四十五話 アスモス、お前って奴は
44話で、天界の中でハニエルと出会いました。
今回は、その続きです。
ハニエルがハエルに語りかけます。
そして——別れます。
ハニエルの後についていった。
天界の廊下は、静かだった。
足音が、よく響いた。
「……こっちだよ」
ハニエルは振り返らずに言った。
「ザイルの部屋は、この先だ。でも——その前に」
ハニエルは足を止めた。
「……遅くなったけど、名前を聞いていいかい?」
「ハエルだ」
「……ハエル」
ハニエルは静かに繰り返した。
その目が、わずかに揺れた。
「……アスモスがつけた名前かい?」
「……多分そうだと思う。父さんしかいなかったから」
「そうか」
ハニエルは少し間を置いた。
「……あいつって奴は」
「え?」
「……なんでもないよ」
ハニエルは少しだけ笑った。
でも——その笑顔に、何か複雑なものが滲んでいた。
「……いい名前だよ。本当に」
ハニエルはそれ以上説明しなかった。
ハニエルは再び歩き出した。
俺はその背中を見ながら、胸の奥で父さんのことを思った。
(ありがとう)
そう思った。
廊下を曲がったところで、ハニエルがまた足を止めた。
「ハエル」
「ん?」
「一つ、してあげたいことがあるんだけど——いいかい?」
「何を?」
「力を貸したいんだ。君に」
「力を?」
「ああ。アスモスの息子が天界に乗り込んできた。だったら——できることをしたい」
ルシェが静かに言った。
「……どんな力?」
「紋章だよ。僕の力の一部を、君に刻む」
「紋章……」
「普段は見えない。でも——本当に力が必要な時に、光る」
「何が変わる?」
ハニエルは少し考えるように言った。
「暴走しかけた時、自分で引き戻しやすくなる。光と闇を同時に使う時、少し安定する。それから——」
ハニエルは少し間を置いた。
「動きが、変わるかもしれない」
「動きが?」
「アスモスと長くいたから——あいつの動き方の癖が、僕の中に残っていてね。それが伝わるかもしれない」
「……父さんの動き方が?」
「そうだよ」
俺は少し黙った。
「……なんで、俺に?」
「え?」
「人間に加護を授けるのか、ってこと」
ハニエルは少し考えた。
「……正直に言うと、人間に加護を授けることは——あまりしないよ。天界の規律上、好ましくないからね」
「なら——」
「でも、君は別だよ」
ハニエルはまっすぐ俺を見た。
「アスモスの息子だから。それだけで、僕には十分な理由だ」
「……それだけで?」
「それだけで、十分だよ」
ハニエルの目に、迷いはなかった。
「……分かった。頼む」
「左胸を、少しだけ開けておくれ」
俺は服を開いた。
ハニエルの手が、俺の左胸に触れた。
温かかった。
心臓の場所に、温度が重なった。
「……っ」
光が、じわじわと広がった。
痛みはなかった。
ただ——温かかった。
父さんの手の温もりに、少しだけ似ていた。
「……もう少しだよ」
光が収まった。
俺は自分の左胸を見た。
何もない。
普通の肌だった。
「見えないのか」
「普段は見えないよ。でも——」
ハニエルは少し笑った。
「本当に必要な時に、光る」
「……ありがとう、ハニエル」
「どういたしまして」
ハニエルは俺から離れた。
その時——ルシェが静かに言った。
「……なぜ、一番強い加護を授けた」
「え?」
「あの光の量。あれは——普通の加護じゃない」
ハニエルは少し目を細めた。
「……よく分かるね」
「魔族だから、力の質には敏感だ」
「そうか」
ハニエルは少し間を置いた。
「……アスモスの息子には、一番強いものを授けたかった。それだけだよ」
ルシェは黙った。
「……それだけか」
「それだけだよ」
ハニエルは静かに笑った。
「でも——もう一つ、理由があるとしたら」
「なんだ」
「……君たちの前に、ザイルがいる。普通の加護では、足りないと思ったからね」
その言葉が、空気に重く落ちた。
「……ザイルは、それほどか」
「第二階梯の大天使だよ。僕と同格だ」
「ハニエルでも勝てないのか」
「……戦えば、どうなるか分からない。でも——」
ハニエルは廊下の奥を見た。
「今の天界では、僕が動けることに限界がある」
「どういうこと?」
「神の影響を受けた上層部が、天界を動かしている。僕はまだ独立した意志を持っているけど——大きく動けば、次は僕が排除される」
「……だから、ここまでしか手伝えないのか」
「そうだよ」
ハニエルは俺を見た。
「……ごめんね。もっとしてあげたいけど」
「いや」
俺は首を振った。
「十分だよ。ここまでしてもらっただけで——父さんの友達に会えただけで」
ハニエルは少し間を置いた。
「……ハエル」
「ん?」
「アスモスのことを——少し聞いていいかい」
「ああ」
「あいつは、最後まで——あいつらしかったかい」
俺は少し考えた。
「……そうだな」
「どうだったんだい」
「強くて、優しくて、料理が上手くて——最後まで笑ってた」
ハニエルは目を閉じた。
「……そうか」
「俺のことを、誇りだって言ってくれた」
「……そうか」
「父さんは——幸せだったと思う」
ハニエルはしばらく動かなかった。
風もないのに、銀色の髪が揺れた気がした。
「……よかった」
その声が、かすかに震えていた。
「あいつが幸せだったなら——よかった」
ハニエルは目を開けた。
「……アスモス、お前って奴は」
独り言のように呟いた。
「堕天して、人間の子どもを育てて——こんなに立派な息子を残していくなんて」
俺は何も言えなかった。
「……最後まで、お前らしいよ」
ハニエルは少しだけ笑った。
泣いてはいなかった。
でも——その目が、少し光っていた。
「ハエル」
「ん?」
「アスモスが守れなかった世界を、君が守っておくれ。あいつの代わりじゃない——君自身として、ね」
「……ああ」
「セラを、取り戻しておいで」
「取り戻す」
ハニエルは俺たちに向き直った。
「この先の廊下を真っ直ぐ進めば、ザイルの部屋がある。大きな扉が見えたら、そこだよ」
「ありがとう、ハニエル」
「……どういたしまして」
ハニエルは少し間を置いた。
「ザイルには気をつけるんだよ。あの人は——計算通りにいかないことを、一番嫌う」
「分かった」
「だから——計算の外に出続けることが、一番効くと思うよ」
「……覚えておく」
俺たちは歩き出した。
「ハエル」
ハニエルが呼んだ。
振り返った。
「……アスモスが、今の君を見たら」
「きっと——誇りに思うよ」
その言葉が、胸の奥に深く落ちた。
「……ありがとう、ハニエル」
「どういたしまして、ハエル」
ハニエルは静かに笑って、廊下の奥へ消えていった。
三人は前を向いた。
「……行くぞ」
ルシェが短く言った。
「ああ」
「……セラを取り戻す」
「ああ」
リナが静かに言った。
「……ハニエルさん、いい人でしたね」
「ああ」
「……お父さんも、きっとああいう人が友達でよかったと思ってますよ」
俺は少し間を置いた。
「……そうだな」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
でも——今は前を向く時だ。
「行くぞ」
「はい」
「ああ」
三人で廊下を進んだ。
大きな扉が、前方に見えてきた。
45話、読んでくださってありがとうございます。
ハニエルはきっと、アスモスが息子に自分の名前をとって名付けた事に気づいてるでしょう。
「アスモス、お前って奴は」という独り言。天界の第二階梯の大天使が、一人の堕天した天使のことをそう呟く。それだけで、アスモスがどれだけ愛された存在だったか伝わると思います。
そして「アスモスが生きて、今の君を見たら。きっと誇りに思うよ」という言葉。
この言葉を、ハエルはこれからずっと胸に持って進んでいきます。
次回、ザイルとの対決です。
またお会いしましょう。




