっと消えた。
息を吐く。
簡単だった。
声も、聞こえなかった。
「ここまでは、順調ですね」
セラが、小さく言った。
「うまくいきすぎだ」
ルシェが、即座に言った。
「順調な時ほど、疑え。あたしは、そう教わった」
「誰に」
「……昔の、自分にな」
その言葉の意味を、聞き返す暇は、なかった。
谷に、鐘が、鳴り響いた。
低く、重い音が、一つ。
もう一つ。
もう一つ。
「……来たな」
ルシェが、荷車の陰から、顔を覗かせた。
「全員、集めるつもりだ」
天幕の間から、巡礼者たちが、わらわらと出てきた。
「夕べの祈りだ!」
「大祭司様のお言葉があるぞ!」
人の波が、谷の中央へ向かって、一斉に流れ出す。
「どうする」
「行くしかありません」
セラが言った。
「今、ここに残れば、いちばん目立ちます」
「……紛れるか」
三人は、荷車の陰から出て、波に混ざった。
谷の中央には、広い石畳の広場があった。
その正面に、白い建物の大階段が、広がっている。
階段の上には、無数の松明が、並んでいた。
広場に、人が、ぎっしりと詰まっていく。
数百どころではなかった。
千は、いる。
白い帯の腕が、波のように揺れていた。
熱気と、祈りの囁きが、重なっている。
「おねえちゃん!」
その声に、ルシェの肩が、びくりと跳ねた。
「……まずい」
人混みの向こうから、小さな男の子が、こちらへ駆けてくる。
「おねえちゃん! やっぱり、いた!」
男の子が、ルシェの足に、勢いよく抱きついた。
その後ろから、杖をついた老人が、息を切らして追ってきた。
「これ、走るんじゃない!」
老人は、俺たちを見つけて、ぱっと顔を輝かせた。
「おお、お前さんたち! ここにおったか! 具合は、もうええのか!」
「……はい。おかげさまで」
俺は、なんとか笑顔を作った。
「この子がな、検めの間じゅう、お前さんたちの心配ばかりしとってな」
老人は、嬉しそうに、男の子の頭を撫でた。
「ようやく門を抜けて、探し回ったんじゃ。会えて、よかった」
「……すみません。ご心配を」
「いやいや。巡礼の道連れは、縁じゃ。縁は、大事にせんとなあ」
ルシェは、足にしがみついた男の子を、どうしていいか分からない様子で、見下ろしていた。
両手が、宙に浮いたまま、固まっている。
「……離せ。動けない」
「やだ」
「……」
「おねえちゃんの、あまいの、ちゃんと、ちょっとずつ舐めてるよ」
「……そうか。えらいな」
ルシェは、ぎこちなく、男の子の頭に、手を乗せた。
セラが、口元を押さえて、ほんの少し、肩を震わせた。
「笑うな」
「笑っていません」
「肩が、笑ってる」
「……気のせいです」
小声のやり取りを、老人が、にこにこと眺めていた。
「仲のええ、道連れじゃ。さあ、わしらと一緒に、前の方で祈ろう」
「前、ですか」
「わしの家は、『待つ家』じゃからな。階段の下の、前の席が、与えられとる」
老人は、胸を張った。
「お前さんたちも、わしの連れじゃ。遠慮は、いらん」
心臓が、冷たくなった。
「いえ、俺たちは、後ろの方で——」
「何を言う。道連れは、一緒じゃ」
老人は、有無を言わさず、俺の袖を取った。
その手は、驚くほど、温かかった。
断れなかった。
断れる理由が、どこにもない。
この人は、ただ、親切なだけだ。
「……はい。お言葉に、甘えます」
人混みを、かき分けて、前へ、前へ。
階段の真下、石畳の最前列に、白い布を敷いた席が、並んでいた。
「待つ家」の者たちが、そこに座っている。
老人は、その端に、俺たちを座らせた。
男の子は、当然のような顔で、ルシェの膝に収まった。
ルシェの背筋が、ぴんと伸びる。
目の前に、白い大階段。
その上に、塔の根元の、巨大な扉。
ここから、あの窓までは、近すぎるほど、近かった。
近づけた。
思っていたより、ずっと、近くに。
でも——同じくらい、逃げ道が、遠かった。
隣で、老人が、嬉しそうに、白い帯を撫でている。
(……この人を、騙してる)
嘘が苦手な俺が、いちばん近くで、嘘をつき続けている。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「失礼いたします」
背後から、静かな声がした。
振り返ると、白い外套の天使が、立っていた。
「待つ家の席の、お連れの方ですか」
「ああ。道連れじゃ」
老人が、胸を張って答えた。
「この席に座られる方は、検めの印を、確かめることになっております」
「検めなら、門で、皆、受けたはずじゃが」
「ええ。念のためです」
天使は、穏やかに微笑んだ。
「お手を」
差し出された手が、俺の右手を取った。
天使の掌に、小さな白い灯りが、ともる。
その光が、俺の手の甲に、ゆっくりと近づいてくる。
検めを受けた者の手の甲には、印が浮かぶのだろう。
俺の手の甲には、何もない。
(……まずい)
セラの背中が、強張るのが分かった。
ルシェの指が、男の子の肩を、ぎゅっと握った。
光が、手の甲に、触れる寸前——
ゴーン、と、大鐘が鳴った。
階段の上の巨大な扉が、ゆっくりと、開き始めた。
広場の天使たちが、一斉に、動きを止めた。
背筋を伸ばして、階段の方を向く。
俺の手を握っていた天使も、はっと顔を上げた。
灯りが、すっと消える。
「……後ほど、改めて、確認いたします」
天使は、手を離して、小声で言った。
「そのまま、動かないように」
足早に、階段脇の列へ、走っていった。
息が、止まっていた。
「……危なかったな」
ルシェが、唇を動かさずに言った。
「ああ」
階段の上の扉が、完全に開いた。
松明の光の中に、背の高い老人が、現れた。
白い外套に、金の刺繍。
外套の背が、不自然に盛り上がっている。
(……教団の、長か)
広場に、水を打ったような静けさが、広がった。
老人は、階段の最上段で、両腕を広げた。
「愛する、民よ」
穏やかな声が、広場の隅々まで、染み渡った。
魔法で、広げているのだろう。
「よくぞ、遠いところから、お越しくださった。長き眠りの果てに、この日を迎えられたことを、心から、嬉しく思います」
歓声が、さざ波のように、広がった。
「巫女様は、すでに、この聖域に、お帰りになられております」
どよめき。
涙ぐむ老婆。
手を合わせる男。
「そして、巫女様のお力は、この聖域に応えて、予定よりも早く、満ちました」
老人は、静かに続けた。
「ゆえに、祈りは、繰り上げます」
広場が、静まった。
「満月を、待つ必要は、ございません」
「——っ」
「明日の日没。巫女様は、鐘とともに、この階段に、お姿を現されます」
息が、止まった。
明日の、日没。
あと二日、ではなかった。
あと、一日。
ざわめきが、歓喜に変わった。
「明日だ!」
「巫女様に、お会いできる!」
老人は、片手を上げて、静めた。
「ただし——」
声が、わずかに、低くなった。
「昨夜、谷の入り口の見張りが、何者かに襲われました」
広場が、凍りついた。
「巫女様をお迎えすることを、快く思わぬ者が、この谷に、近づいております」
「そんな……」
「何と、恐ろしい」
「神をお救いする、尊い祈りを、妨げようとする者がいる」
老人は、穏やかな声のまま、続けた。
「ですから、皆様に、お願いがございます」
広場の千の目が、老人に注がれた。
「どうか、お隣の方の、お顔を、お覚えください。お名前を、お聞きください。見慣れぬ顔を、お見かけになったら、すぐに、お近くの天使に、お知らせください」
血の気が、引いた。
(……千人を、全員、見張りにした)
老人は、優しく微笑んだ。
「怖がることは、ございません。皆様は、巫女様をお守りする、尊い目です」
「そして、今宵、夜半」
声が、少し、重くなる。
「天使たちが、天幕を一つずつ、巡ります。同じ天幕の方々は、互いの顔を、お確かめください。巫女様のご加護は、見落としなく、皆様を、お守りします」
広場が、うねるように、応えた。
「お守りします!」
「巫女様を、お守りします!」
千の声が、重なった。
優しい祈りの声だった。
その優しさが、俺たちを、取り囲んでいく。
「……やられたな」
ルシェが、膝の上の男の子の頭越しに、囁いた。
「巡礼者全員を、見張りにした」
「ええ」
セラが、唇を噛んだ。
「紛れ込む場所が、なくなりました。千人が、皆、私たちを見る目になります」
「敵じゃない」
俺は、小さく言った。
「あの人たちは、ただ、信じてるだけだ」
隣では、老人が、涙を拭いながら、拳を握っていた。
「お守りするぞ。巫女様を、必ず」
男の子が、無邪気に、手を挙げた。
「おねえちゃんも、いっしょに、まもるんだよね」
「……ああ」
ルシェの声が、掠れていた。
「守る」
嘘では、なかった。
ただ、守る相手と、守る理由が、この広場の誰とも、違った。
老人の視線が、広場を、ゆっくりと、なでていった。
前列の、待つ家の席で、ふと止まった。
「待つ家の皆様。そして、そのお連れの皆様にも、巫女様のご加護が、ありますように」
穏やかな声。
その目が、一瞬だけ、セラの上で、止まった。
ほんの、一呼吸。
老人の笑みが、わずかに、深くなった気がした。
すぐに、視線は、離れた。
(……見られた)
あの、冷たい視線じゃない。
人の目だ。
それでも、背中が、冷えた。
セラの指が、袖の下で、固く握られていた。
祈りの歌が終わり、広場の人々が、ゆっくりと立ち上がった。
「さあ、わしらの天幕に、行こう」
老人が、杖をついて、振り返った。
「待つ家の天幕は、広い。お前さんたちも、泊まるがええ」
「いえ、そんな、ご迷惑を——」
「迷惑なもんか。夜半の巡回があるじゃろ。同じ天幕の者の顔は、わしが、天使様に、請け合うでな」
老人は、にこにこと笑った。
「安心せい。わしが、おる」
それは、救いの言葉のはずだった。
でも——聞いた途端、背筋が、凍った。
夜半の巡回。
手の甲の印。
名前を、聞かれる。
老人が「請け合う」と言っても、あの天使は、手の甲を、確かめに来る。
「……ありがとうございます」
声が、乾いて聞こえた。
老人の後ろ姿を、三人で、ゆっくりと追った。
篝火が、広場の石畳を、赤く染めていた。
「……水汲み場の溝は、もう使えない」
ルシェが、前を向いたまま、小さく言った。
「夜半の巡回が、始まる。天幕の外に出れば、いやでも目立つ」
「ええ。計画の、組み直しですね」
セラが言った。
「明日の日没まで、あと一日。巡回までは、半日もありません」
予定は、崩れた。
三日あると思って、休んだ。
でも、敵は、こちらの都合に合わせて、待ってくれるわけじゃない。
ポケットの中の紙に、そっと触れる。
崩れたのは、俺たちの予定だけだ。
リナは、まだ、あの窓の向こうにいる。
明日の、日没まで。
やることは、変わらない。
予定を組み直すだけだ。
「……考える。夜半までに」
「ああ」
「ええ」
三人は、前を行く老人の背中を、追った。
隣で、男の子が、ルシェの手を、ぎゅっと握っていた。
その小さな手の温かさが、なぜか、ひどく、重かった。
61話、読んでくださってありがとうございます。
計画は、立てた直後が、いちばん輝いて見えるものです。
ハエルたちの計画は、鐘が一度鳴っただけで、全部、書き直しになりました。
あのお爺さんの親切が、今回、ハエルをいちばん追い詰めたのかもしれません。
疑われていないことが、そのまま、逃げ道を塞いでいく。そういう夜もあると思います。
次回、夜半までの、短い時間の話です。
またお会いしましょう。




