↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔族に育てられた俺、 気づけば光と闇の境界に立っていた  作者: CYABUSAN(ちゃぶさん
第一章:父と子の物語(第1〜10話)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

59/61

五十九話 敵は

58話で、リナはさらわれました。


今回、三人は北へ走ります。

走るだけでは、助けられない。

そう教えられる夜の話です。

北へ向かう街道を、休まず走った。

昼を過ぎても、日が傾いても、足は止めなかった。


「……匂いが、また薄くなってきた」

先頭を走るルシェが、舌打ちした。


「あの転移の石で途切れてからは、足跡も匂いもない。頼りになるのは、勘だけだ」


「北、としか分からないのが痛いですね」


セラが、息を切らしながら言った。

「街道は、この先で山あいに入ります。道が限られる場所には、見張りがいるかもしれません」


(見張り、か)


リナを運んだ連中なら、追っ手を警戒しているはずだ。

「ルシェ。偽装の術って、気配を消すんだよな」


「ああ。庭では、見事にやられた」


「なら、全部を消せるわけじゃない。人がいる場所の気配だけをきれいに抜いてるなら——そこだけ、不自然に静かになるはずだ」


ルシェが、足を緩めた。

「……穴、か」


「何もないことが、手がかりになる」


ルシェの口の端が、にやりと上がった。

「いい着眼だ。探してみる」


ルシェは速度を落として、辺りの気配を探りながら進んだ。

日が沈みかけた頃——


「……あった」

ルシェが、片手を挙げて二人を止めた。


「あの吊り橋の向こう。草も虫も鳥も、気配があるのに、あそこだけ、ぽっかり空いてる」


夕暮れの谷に、古い吊り橋が架かっていた。

橋のたもとに、小さな鈴が一つ、吊るされている。


向こう側は、闇に沈んで見えない。

でも、ルシェの言う通り、そこだけが、不自然に静かだった。


「渡れば、鈴が鳴るな」


俺は、腰に巻いていた布を外した。

「これを鈴に巻く。音は出ない」


「橋の上で、見つからずにか」


「見つかる前に、気を逸らす」


俺は、セラを見た。

「橋の左の岩壁に、一瞬だけ、光を出せるか。小さくていい」


「できます。見張りが、そちらを向くように」


「ルシェは、谷の岩壁を伝って、向こう側に回り込んでくれ。魔族の足なら、できるだろ」


「簡単だ」

ルシェは、谷の縁から、ひらりと身を躍らせた。


しばらくして——


セラが、掌を左の岩壁に向けた。

ぽっ、と白い光が、岩の影に灯る。


「……何だ?」

橋の向こうから、低い声がした。


白い外套の人影が二つ、光の方へ顔を向ける。

その隙に、俺は橋に足をかけた。


膝をたわめて、足音を殺す。

板がきしまないように、体重を乗せる位置を変えながら、一歩ずつ進んだ。

鈴のところまで来て、布を巻きつける。

音は、鳴らなかった。


橋の向こうで、見張りが振り返りかけた。

その瞬間、闇の中から、影が降ってきた。


「——っ!」

一人が、声を上げる間もなく地面に叩きつけられた。


もう一人が、懐に手を入れる。

「させるか」


俺は橋の板を蹴って、距離を詰めた。

男の手首をつかむ。

小さな瓶が、ころりと地面に転がった。


「……毒、か」

ルシェが拾い上げて、匂いを嗅いだ。


「自分の口を封じるつもりだったな」

縛り上げた男は、それでも、静かに笑っていた。


セラが、男の傍らに膝をついた。

「……他に、呪いの類がかけられていないか、確かめます」


男の胸の上に、掌をかざす。

淡い光が、男の体を照らした。


「……っ」

セラの手が、ぴたりと止まった。


「セラ?」


「……この人」

セラは、掌を引いた。

顔色が、変わっていた。


「天使です」


「……何?」


「気配を、術で覆い隠していました。その偽装が、今、剥がれて——」


男の外套の背に、淡い白い光が、うっすらと滲んでいた。

折りたたまれた、翼の光だった。


「教団は、人間の組織だと、思っていました」

セラの声が、わずかに震えた。

「ですが、この気配は、間違いありません。しかも、今の天界の天使とは、気配の質が違います。……ずっと、古い形の」


ルシェが、舌打ちした。

「……厄介な連中だな」


男は、微笑んだまま、何も言わなかった。


「驚かれましたか」

やがて、穏やかな声が言った。


「我らは、神にお仕えする者。巫女様をお迎えするのは、我らの務めです」


「……巫女様」


「あなた方が追っているお方のことだ」


男の目が、うっとりと遠くを見る。

「あのお方は、ようやく、お帰りになられたのだ。我らが長年お待ちしていた、居場所に」


俺は、低い声で言った。

「居場所なら、ちゃんとあった」


「迎えに上がっただけだ」

男は、心底不思議そうに首を傾げた。

「巫女様は、神をお救いになる、唯一のお方なのだから」


神。

その一言に、背筋が冷えた。


「……神を、救う?」


「今の神は、本来のお姿ではない。巫女様の祈りだけが、あの方を、元の清らかなお姿に戻せる」


「それが、リナと何の関係がある」


「三日後の満月の夜」


男は、歌うように言った。

「北の祈りの間にて、巫女様は、神に祈りを捧げられる。そして——」


男は、うっとりと目を細めた。

「神のお側に、お仕えになる」


「……お側に?」


「祈りの間に入られた巫女様は、この世には、戻られない」

静寂が、落ちた。


「……戻れない、って」

自分の声が、他人のもののように聞こえた。


「どういう意味だ」


「文字通りの意味だ。これ以上の栄誉は、ない」


男は、誇らしげに言った。

「あなた方も、いずれ分かる。巫女様は、神のために——」


ごっ。

鈍い音がした。

ルシェの拳が、男の顔のすぐ横の岩を、砕いていた。


「……もう一度言ってみろ」

低い声だった。


砕けた岩の破片が、男の頬を裂いた。

血が、一筋、流れていく。


それでも、男は、瞬き一つしなかった。


「どうぞ」

穏やかな声だった。


「殺していただいて、構いません。巫女様の栄誉を語って死ねるなら、これ以上の死に方はない」


ルシェの拳が、わずかに震えた。


(……こいつ、本気だ)

脅しも、痛みも、死さえも。

この男の前では、何の意味も持たない。


「ですが、ここから先は、神のお許しなしには、一言も申せません」

男は、そっと目を閉じた。


唇の端に、穏やかな笑みを残したまま。

それきり、何を問われても、男は、二度と口を開かなかった。


「……気味が悪いな」

ルシェが、吐き捨てるように言った。


俺は、動けなかった。

頭の中で、庭で白くほどけたリナの背中が、何度も再生されていた。


神の、お側に。

この世には、戻られない。


ポケットの中で、紙が、かさ、と鳴った。

『冷めないうちに、どうぞ』


足が、勝手に動いた。

「……行く」


「何だと」


「今すぐ橋を渡る。三日しかないんだ」


「待て」

ルシェが、俺の襟首をつかんだ。


「放せ」


「放さない」


「リナが——」


「分かってる。だが——」


「戻れなくなるんだぞ! 三日しか、ないんだ!」

自分でも驚くほど、大きな声が出た。

谷に、声が反響した。


「ハエル」

セラが、俺の前に回り込んだ。


「落ち着いて、聞いてください」


「落ち着いてられるか!」


「三日後に儀式がある、ということは」

セラの声は、静かだった。

「逆に言えば、三日後までは、リナは無事なはずです」


足が、止まった。


「儀式に使う巫女を、その前に傷つけては、意味がありません。丁重に扱われているはずです。」


セラは、目を逸らさなかった。

「ですから、今夜は一度、休みましょう。焦って突っ込んで、私たちが倒れてしまう方が、よほど確実に、リナを失います」


「それでも、三日しかないんだ!」


「三日も、あるんだ」

ルシェが、低い声で言った。


「あの毒を見ただろ。自分の口を封じる準備までしてる連中だ。奥には、罠も山ほどあると見ていい。そこに、疲れた頭と足で突っ込んで、通じると思うか」


「……」


「それと、お前」


ルシェは、顎で俺の右手をしゃくった。

「見てみろ」


視線を落とすと、指先が、小刻みに震えていた。


「今日だけで、闇を何度流した。加減してるつもりでも、体には、全部響いてる」


言われて初めて、膝にも力が入らなくなっていることに気づいた。

朝から、水を口にしたかどうかも、覚えていない。


「……分かってる」

絞り出すように言った。


「頭では、分かってる。でも——」


「でも、体が止まらない」

セラが、静かに続けた。


「私も、同じです。立ち止まると、リナの声が聞こえそうで」

セラの指が、きつく握られていた。


「それでも、今夜は休みましょう。夜明けまでに力を戻して、橋の向こうを、慎重に調べるんです」


「その方が、結果的に、早く辿り着ける」


ルシェが言った。

「忘れたか。あたしの訓練は、『欲張るな』から始まっただろ」


俺は、ゆっくりと息を吐いた。

橋の向こうの闇を、もう一度、睨む。

それから、握りしめていた拳を、解いた。


「……分かった」


「素直でよろしい」


「子ども扱いするな」


ルシェの口の端が、少しだけ上がった。

縛り上げた二人の天使を、谷の岩陰の洞窟に運んだ。

起きている方の男は、運ばれる間も、岩の隙間から、微笑んでこちらを見ていた。


「……見るな。気分が悪くなる」

ルシェが、入り口に大きな岩を転がして、視線ごと塞いだ。


セラが、その岩に、光の封をかける。

「天使は、自力で封を解けることがあります。念入りに、重ねておきます」


何重にも、白い紋様が、岩の表面に刻まれていく。


「朝までは、声も気配も、外には漏れません。交代の時間を過ぎれば、気づかれるでしょうが」


「その前に、橋の向こうを調べておきたいな」


「はい。ですから、今夜は休みましょう」


街道から少し離れた、別の浅い洞窟を見つけて、そこに腰を下ろした。

火は焚かない。

セラの淡い光だけが、岩壁をぼんやりと照らしている。


腰の小袋に入れていた、非常用の干し肉と硬いパンを、三人で分けた。

走って飛び出した身には、これだけが、全財産だった。


「……硬い」


ルシェが、パンをかじって眉をひそめた。

「文句を言うな。食え」


「言ってない。ちゃんと食べる」


ルシェは、本当に全部食べた。

俺も、味のしないパンを、機械みたいに口に運んだ。


食べ終わる頃、ルシェが、腰の小袋から、小さな金属の杯を取り出した。

「水」


「……ああ」


俺が腰の水筒を渡すと、ルシェは杯に水を注いで、セラに突き出した。

「温めてくれ」


「分かりました」


セラが、杯に両手をかざす。

淡い光が、杯を包んだ。


水が、ゆっくりと温まっていく。

湯気が、細く立った。


「飲め」

ルシェが、杯を俺に押しつけた。


「リナの茶には、ほど遠いけどな」


受け取った杯は、熱かった。

一口飲むと、胃の底がじんわり温まって、腹が減っていたことを、ようやく思い出した。


「……あったかい」


「当たり前だ。湯なんだから」


ルシェは、自分の杯に目を落とした。

「冷めないうちに、飲んどけ」


ポケットの中の紙が、かさ、と鳴った気がした。


洞窟の入り口から、空が見えた。

雲が切れて、少し欠けた月が、浮かんでいる。


(……あと三日で、丸くなる)


「明日の段取りを、話しましょう」

セラが、地面に木の枝で線を引いた。

「橋の向こうの地形は、分かりません。夜明け前に、ルシェさんが先に渡って、見張りの数と配置を探ってください」


「あたしが一人で偵察か」


「はい。気配を消すなら、魔族のあなたが、いちばん向いています」


「……任された」


「私は、教団の記録を、できるだけ思い出します。あの天使たちの気配の質も、手がかりになるかもしれません」


「俺は?」


「ハエルは——」


セラは、少し間を置いた。

「眠ってください。それが、いちばんの仕事です」


「……それが仕事か」


「そうです。いちばん大事な場面で、全力で動いてもらうために」


その言葉に、反論は、見つからなかった。

「……分かった」


旅立ちの朝に渡された、父さんの古いマントに、くるまった。

岩壁に背を預けて、目を閉じる。

今朝、肩の上まで引き上げられた毛布の端の感触が、まだ、そこに残っているような気がした。


でも、まぶたの裏に浮かぶのは、庭で白く散った、リナの背中だった。

眠れなかった。


どれくらい、そうしていたのか。

そっと身を起こすと、洞窟の入り口に、セラの背中があった。


最初の見張りは、セラだ。

月明かりの中で、膝を抱えて、空を見上げている。


「……眠れませんか」

振り返らずに、セラが言った。


「ああ」


「無理に、とは言いません。目を閉じているだけでも、体は休まります」


俺は、セラの隣に腰を下ろした。

少し欠けた月が、谷の上に浮かんでいた。

しばらく、二人とも黙っていた。


「……考えてたんだ」


「何をですか」


「ずっと、誰を憎めばいいのか、分からなかった」


セラが、こちらを向いた。


「母さんの村を焼いた騎士団か。天界か。人間か。……考えるたびに、どこかで、行き止まりになった」


月を見上げる。

「今日、リナを連れていったのは、天使だった」


「……はい」

セラの声が、小さくなった。


あの男の、うっとりした顔が、頭から離れなかった。

神のお側に。この世には、戻られない。


あの男は、自分が何をしているのか、本当に、分かっていなかった。

救っているつもりで、笑っていた。


「でも、バラバラだと思ってたことが、同じ名前で繋がってることに、気づいたんだ」


指を、一本ずつ折った。


「神の使者は、俺に言った。神が、あなたを必要としています、って」


「父さんの手紙には、神は、光と闇の両方に耐えられる器を探している、って書いてあった」


「セラを連れていった大天使は、天界の命令だと言った。天界の上は、神の影響を受け始めてる。セラが、そう言ってた」


「そして今日、リナをさらった連中は、神のお側に差し出すことを、栄誉だと笑ってた」


動いている奴らは、みんな違う。

使者。大天使。教団。


でも、その先には、いつも、同じ名前がある。


「……神だ」


セラは、何も言わなかった。


「天使が、全部敵なんじゃない。セラは、違う」


「……ありがとうございます」


「でも、あの連中が、命を懸けて差し出そうとしてるものが、今のままの神なら」


耳の奥で、あの声が、ささやきかけた気がした。

でも、今は、聞こえないふりをした。

これは、あの声の言葉じゃない。


俺の、言葉だ。


静かに、でも、はっきりと言った。

「……俺の敵は、神だ」


言葉にした瞬間、その名前の重さが、体の中に降りてきた。

世界を見守るもの。

天使を生み、光と闇を保つもの。


そう教えられてきたものを、敵と呼ぶ。

「……天使の前で、言うことじゃないよな」


「いえ」

セラは、静かに首を振った。


「同じ天使として、恥ずかしいです。リナを連れていったのは、私の同胞だったのですから」


セラは、一度、目を閉じた。

「天界に仕える者としては、決して口にしてはならない言葉です。ですが——私も、同じ気持ちです」


目を開けたセラの瞳は、迷っていなかった。

「リナを供物にする者を、私は、天使であっても、神であっても、認めません」


洞窟の奥から、毛布の代わりに外套にくるまったルシェの声が、飛んできた。

「あたしは、元から気に入らなかった」


目を閉じたまま、ルシェは言った。

「村が燃えた時も、神様とやらは、何もしてくれなかった。今さら、何が祈りだ」


「……起きてたのか」


「あんなでかい声で言われたら、起きる」


「倒す、とは、まだ言わない」

俺は言った。


「あいつが、なぜ今みたいになったのか、俺たちは、まだ何も知らない。……でも」

拳を、握る。


「止める。リナを、供物にもさせない。父さんと母さんの時みたいなことを、もう、誰にも繰り返させない」


「目的を、整理しましょう」

セラが、静かに言った。


「ああ」


俺は、指を一本、立てた。

「一つ目。三日後の満月の夜までに、北の祈りの間で、リナを取り戻す」


もう一本。

「二つ目。神を止める。そのために——」


バアサの家に置いてきた、あの道具を思い出した。

光だけでは、鞘に収まらず。

闇だけでは、鞘より抜けない刃。


「父さんが遺した道具を、完成させる」


「では、今は眠りましょう」

セラが、立ち上がった。

「見張りは、私が」


「……ああ」


洞窟の中に戻って、父さんのマントに、もう一度くるまった。

ポケットの紙の上に、そっと手を置く。

『冷めないうちに、どうぞ』


(……待ってろ、リナ)


(夜が明けたら、すぐに動く。満月の夜までに、必ず迎えに行く)

今度は、まぶたの裏の白い背中に、そう話しかけることができた。


呼吸が、少しずつ、深くなっていく。

俺は、ようやく、眠りに落ちていった。


白い部屋に、湯気が立っていた。

リナの前に、一杯のお茶が置かれている。


白い服を着た若い女性が、うやうやしく頭を下げて、下がっていった。

「どうぞ、お飲みください、巫女様」


「……いりません」


「毒など、入っておりません。我らは、巫女様を、お迎えしたのですから」


「帰してください」


「ここが、あなたのお家です」

話の通じない笑顔が、また、扉の向こうに消えた。


リナは、湯呑みを、じっと見つめた。

湯気が、細く立ち上っている。


「失礼いたします」

扉が開いて、背の高い老人が入ってきた。

白い外套に、金の刺繍が入っている。

外套の背が、不自然に盛り上がっていた。


ふと、懐かしい匂いがした。


洗いたての布みたいな、清潔な匂い。

セラの匂いに、少し似ている。

でも、もっと、冷たかった。


「お目覚めの後、お加減はいかがですか」


「……あなたたちは、誰ですか」


「我らは、教団。神にお仕えし、巫女様をお待ちしてきた者です」

老人は、穏やかに微笑んだ。


「リナ様。あなたは、ずっと、思っておられたのでしょう」


「……何を、ですか」


「誰かの役に立ちたい、と」


リナの肩が、ぴくりと跳ねた。


「戦えない自分が、もどかしい。隣に立てる人が、うらやましい。……そう、お感じになってこられたのでは」


膝の上の手を、ぎゅっと握った。

どうして——それを。


(……見られていた)

あの庭で、洗濯物を抱えて立っていた、自分を。


「ここでは、あなたの力が、必要とされています」

老人の声は、どこまでも優しかった。


「三日後の満月の夜、あなたの祈りが、神をお救いになる。それは、あなたにしかできないことです」


「……その後、私は、帰れるんですか」


「ええ。巫女様は、あるべき場所へ、お帰りになります」


「それは、私が、望んだら——」


「巫女様の望みは、すべて、神のお側で叶います」


リナには、分かった。

この人は、嘘をついていない。


声の底に、混じりけが、まったくなかった。

心から、そう信じている。


だからこそ、怖かった。


この人が言う「帰る」は、自分が思い浮かべる「帰る」と、まるで違う場所のことを指している。

そんな気がした。


膝の上で握りしめた手の甲が、ほんのり熱を帯びた。

光の紋様が、一瞬、浮かんで、消える。


「おや」

老人が、満足げに目を細めた。


「巫女様のお力が、早くも、この聖域に応えておいでだ」


リナは、慌てて手を隠した。

老人が出ていったあと、湯呑みの湯気は、ゆっくりと、細くなっていった。


窓の白い布の隙間から、少し欠けた月が、覗いていた。

59話、読んでくださってありがとうございます。


同じ「帰る」という言葉でも、帰る先が違えば、意味はまるで変わってしまいます。


敵の名前は、怒りに任せて叫んだ時ではなく、一度立ち止まって、湯を飲んで、月を見てから口にしました。

次回、夜明け前の偵察から始まります。


またお会いしましょう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。