五十一話 闇でしか見えない部屋
50話で、セラが状況を整理してくれました。
今回、骨隆々村へ向かう途中——
ハエルにとって、特別な場所に立ち寄ります。
街道を外れて、森の中へ入った。
木々が深くなるにつれて、空気が変わっていく気がした。
「……この辺りだったはずだ」
俺は記憶を辿った。
はっきりとは覚えていない。
物心ついてからずっと、ここで暮らしていたはずなのに、道順は曖昧だった。
でも——体が、道を覚えている気がした。
足が、自然と正しい方向へ向かっていく。
「ハエルさん、迷ってませんか」
リナが心配そうに言った。
「大丈夫。多分、もうすぐ——」
木々の間から、古い小屋が見えた。
「……あった」
小さな木造の家だった。
長年、誰も手入れをしていない。
蔦が絡まり、屋根の一部が崩れていた。
窓は割れ、扉も傾いていた。
でも——確かに、見覚えがあった。
胸の奥が、じんわりと締め付けられた。
「父さんと暮らしてた家だ」
俺は静かに近づいた。
一歩ずつ、踏みしめるように。
(……もう、一年か)
旅立ってから、そんなに経っていたことに、今更気づいた。
季節が、何度か巡っていた。
その間ずっと、この家は誰にも触れられず、静かに朽ちていったんだろう。
扉に手をかける。
軋みながら、開いた。
「……ただいま」
誰もいないと分かっていても、自然と口から出た。
埃の匂いが、鼻を突いた。
中は、時間が止まったままだった。
台所には、父さんが使っていた鍋が、まだ置いてあった。
「……ここで、カレー作ってたのか」
「そうだよ」
俺は鍋にそっと触れた。
冷たかった。
でも——記憶の中では、いつも温かかった。
「父さん、料理の時だけ、妙に軽やかだったんだ」
「軽やかって?」
セラが不思議そうに聞いた。
「筋肉ムキムキの大男なのに、鼻歌歌いながら鍋かき混ぜて。全然似合わないんだけど、それが可笑しくて」
俺は少し笑った。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
でも——今日は、その温かさに浸っている時間はなかった。
「探し物、ありますか?」
セラが聞いた。
「分からない。でも——何かあるかもしれない」
俺は部屋を見渡した。
小さな家だから
すぐに見て回れる広さだった。
寝室、台所、小さな居間。
家具は少なく、質素な暮らしぶりが伝わってきた。
「……何もないな」
一通り見て回ったが、これといったものは見つからなかった。
「ハエルさん」
リナが不安そうに言った。
「大丈夫ですか」
「……ああ」
肩を落としかけた、その時だった。
「……っ」
胸の奥が、ざわついた。
いつもの、あの感覚とは少し違う。
もっと——静かで、優しい何かが、体の中で動いた。
まるで、呼ばれているような感覚だった。
「セラ、なんか——見えないか」
「見えない?」
「あの壁、なんか黒く見える気がする」
セラは俺が指さした壁を見た。
その壁は、居間の奥にある、なんの変哲もない壁だった。
「……何も見えません」
「私も見えません」
リナが言った
目を凝らして、何度も見直している。
ルシェが壁に近づいた。
その顔つきが、真剣だった。
「……あたしにも、見えない」
ルシェが眉をひそめた。
「魔族なら、闇の気配くらい分かりそうなもんだけど」
「……なんでだろうな」
俺は不思議に思った。
魔族であるルシェにすら見えないというのは、おかしい気がした。
「たぶん——」
セラが少し考えて言った。
「アスモスさんが、意図的にハエルにしか見えないよう、魔法をかけたんだと思います」
「そんなことできるのか」
「特定の相手しか見えない結界、という術は、天界の記録にもあります。父から子へ、力の一部を継がせる形で使われることがあると」
「……つまり、俺のためだけに」
「ええ。誰にも——魔族にすら、見つけられないように」
その言葉に、俺は少し黙った。
(父さん、そこまでして……)
まるで、未来の自分に向けて、確実に届くように準備してくれていたみたいだった。
俺は近づいた。
手を伸ばす。
黒いモヤに触れた瞬間——
壁が、ゆっくりと動いた。
隠し扉だった。
「……っ!」
「ハエルさん!?」
「壁が動いた……!」
三人が驚いた声を上げた。
「見えてないのに、動いたのが分かるのか」
「音がしました」
セラが言った。
「でも、開いた場所は——今も、私には見えません」
不思議そうに、セラは壁の方に手を伸ばして、宙を撫でるように動かした。
「本当に、何もないところに手を伸ばしてる感じです」
「俺には、はっきり見える」
俺は隠し扉の奥を覗いた。
小さな空間があった。
大人一人が屈んでやっと入れるくらいの、狭い空間。
そこに——木箱が一つ、置かれていた。
古い木箱だった。
でも——丁寧に作られている。
「……なんだろう」
俺は木箱を取り出した。
三人が、固唾を呑んで見守っていた。
蓋を開ける。
中には——一通の手紙が入っていた。
見慣れた、父さんの字だった。
手が、震えた。
「……父さんの字だ」
「読んでください」
セラが静かに言った。
でも——その声には、緊張が滲んでいた。
俺は手紙を開いた。
大きくなったなあ、ハエル。これを読んでるってことは、だいぶ強くなったんだろうな。
お前がこの部屋を見つけられたのは、闇をちゃんと使えるようになった証拠だ。父さんも、今のお前を見たかったな。
もしお前がこれを読んでいるなら——もう、神の異常に気づいているかもしれない。
昔の神は、こんな存在じゃなかった。世界の均衡をただ静かに保つだけの、感情のない存在だった。それがいつからか、変わってしまった。理由までは、俺も詳しくは分からない。でも——人間が、何かをしたと聞いたことがある。
お前の中にある力は、母さんを守れなかった俺の後悔から生まれたものだ。詳しいことは、骨隆々村に行けば——何か手がかりが残っているかもしれない。村は失われたが、あの場所には、まだ見つけられていないものがあるはずだ。
もう一つ、伝えておきたいことがある。神は、光と闇の両方に耐えられる器を探している。もしお前がその器の条件に当てはまるなら——狙われる可能性がある。気をつけてくれ。
生きろ。誰かのためじゃない、お前自身のために。それだけは、忘れないでくれ。
愛してる、ハエル
文字が、途中から滲んで見えた。
「……っ」
俺は手紙を握りしめた。
「ハエル……」
セラが心配そうに近づいた。
「大丈夫、——」
言おうとしたのに、声が震えた。
「……っ、くそ……」
涙が、止まらなかった。
普段なら、絶対に人前で見せない。
強がって、笑って誤魔化すはずだった。
でも——今は、我慢できなかった。
「父さん……」
肩が、震えた。
「父さん、まだ俺のこと考えて……こんなの、残して……」
胸の奥から、色々な感情が溢れ出てきた。
寂しさ。
感謝。
そして——どうしようもない愛おしさ。
リナが、そっと隣に来た。
何も言わず、俺の背中に手を当てた。
その温もりが、少しだけ心を落ち着かせた。
セラも、もう片方の隣に立った。
「……大丈夫です。泣いていいんです」
その言葉が、余計に涙を誘った。
ルシェは少し離れた場所で、静かに見ていた。
でも——その目にも、何か揺れているものがあった。
腕を組んで、あえて視線を逸らしているように見えた。
「……ずるいよ、父さん」
俺は手紙を胸に押し当てた。
「こんなの見せられたら……」
言葉が続かなかった。
ただ——泣いた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
森の中に、俺の声だけが響いていた。
風が、木々を揺らす音だけが、静かに寄り添っていた。
少しして、涙が落ち着いた頃。
俺は袖で目元を拭った。
「……ごめん、取り乱した」
「謝らないでください」
セラが静かに言った。
「……当然のことです」
「そうですよ」
リナが頷いた。
「お父さんからの手紙なんですから」
俺は手紙を、もう一度見た。
震える手で、丁寧に文字を追った。
「神の……器、か」
「……気になる言葉ですね」
セラが言った。
「もし本当に、ハエルが器の条件に当てはまるなら——」
「今まで通りだ」
俺は言った。
まだ涙の跡が残っていたけど、声はしっかりしていた。
「狙われてるなら、狙われてる。それだけだ」
「……ハエルらしいですね」
セラは少し笑った。
ルシェが静かに言った。
「……骨隆々村に、何かあるってさ」
「ああ」
「行くしかないな」
「行く」
俺は手紙を丁寧に畳んで、懐にしまった。
大切なものを扱うように、両手で。
「父さん」
俺は森の家を見上げた。
崩れかけた屋根、蔦の絡まった壁。
でも——確かに、ここに父さんと二人の時間があった。
「もう少しだけ、待っててくれ」
「愛してる」という一文が、まだ胸の奥に残っていた。
その言葉を抱えたまま、俺は前を向いた。
「行くぞ。骨隆々村へ」
「はい」
「ああ」
「……ええ」
四人は、森を出て、街道へ戻った。
風が、木々を揺らしていた。
その音が——まるで、父さんが見送ってくれているみたいだった。
歩きながら、俺はもう一度、懐の手紙に手を当てた。
(父さん)
(俺、ちゃんと見つけたよ)
(これから、骨隆々村に行く)
(父さんが遺してくれたものを、無駄にしないから)
その決意を胸に、俺たちは骨隆々村を目指して歩き続けた。
51話、読んでくださってありがとうございます。
父さんが遺した隠し部屋。ハエルにしか見えない黒いモヤ。ルシェですら見えなかったのは、アスモスが意図的にハエルだけに見えるよう仕掛けていたからでした。
そこにあった手紙は、「大きくなったなあ、ハエル」から始まり、神の異常への警告、器についての警告、そして——最後に「愛してる、ハエル」という一言で締められていました。
普段は強気なハエルが、この手紙を読んで初めて人前で涙を見せました。リナとセラが黙って寄り添う場面、ルシェも静かに何かを感じていた場面。
次回、骨隆々村へ到着します。母エリナの墓に、向き合う時が来ます。
またお会いしましょう。




