三十六話 あの笑顔が、一番腹立つ
35話で、ザイルが姿を現しました。今回から、じわじわと妨害が始まります。
でもそれだけじゃない。
ハエルが、初めてルシェに一本取ります。
翌朝。
宿の女将さんが、申し訳なさそうな顔でやってきた。
「あの……皆さん、今日で出ていただけますか」
「え? 何かありましたか?」
リナが驚いて聞いた。
「それが……昨日、教会の方がいらっしゃって。この宿に危ない魔族と怪しい人間が泊まっていると、町の人たちに話して回ったそうで……」
女将さんは深々と頭を下げた。
「私は皆さんのことを怪しいとは思っていないんです。でも……町の人たちの目があって。本当に申し訳ないんですが……」
「分かりました。ご迷惑をおかけしました」
セラが静かに答えた。
女将さんが去った後、四人で荷物をまとめた。
「……教会か」
ルシェが低い声で言った。
「直接動かずに、教会を使って噂を流したんだ」
「絶対あいつが裏で動いてる」
俺は歯を食いしばった。
「証拠はないけど、やり口がそれっぽい」
「証拠がないから質が悪い」
ルシェが吐き捨てるように言った。
セラは黙って荷物をまとめていた。
その手が、わずかに震えていた。
「セラ」
俺は声をかけた。
「……大丈夫か?」
「……大丈夫です」
「……」
セラは少し間を置いた。
「昨日から、ずっと背中に視線を感じる気がします。気のせいかもしれませんが……」
「気のせいじゃないと思う」
「……ええ」
セラは静かに答えた。
「あの人は……ずっとそういうやり方をしてきました。直接手を出さない。でも確実に、じわじわと追い詰めてくる」
「天界にいた頃から?」
「……はい」
セラはそれ以上言わなかった。
でも——その目に浮かんでいるものが、怒りじゃなく恐怖だということは、俺にも分かった。
リナがセラの隣に来た。
「セラさん」
「……なんですか」
「私たちがいますよ」
セラはリナを見た。
少しだけ、表情が緩んだ。
「……ありがとうございます」
ルシェが荷物を背負いながら言った。
「次の町でも同じことをされるかもしれない。でも——」
「でも?」
「野営すればいい。それなら宿は関係ない」
「そうだな」
「……それに」
ルシェは少し口元を歪めた。
「教会を使うってことは、直接動けない理由があるってことだ。今はまだ、そこまで本気じゃない」
「……それは、慰めになるのか?」
「慰めじゃない。事実だ」
セラはルシェを見た。
「……魔族に、そういうことを言われるとは思いませんでした」
「天使に礼を言われるとも思ってなかった」
二人が、少しだけ目を合わせた。
完全に仲良くはない。
でも——確実に、何かが変わり始めていた。
町を出て、街道を歩いた。
次の宿場町まで、半日ほどの道のりだ。
「ルシェ」
「なに」
「訓練、やってもいいか」
「歩きながらか?」
「移動しながらでも、頭は使える」
ルシェは少し考えた。
「……いいだろ。何をする気だ」
「ルシェの動きのパターンを、今まで全部観察してた」
ルシェの眉が、わずかに上がった。
「……観察してた?」
「訓練の時も、日常の時も。ルシェは左を避ける時、右肩が先に動く」
「……」
「右から攻める時は、踏み込む前に重心が右に寄る」
ルシェは黙った。
「……気づいてたのか」
「昨日から」
「言えよ」
「言ったら訓練にならない」
ルシェは少し口元を歪めた。
「……なるほど。じゃあ——」
ルシェは立ち止まった。
「試してみろ」
「え、今から?」
「今から。歩きながら気づいたなら、歩きながら使え」
街道の脇、少し広くなった草地に入った。
セラとリナが少し離れた場所で見ていた。
俺はルシェの前に立った。
「……いくぞ」
「どうぞ」
ルシェはいつも通り、構えを取らない。
俺は正面から近づいた。
ルシェの右肩が動いた。
(右に避ける)
俺は左に踏み込んだ。
ルシェが避けようとした方向と逆だ。
「っ——」
ルシェの動きが一瞬だけ止まった。
その隙に、俺はルシェの腕に触れた。
しっかりと、確実に。
「……」
静寂があった。
セラが静かに言った。
「……当たりました」
リナが叫んだ。
「やった!!!」
ルシェは俺を見た。
その目が——珍しく、驚いていた。
「……お前」
「パターンを読んだ。それだけだ」
「……」
ルシェはしばらく黙っていた。
やがて——
「……一本」
低く、短く言った。
「認めてくれるのか?」
「事実だから認める」
ルシェはそっぽを向いた。
「……でも次は通じない」
「分かってる。だから次の手を考える」
「……やるじゃないか」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
リナが走ってきた。
「ハエルさん! すごかったです!!」
「ありがとう」
「どうやったんですか!?」
「観察してた。ルシェの動きのクセを」
「クセって……そんなの分かるんですか!?」
「毎日見てれば分かる」
リナは目を輝かせた。
「じゃあ私のクセも分かりますか?」
「……リナのクセは」
「なんですか!?」
「嬉しい時、左の口角が先に上がる」
リナが固まった。
「……え」
「あとよく考えてる時、右手で自分の袖を触る」
「……な、なんで知ってるんですか」
「毎日見てるから」
リナの顔が、じわじわと赤くなった。
「……そ、そんなに見てたんですか」
「あ……」
俺は気づいた。
これは——少し言い方が悪かった。
「い、いや、そういう意味じゃなくて、観察の一環で——」
「一環……」
「み、みんなのことを観察してるから! セラも、ルシェも!」
「……私のことも観察してるんですか」
セラが静かに言った。
「セラは……考える時に右手で顎に触れる」
「……正確ですね」
「あと驚いた時、ほんの一瞬だけ目が大きくなる」
「……」
セラは少し黙った。
「ハエルは、人をよく見ていますね」
「……そういうことじゃないんだが」
ルシェが腕を組んで言った。
「でも正直に言うと、それは戦闘以外でも武器になる」
「どういう意味だ?」
「相手が何を考えているか、次に何をするか——それを読む力は、戦闘だけじゃない」
「……なるほど」
「まあ——」
ルシェはそっぽを向いた。
「リナのクセをそのまま言ったのは、どうかと思うけど」
「余計なお世話だ」
「……ははっ」
ルシェが小さく笑った。
声を上げて笑うんじゃなく、本当に小さく。
でも——確かに笑っていた。
夕方。
街道沿いの森の中で野営の準備をした。
「虫……いますか?」
セラが恐る恐る聞いた。
「います」
「……そうですか」
「大丈夫ですよ、セラさん! 虫除けの薬草を使いますから!」
「薬草で虫が避けられるんですか」
「ええ。煙を焚くと効果的です」
「……記録します」
「虫除けの方法を記録するんですか……」
「地上では必要な知識です」
ルシェが小声で俺に言った。
「……天使って、真面目だな」
「そうだな」
「嫌いじゃない」
「セラには言うなよ」
「……言わない」
焚き火に火が入った。
リナが手際よく夕食の準備を始めた。
「今日は携帯食ですね。美味しくするの、難しいですけど……」
「リナが作れば何でも美味しくなる」
「そんなことないですよ!」
リナの左の口角が、先に上がった。
俺はそれを見て、少しだけ笑った。
「……またリナの反応を見ていましたね」
セラが静かに言った。
「……見てない」
「見ていました。」
「……」
ルシェが焚き火を見ながら言った。
「……なんか、平和だな」
「そうですね」
リナが嬉しそうに言った。
「ザイルに宿を追い出されたのに?」
「そうだけど——」
ルシェは空を見上げた。
「こういう夜も、悪くない」
焚き火が、静かに揺れた。
その夜——
セラは焚き火を見つめていた。
(……また来る。必ず来る)
その思いが、胸の奥にずっとある。
でも今夜は——三人がそばにいる。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になった気がした。
遠くで、何かが動く気配がした。
セラはそっと目を細めた。
次に来る時は——今日より、本気のはずだ。
37話、読んでくださってありがとうございます。
ガルドが再登場しました。
ルシェがセラの隣に座って「あいつの顔が気に入らないだけだ」と言った場面。今夜だけ耳が赤くなっていました。セラが小さく笑った場面、好きです。
リナの「目が優しかったから」という言葉。リナはいつも、そういうところを見ています。
次回、ザイルの妨害がさらに続きます。
またお会いしましょう。




