五十四話 遠くの村にいた
53話で、バアサと出会いました。
今回、彼女の家で——
アスモスとエリナの、本当の物語を聞きます。
そして——遠くで、何かが静かに動き始めています。
バアサの家までは、あと半日ほどの道のりだった。
「本当に、遠いところに住んでるんですね」
リナが息を切らしながら言った。
「今の場所は、実はまだ住み始めて日が浅いんだよ」
バアサは、杖をつきながらも、しっかりとした足取りで歩いていた。
「え、そうなんですか」
「ああ。ずっと、娘のいる遠くの町で世話になってたんだが——歳を取ってから、生まれ故郷の近くで暮らしたくなってね」
「戻ってきたのは、いつ頃なんですか」
「半年くらい前かね」
俺は少し考えた。
(じゃあ——入れ違いだったのか)
「……じゃあ、父さんが生きてる間には、間に合わなかったんですね」
「……そういうことになるね」
バアサは、静かに目を伏せた。
「体調を崩してて、なかなか村まで来られなくてね。ようやく動けるようになって、村を訪れた時——エリナの墓の近くに、新しい木の欠片が置かれていたんだよ」
「それ……」
「その時は、何のことか分からなかった。でも、今日、あの地下室を見て——分かった気がするよ」
バアサは、俺をまっすぐ見た。
「アスモスは、最後まで、あの村と繋がろうとしてたんだろうね」
その言葉に、俺は静かに頷いた。
「はい。父さんの墓は、俺が自分で作りました。村の近くの、森の丘に」
「……そうか」
バアサは、少し目を潤ませた。
「今度、わしも連れて行っておくれ。アスモスに、挨拶がしたい」
「もちろんです」
少し歩いてるうちにセラが、道端の花に目を留めた。
「……この花、天界にはないものです」
「気になるかい?」
バアサが振り返った。
「はい。名前は分からないんですが、綺麗な色をしています」
「摘んでいくかい」
「いいんですか」
「好きなだけ、持っていきな」
セラは少し嬉しそうに、花を数本摘んだ。
その様子を見ていたルシェが、ぼそりと言った。
「……花より、お前の方が地味に綺麗だけどな」
「え?」
セラが振り向いた。
「聞き間違いですか」
「聞き間違いだ」
ルシェは、そっぽを向いて、それ以上何も言わなかった。
セラは、少しの間その背中を見つめていたが、やがて静かに花に視線を戻した。
その頬が、ほんの少しだけ赤くなっていた。
その時だった。
セラが、ふと動きを止めた。
「……セラ?」
「……何か」
セラは、山の稜線の方向を見つめた。
「気のせいかもしれません。でも——見られているような」
俺も、その方向を見た。
何もない。
ただ、遠くの木立が、静かに風に揺れているだけだった。
「気のせいじゃないか」
「……そうかもしれません」
セラは、少し不安そうな表情のまま、また歩き出した。
ルシェが小声で言った。
「……あたしも、さっきから、ちょっと嫌な感じがしてた」
「魔族の勘か?」
「そんな大層なもんじゃない。ただの、勘だ」
「……気をつけよう」
俺たちは、それ以上その話をせずに、歩みを進めた。
でも——胸の奥に、小さな警戒心が芽生えていた。
半日近く歩き、日が傾き始めた頃、ようやく小さな町が見えてきた。
「もうすぐだよ」
バアサが言った。
町の外れに、小さな家があった。
木造の、質素な家だった。
でも——手入れが行き届いていて、庭には花が咲いていた。
「わあ、綺麗な庭ですね」
リナが目を輝かせた。
「引っ越してすぐに、庭だけは整えたんだよ」
バアサは、扉を開けて中へ促した。
「入りな。茶でも淹れよう」
家の中は、まだ新しい生活の匂いがした。
古い家具は、以前の家から運んできたものなのだろうか。
丁寧に手入れされた食器が、棚に並んでいた。
五人は、小さな居間に座った。
部屋は狭く、椅子の数も足りなかった。
「椅子、二つしかないね」
バアサが困ったように言った。
「あたしは床でいい」
ルシェがあっさり座り込んだ。
「私も、床で大丈夫です」
セラも続いた。
「じゃあ、私も」
リナが座ろうとした瞬間、体勢を崩した。
「わっ……!」
「危ない」
俺は咄嗟に手を伸ばし、リナの体を支えた。
「あ……す、すみません」
リナの顔が、じわりと赤くなった。
「大丈夫か」
「大丈夫です……!」
支えた手が、まだリナの腕に触れたままだった。
慌てて離すと、リナはさらに顔を赤くして、自分の袖を握りしめた。
「……あ、ありがとうございました」
「いや、気にしないでくれ」
バアサが、湯気の立つお茶を人数分淹れてくれた。
「……ありがとうございます」
「礼はいい。それより——」
バアサは、ハエルの正面に座った。
その目が、まっすぐこちらを見た。
「聞きたいことがあるんだろう。アスモスとエリナのこと」
「はい」
俺は少し姿勢を正した。
「話してもらえますか。二人が、どんな風に出会ったのか」
「話そう。全部」
バアサは、しばらく目を閉じていた。
過去を辿るように、静かに。
「エリナが、この村に辿り着いたのは、もう二17近く前になるかね」
バアサは、ゆっくりと話し始めた。
「旦那を旅の途中で亡くして、身重のまま、一人で歩いてきた。ボロボロの格好で、でも——目だけは、真っ直ぐだった」
俺は、じっとバアサの言葉に耳を傾けた。
「村の連中は、最初は戸惑ってたよ。見知らぬ女が、一人で歩いてきたんだからね。でも——エリナは、すぐに馴染んだ。誰にでも優しくて、働き者で。あの子が来てから、村全体が、少し明るくなった気がしたよ」
「母さん……」
「そんな時だった。もう一人、村に迷い込んできたのが」
バアサの目が、少し柔らかくなった。
「アスモス、だ」
その名前に、俺の胸が熱くなった。
「あの人は、最初、みんな警戒してたよ。魔族だったからね。得体の知れない、堕天した天使だって噂もあった」
「でも——」
「でも、エリナだけは、違った」
バアサは、静かに続けた。
「あの子は、アスモスを最初から怖がらなかった。むしろ、優しい人だってすぐに気づいてた。そして、村のみんなにも、そう伝えたんだ」
「母さんが……」
「ああ。エリナがいなかったら、アスモスは、村に受け入れられなかったかもしれない」
バアサは、少し目を細めた。
「二人は、自然と仲良くなっていった。エリナが、アスモスに料理を教えたり。アスモスが、エリナの畑仕事を手伝ったり」
その光景を、俺は想像した。
まだ見たことのない、両親の姿を。
「そして——お前が生まれたんだよ、ハエル」
バアサの言葉に、俺は息を呑んだ。
「あの日のことは、今でも覚えてる。村中が、お祝いムードだった。エリナも、アスモスも、本当に幸せそうだったよ」
涙が、静かに滲んできた。
「……そうだったんですね」
「ああ」
バアサは、遠くを見るような目をした。
「幸せな時間だったんだ、あの頃は」
その言葉が、静かに部屋に響いた。
話が一区切りついた頃、外はすっかり暗くなっていた。
「今日は、もう遅い。泊まっていきな」
バアサが言った。
「いいんですか」
「狭い家だが、雑魚寝くらいならできるよ」
「ありがとうございます」
バアサは、奥の部屋から布団を運んできた。
「男と女、分けた方がいいかね」
「お願いします」
セラが即答した。
「わしは、女の子たちと寝るよ。男は、居間で寝てもらおうか」
「分かりました」
夜が更け、女性陣は奥の部屋へ、俺は居間で横になった。
しばらくして、奥の部屋から小さな話し声が聞こえてきた。
「……セラさん、さっき、ルシェさんに褒められてましたよね」
リナの声だった。
「……褒められた、というより」
セラの声が、いつもより小さかった。
「よく、分かりません」
「絶対、照れてましたよ、ルシェさん」
「……そうでしょうか」
「そうです! 私、見てましたから」
「……」
セラは、それ以上何も言わなかった。
でも——その沈黙には、どこか嬉しそうな気配が混じっていた。
その会話を、俺は居間で聞きながら、静かに笑った。
(賑やかだな)
天井を見つめながら、今日聞いた話を、頭の中で反芻した。
(父さんと母さん、幸せだったんだな)
その事実が、じんわりと胸に染みていった。
(でも——なんで、村は襲われたんだろう)
(父さんは、本当に、堕天が理由で死んだんだろうか)
まだ知らない真実が、この先に待っている気がした。
その予感を抱えたまま、俺は目を閉じかけた。
その時——
窓の外で、何かが動いた気がした。
「……っ」
俺は目を開けた。
暗闇の中、何もいなかった。
でも——確かに、視線を感じた。
(気のせいか……?)
セラが道中で言っていた「見られているような」という言葉が、頭をよぎった。
(教団……なのか?)
答えは出なかった。
俺は静かに、窓の外を見つめ続けた。
しばらくして、その気配は消えた。
(……気のせいってことにしとくか)
(最近色んなことがありすぎて疲れたしな)
そう自分に言い聞かせて、俺は再び目を閉じた。
でも——完全には、安心できなかった。
その夜、遠くの木立の中で——
フードを深く被った人影が、静かに佇んでいた。
その目は、バアサの家の灯りを、じっと見つめていた。
やがて、その影は、音もなく闇に溶けて消えていった。
54話、読んでくださってありがとうございます。
バアサが、この土地に戻ってきたのが半年前だったこと。アスモスの死とは、入れ違いだったこと。「今度、わしも連れて行っておくれ」という言葉に、静かな想いが込められていました。
道中、セラが「見られているような」と言った場面。そして夜、ハエルが感じた視線。何かが、確実に近づいてきています。
次回、さらに深い部分——村が襲われた経緯と、アスモスの本当の死の真相に、近づいていきます。
またお会いしましょう。




