五十九話 敵は
58話で、リナはさらわれました。
今回、三人は北へ走ります。
走るだけでは、助けられない。
そう教えられる夜の話です。
北へ向かう街道を、休まず走った。
昼を過ぎても、日が傾いても、足は止めなかった。
「……匂いが、また薄くなってきた」
先頭を走るルシェが、舌打ちした。
「あの転移の石で途切れてからは、足跡も匂いもない。頼りになるのは、勘だけだ」
「北、としか分からないのが痛いですね」
セラが、息を切らしながら言った。
「街道は、この先で山あいに入ります。道が限られる場所には、見張りがいるかもしれません」
(見張り、か)
リナを運んだ連中なら、追っ手を警戒しているはずだ。
「ルシェ。偽装の術って、気配を消すんだよな」
「ああ。庭では、見事にやられた」
「なら、全部を消せるわけじゃない。人がいる場所の気配だけをきれいに抜いてるなら——そこだけ、不自然に静かになるはずだ」
ルシェが、足を緩めた。
「……穴、か」
「何もないことが、手がかりになる」
ルシェの口の端が、にやりと上がった。
「いい着眼だ。探してみる」
ルシェは速度を落として、辺りの気配を探りながら進んだ。
日が沈みかけた頃——
「……あった」
ルシェが、片手を挙げて二人を止めた。
「あの吊り橋の向こう。草も虫も鳥も、気配があるのに、あそこだけ、ぽっかり空いてる」
夕暮れの谷に、古い吊り橋が架かっていた。
橋のたもとに、小さな鈴が一つ、吊るされている。
向こう側は、闇に沈んで見えない。
でも、ルシェの言う通り、そこだけが、不自然に静かだった。
「渡れば、鈴が鳴るな」
俺は、腰に巻いていた布を外した。
「これを鈴に巻く。音は出ない」
「橋の上で、見つからずにか」
「見つかる前に、気を逸らす」
俺は、セラを見た。
「橋の左の岩壁に、一瞬だけ、光を出せるか。小さくていい」
「できます。見張りが、そちらを向くように」
「ルシェは、谷の岩壁を伝って、向こう側に回り込んでくれ。魔族の足なら、できるだろ」
「簡単だ」
ルシェは、谷の縁から、ひらりと身を躍らせた。
しばらくして——
セラが、掌を左の岩壁に向けた。
ぽっ、と白い光が、岩の影に灯る。
「……何だ?」
橋の向こうから、低い声がした。
白い外套の人影が二つ、光の方へ顔を向ける。
その隙に、俺は橋に足をかけた。
膝をたわめて、足音を殺す。
板がきしまないように、体重を乗せる位置を変えながら、一歩ずつ進んだ。
鈴のところまで来て、布を巻きつける。
音は、鳴らなかった。
橋の向こうで、見張りが振り返りかけた。
その瞬間、闇の中から、影が降ってきた。
「——っ!」
一人が、声を上げる間もなく地面に叩きつけられた。
もう一人が、懐に手を入れる。
「させるか」
俺は橋の板を蹴って、距離を詰めた。
男の手首をつかむ。
小さな瓶が、ころりと地面に転がった。
「……毒、か」
ルシェが拾い上げて、匂いを嗅いだ。
「自分の口を封じるつもりだったな」
縛り上げた男は、それでも、静かに笑っていた。
セラが、男の傍らに膝をついた。
「……他に、呪いの類がかけられていないか、確かめます」
男の胸の上に、掌をかざす。
淡い光が、男の体を照らした。
「……っ」
セラの手が、ぴたりと止まった。
「セラ?」
「……この人」
セラは、掌を引いた。
顔色が、変わっていた。
「天使です」
「……何?」
「気配を、術で覆い隠していました。その偽装が、今、剥がれて——」
男の外套の背に、淡い白い光が、うっすらと滲んでいた。
折りたたまれた、翼の光だった。
「教団は、人間の組織だと、思っていました」
セラの声が、わずかに震えた。
「ですが、この気配は、間違いありません。しかも、今の天界の天使とは、気配の質が違います。……ずっと、古い形の」
ルシェが、舌打ちした。
「……厄介な連中だな」
男は、微笑んだまま、何も言わなかった。
「驚かれましたか」
やがて、穏やかな声が言った。
「我らは、神にお仕えする者。巫女様をお迎えするのは、我らの務めです」
「……巫女様」
「あなた方が追っているお方のことだ」
男の目が、うっとりと遠くを見る。
「あのお方は、ようやく、お帰りになられたのだ。我らが長年お待ちしていた、居場所に」
俺は、低い声で言った。
「居場所なら、ちゃんとあった」
「迎えに上がっただけだ」
男は、心底不思議そうに首を傾げた。
「巫女様は、神をお救いになる、唯一のお方なのだから」
神。
その一言に、背筋が冷えた。
「……神を、救う?」
「今の神は、本来のお姿ではない。巫女様の祈りだけが、あの方を、元の清らかなお姿に戻せる」
「それが、リナと何の関係がある」
「三日後の満月の夜」
男は、歌うように言った。
「北の祈りの間にて、巫女様は、神に祈りを捧げられる。そして——」
男は、うっとりと目を細めた。
「神のお側に、お仕えになる」
「……お側に?」
「祈りの間に入られた巫女様は、この世には、戻られない」
静寂が、落ちた。
「……戻れない、って」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。
「どういう意味だ」
「文字通りの意味だ。これ以上の栄誉は、ない」
男は、誇らしげに言った。
「あなた方も、いずれ分かる。巫女様は、神のために——」
ごっ。
鈍い音がした。
ルシェの拳が、男の顔のすぐ横の岩を、砕いていた。
「……もう一度言ってみろ」
低い声だった。
砕けた岩の破片が、男の頬を裂いた。
血が、一筋、流れていく。
それでも、男は、瞬き一つしなかった。
「どうぞ」
穏やかな声だった。
「殺していただいて、構いません。巫女様の栄誉を語って死ねるなら、これ以上の死に方はない」
ルシェの拳が、わずかに震えた。
(……こいつ、本気だ)
脅しも、痛みも、死さえも。
この男の前では、何の意味も持たない。
「ですが、ここから先は、神のお許しなしには、一言も申せません」
男は、そっと目を閉じた。
唇の端に、穏やかな笑みを残したまま。
それきり、何を問われても、男は、二度と口を開かなかった。
「……気味が悪いな」
ルシェが、吐き捨てるように言った。
俺は、動けなかった。
頭の中で、庭で白くほどけたリナの背中が、何度も再生されていた。
神の、お側に。
この世には、戻られない。
ポケットの中で、紙が、かさ、と鳴った。
『冷めないうちに、どうぞ』
足が、勝手に動いた。
「……行く」
「何だと」
「今すぐ橋を渡る。三日しかないんだ」
「待て」
ルシェが、俺の襟首をつかんだ。
「放せ」
「放さない」
「リナが——」
「分かってる。だが——」
「戻れなくなるんだぞ! 三日しか、ないんだ!」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。
谷に、声が反響した。
「ハエル」
セラが、俺の前に回り込んだ。
「落ち着いて、聞いてください」
「落ち着いてられるか!」
「三日後に儀式がある、ということは」
セラの声は、静かだった。
「逆に言えば、三日後までは、リナは無事なはずです」
足が、止まった。
「儀式に使う巫女を、その前に傷つけては、意味がありません。丁重に扱われているはずです。」
セラは、目を逸らさなかった。
「ですから、今夜は一度、休みましょう。焦って突っ込んで、私たちが倒れてしまう方が、よほど確実に、リナを失います」
「それでも、三日しかないんだ!」
「三日も、あるんだ」
ルシェが、低い声で言った。
「あの毒を見ただろ。自分の口を封じる準備までしてる連中だ。奥には、罠も山ほどあると見ていい。そこに、疲れた頭と足で突っ込んで、通じると思うか」
「……」
「それと、お前」
ルシェは、顎で俺の右手をしゃくった。
「見てみろ」
視線を落とすと、指先が、小刻みに震えていた。
「今日だけで、闇を何度流した。加減してるつもりでも、体には、全部響いてる」
言われて初めて、膝にも力が入らなくなっていることに気づいた。
朝から、水を口にしたかどうかも、覚えていない。
「……分かってる」
絞り出すように言った。
「頭では、分かってる。でも——」
「でも、体が止まらない」
セラが、静かに続けた。
「私も、同じです。立ち止まると、リナの声が聞こえそうで」
セラの指が、きつく握られていた。
「それでも、今夜は休みましょう。夜明けまでに力を戻して、橋の向こうを、慎重に調べるんです」
「その方が、結果的に、早く辿り着ける」
ルシェが言った。
「忘れたか。あたしの訓練は、『欲張るな』から始まっただろ」
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
橋の向こうの闇を、もう一度、睨む。
それから、握りしめていた拳を、解いた。
「……分かった」
「素直でよろしい」
「子ども扱いするな」
ルシェの口の端が、少しだけ上がった。
縛り上げた二人の天使を、谷の岩陰の洞窟に運んだ。
起きている方の男は、運ばれる間も、岩の隙間から、微笑んでこちらを見ていた。
「……見るな。気分が悪くなる」
ルシェが、入り口に大きな岩を転がして、視線ごと塞いだ。
セラが、その岩に、光の封をかける。
「天使は、自力で封を解けることがあります。念入りに、重ねておきます」
何重にも、白い紋様が、岩の表面に刻まれていく。
「朝までは、声も気配も、外には漏れません。交代の時間を過ぎれば、気づかれるでしょうが」
「その前に、橋の向こうを調べておきたいな」
「はい。ですから、今夜は休みましょう」
街道から少し離れた、別の浅い洞窟を見つけて、そこに腰を下ろした。
火は焚かない。
セラの淡い光だけが、岩壁をぼんやりと照らしている。
腰の小袋に入れていた、非常用の干し肉と硬いパンを、三人で分けた。
走って飛び出した身には、これだけが、全財産だった。
「……硬い」
ルシェが、パンをかじって眉をひそめた。
「文句を言うな。食え」
「言ってない。ちゃんと食べる」
ルシェは、本当に全部食べた。
俺も、味のしないパンを、機械みたいに口に運んだ。
食べ終わる頃、ルシェが、腰の小袋から、小さな金属の杯を取り出した。
「水」
「……ああ」
俺が腰の水筒を渡すと、ルシェは杯に水を注いで、セラに突き出した。
「温めてくれ」
「分かりました」
セラが、杯に両手をかざす。
淡い光が、杯を包んだ。
水が、ゆっくりと温まっていく。
湯気が、細く立った。
「飲め」
ルシェが、杯を俺に押しつけた。
「リナの茶には、ほど遠いけどな」
受け取った杯は、熱かった。
一口飲むと、胃の底がじんわり温まって、腹が減っていたことを、ようやく思い出した。
「……あったかい」
「当たり前だ。湯なんだから」
ルシェは、自分の杯に目を落とした。
「冷めないうちに、飲んどけ」
ポケットの中の紙が、かさ、と鳴った気がした。
洞窟の入り口から、空が見えた。
雲が切れて、少し欠けた月が、浮かんでいる。
(……あと三日で、丸くなる)
「明日の段取りを、話しましょう」
セラが、地面に木の枝で線を引いた。
「橋の向こうの地形は、分かりません。夜明け前に、ルシェさんが先に渡って、見張りの数と配置を探ってください」
「あたしが一人で偵察か」
「はい。気配を消すなら、魔族のあなたが、いちばん向いています」
「……任された」
「私は、教団の記録を、できるだけ思い出します。あの天使たちの気配の質も、手がかりになるかもしれません」
「俺は?」
「ハエルは——」
セラは、少し間を置いた。
「眠ってください。それが、いちばんの仕事です」
「……それが仕事か」
「そうです。いちばん大事な場面で、全力で動いてもらうために」
その言葉に、反論は、見つからなかった。
「……分かった」
旅立ちの朝に渡された、父さんの古いマントに、くるまった。
岩壁に背を預けて、目を閉じる。
今朝、肩の上まで引き上げられた毛布の端の感触が、まだ、そこに残っているような気がした。
でも、まぶたの裏に浮かぶのは、庭で白く散った、リナの背中だった。
眠れなかった。
どれくらい、そうしていたのか。
そっと身を起こすと、洞窟の入り口に、セラの背中があった。
最初の見張りは、セラだ。
月明かりの中で、膝を抱えて、空を見上げている。
「……眠れませんか」
振り返らずに、セラが言った。
「ああ」
「無理に、とは言いません。目を閉じているだけでも、体は休まります」
俺は、セラの隣に腰を下ろした。
少し欠けた月が、谷の上に浮かんでいた。
しばらく、二人とも黙っていた。
「……考えてたんだ」
「何をですか」
「ずっと、誰を憎めばいいのか、分からなかった」
セラが、こちらを向いた。
「母さんの村を焼いた騎士団か。天界か。人間か。……考えるたびに、どこかで、行き止まりになった」
月を見上げる。
「今日、リナを連れていったのは、天使だった」
「……はい」
セラの声が、小さくなった。
あの男の、うっとりした顔が、頭から離れなかった。
神のお側に。この世には、戻られない。
あの男は、自分が何をしているのか、本当に、分かっていなかった。
救っているつもりで、笑っていた。
「でも、バラバラだと思ってたことが、同じ名前で繋がってることに、気づいたんだ」
指を、一本ずつ折った。
「神の使者は、俺に言った。神が、あなたを必要としています、って」
「父さんの手紙には、神は、光と闇の両方に耐えられる器を探している、って書いてあった」
「セラを連れていった大天使は、天界の命令だと言った。天界の上は、神の影響を受け始めてる。セラが、そう言ってた」
「そして今日、リナをさらった連中は、神のお側に差し出すことを、栄誉だと笑ってた」
動いている奴らは、みんな違う。
使者。大天使。教団。
でも、その先には、いつも、同じ名前がある。
「……神だ」
セラは、何も言わなかった。
「天使が、全部敵なんじゃない。セラは、違う」
「……ありがとうございます」
「でも、あの連中が、命を懸けて差し出そうとしてるものが、今のままの神なら」
耳の奥で、あの声が、ささやきかけた気がした。
でも、今は、聞こえないふりをした。
これは、あの声の言葉じゃない。
俺の、言葉だ。
静かに、でも、はっきりと言った。
「……俺の敵は、神だ」
言葉にした瞬間、その名前の重さが、体の中に降りてきた。
世界を見守るもの。
天使を生み、光と闇を保つもの。
そう教えられてきたものを、敵と呼ぶ。
「……天使の前で、言うことじゃないよな」
「いえ」
セラは、静かに首を振った。
「同じ天使として、恥ずかしいです。リナを連れていったのは、私の同胞だったのですから」
セラは、一度、目を閉じた。
「天界に仕える者としては、決して口にしてはならない言葉です。ですが——私も、同じ気持ちです」
目を開けたセラの瞳は、迷っていなかった。
「リナを供物にする者を、私は、天使であっても、神であっても、認めません」
洞窟の奥から、毛布の代わりに外套にくるまったルシェの声が、飛んできた。
「あたしは、元から気に入らなかった」
目を閉じたまま、ルシェは言った。
「村が燃えた時も、神様とやらは、何もしてくれなかった。今さら、何が祈りだ」
「……起きてたのか」
「あんなでかい声で言われたら、起きる」
「倒す、とは、まだ言わない」
俺は言った。
「あいつが、なぜ今みたいになったのか、俺たちは、まだ何も知らない。……でも」
拳を、握る。
「止める。リナを、供物にもさせない。父さんと母さんの時みたいなことを、もう、誰にも繰り返させない」
「目的を、整理しましょう」
セラが、静かに言った。
「ああ」
俺は、指を一本、立てた。
「一つ目。三日後の満月の夜までに、北の祈りの間で、リナを取り戻す」
もう一本。
「二つ目。神を止める。そのために——」
バアサの家に置いてきた、あの道具を思い出した。
光だけでは、鞘に収まらず。
闇だけでは、鞘より抜けない刃。
「父さんが遺した道具を、完成させる」
「では、今は眠りましょう」
セラが、立ち上がった。
「見張りは、私が」
「……ああ」
洞窟の中に戻って、父さんのマントに、もう一度くるまった。
ポケットの紙の上に、そっと手を置く。
『冷めないうちに、どうぞ』
(……待ってろ、リナ)
(夜が明けたら、すぐに動く。満月の夜までに、必ず迎えに行く)
今度は、まぶたの裏の白い背中に、そう話しかけることができた。
呼吸が、少しずつ、深くなっていく。
俺は、ようやく、眠りに落ちていった。
白い部屋に、湯気が立っていた。
リナの前に、一杯のお茶が置かれている。
白い服を着た若い女性が、うやうやしく頭を下げて、下がっていった。
「どうぞ、お飲みください、巫女様」
「……いりません」
「毒など、入っておりません。我らは、巫女様を、お迎えしたのですから」
「帰してください」
「ここが、あなたのお家です」
話の通じない笑顔が、また、扉の向こうに消えた。
リナは、湯呑みを、じっと見つめた。
湯気が、細く立ち上っている。
「失礼いたします」
扉が開いて、背の高い老人が入ってきた。
白い外套に、金の刺繍が入っている。
外套の背が、不自然に盛り上がっていた。
ふと、懐かしい匂いがした。
洗いたての布みたいな、清潔な匂い。
セラの匂いに、少し似ている。
でも、もっと、冷たかった。
「お目覚めの後、お加減はいかがですか」
「……あなたたちは、誰ですか」
「我らは、教団。神にお仕えし、巫女様をお待ちしてきた者です」
老人は、穏やかに微笑んだ。
「リナ様。あなたは、ずっと、思っておられたのでしょう」
「……何を、ですか」
「誰かの役に立ちたい、と」
リナの肩が、ぴくりと跳ねた。
「戦えない自分が、もどかしい。隣に立てる人が、うらやましい。……そう、お感じになってこられたのでは」
膝の上の手を、ぎゅっと握った。
どうして——それを。
(……見られていた)
あの庭で、洗濯物を抱えて立っていた、自分を。
「ここでは、あなたの力が、必要とされています」
老人の声は、どこまでも優しかった。
「三日後の満月の夜、あなたの祈りが、神をお救いになる。それは、あなたにしかできないことです」
「……その後、私は、帰れるんですか」
「ええ。巫女様は、あるべき場所へ、お帰りになります」
「それは、私が、望んだら——」
「巫女様の望みは、すべて、神のお側で叶います」
リナには、分かった。
この人は、嘘をついていない。
声の底に、混じりけが、まったくなかった。
心から、そう信じている。
だからこそ、怖かった。
この人が言う「帰る」は、自分が思い浮かべる「帰る」と、まるで違う場所のことを指している。
そんな気がした。
膝の上で握りしめた手の甲が、ほんのり熱を帯びた。
光の紋様が、一瞬、浮かんで、消える。
「おや」
老人が、満足げに目を細めた。
「巫女様のお力が、早くも、この聖域に応えておいでだ」
リナは、慌てて手を隠した。
老人が出ていったあと、湯呑みの湯気は、ゆっくりと、細くなっていった。
窓の白い布の隙間から、少し欠けた月が、覗いていた。
59話、読んでくださってありがとうございます。
同じ「帰る」という言葉でも、帰る先が違えば、意味はまるで変わってしまいます。
敵の名前は、怒りに任せて叫んだ時ではなく、一度立ち止まって、湯を飲んで、月を見てから口にしました。
次回、夜明け前の偵察から始まります。
またお会いしましょう。




