三十四話 強くなるのと、恥ずかしいのは別の話だ
33話で、戦闘に「頭」が入り始めました。
今回は訓練の続きです。
でも——四人の日常が、少し賑やかになります。
朝の訓練が終わった後だった。
「今日は市場に行きましょう」
リナが提案した。
「補給が必要なので。あとセラさん、地上の食材を色々見てみませんか?」
「……地上の食材」
セラが少し興味深そうに言った。
「天界では食事に意味がありませんでした。でも地上に来てから……食べることの意味が分かってきた気がします」
「どういう意味ですか?」
「食べると、温かくなります」
「……それが食事の意味だと思うんですか?」
「違いますか」
「間違いじゃないですけど……」
リナは少し考えた。
「食べることは、楽しいんですよ。美味しいものを食べると嬉しくなったり、誰かと一緒に食べると安心したり」
「……なるほど」
セラは真剣な顔でメモを取るような仕草をした。
「温かくなる、楽しい、嬉しい、安心」
「メモしてるんですか?」
「記録しています」
「……地上文化の記録ですか?」
「そうです」
ルシェが小声で俺に言った。
「……天使って、ああいう生き物なのか」
「みたいだな」
「……変わってるな」
「ルシェも大概だけど」
「何が」
「魔族が人間と旅してる時点で」
「……うっさい」
市場に着いた。
リナが慣れた手つきで薬草や食材を選んでいく。
セラはリナの隣で、売られているものをひとつひとつ真剣に見ていた。
「これは何ですか」
「トマトです」
「……赤いですね」
「そうですね」
「食べると何になりますか」
「酸っぱくて美味しいです」
「酸っぱい……」
セラはトマトをじっと見つめた。
「試してみますか?」
「……はい」
リナがトマトを買って、セラに渡した。
セラはトマトをひと口かじった。
「……っ」
顔がわずかに歪んだ。
「酸っぱいですね」
「そうですよ」
「……でも」
セラはもうひと口かじった。
「悪くありません」
「気に入りましたか?」
「……記録します」
セラはまた真剣な顔でメモの仕草をした。
「トマト。酸っぱい。悪くない」
「……かわいい」
リナが小声で言った。
「聞こえています」
「す、すみません!」
俺とルシェは顔を見合わせた。
市場の端で、ルシェが立ち止まった。
屋台に、赤い布が並んでいた。
「……」
ルシェはその布をじっと見ていた。
「ルシェ、何か気になるものがあるのか?」
「……ない」
「でも止まってるぞ」
「……ない、って言った」
ルシェは前を向いた。
でも——また少し後ろを振り返った。
「ルシェさん、あの布が気になりますか?」
リナが聞いた。
「ならない」
「でも二回振り返ってましたよ」
「……気のせいだ」
「気のせいでは振り返れません」
「……」
ルシェは黙った。
リナは屋台の布を手に取った。
赤い布で、小さなリボンの形に加工されていた。
「これ、髪に付けるやつです。ルシェさんの髪の色に合いそうですね」
「……別にそんなの要らない」
「試してみますか?」
「要らないって言った」
「一秒だけ」
「……一秒だけだ」
ルシェは渋々リボンを受け取り、自分の赤い髪に付けた。
リナが目を輝かせた。
「わあ! 似合います!!」
「……そうか」
「すごく似合います!!」
「……そうか」
俺は黙って見ていた。
ルシェの耳が、少しだけ赤くなっていた。
でも今回は意地を張った。
「……やっぱり要らない」
「えっ」
「似合わない」
「似合ってますよ!?」
「似合わない」
ルシェはリボンを外して、屋台に戻した。
でも——
その後、屋台のおじさんがリボンを手に取って「買うかい?」と聞いた時、ルシェは一瞬だけ迷った。
「……いらない」
そう言って歩き出したが、十歩くらいで止まった。
「……」
俺は黙って見ていた。
ルシェはゆっくり振り返って、屋台に戻った。
「……これ、いくらだ」
おじさんが値段を言った。
ルシェはお金を払って、リボンをポケットにしまった。
こちらを見た。
「……見てたのか」
「見てた」
「言うな」
「言わない」
「絶対言うな」
「言わないって」
ルシェはそっぽを向いて歩き出した。
「……赤が好きなだけだ」
「うん」
「それだけだ」
「うん」
「笑うな」
「笑ってない」
「笑ってる」
「……少しだけ」
「……うっさい」
でも、ルシェの口元も少しだけ笑っていた気がした。
宿に戻ってからだった。
「ハエル、今日の訓練の復習をします」
セラが真剣な顔で言った。
「復習?」
「砂をかける戦術の発展形を考えました」
「……今から?」
「今からです」
セラは紙を広げた。
「まず、砂は目だけでなく耳にも使えます。砂の音で注意を引き、別方向から攻める」
「それ、俺が昨日考えてたやつだ」
「そうですか。では——」
セラはさらに紙に何かを書いた。
「水を使う方法も考えました。水たまりに誘導して、足場を不安定にする」
「……それは思いつかなかった」
「でしょう。水は光も反射します。目に光を当てることもできます」
「それは戦術的だな」
「あとは——」
セラはさらに紙を広げた。
「風向きを利用する方法と、影を使って位置を誤認させる方法と、声の反響を使って居場所をごまかす方法と——」
「セラ」
「なんですか」
「紙、何枚あるんだ」
「十二枚です」
「……」
「全部説明しますか?」
「……今夜中に終わるか?」
「終わります。三時間あれば」
「三時間!?」
「問題ありますか」
「ある!!」
リナが爆笑していた。
ルシェが「天使は変わってるな」という顔をしていた。
「……セラ、明日でいいか?」
「明日ですか……」
セラは少し考えた。
「分かりました。では明日、三時間確保してください」
「もう少し短くならないか?」
「……二時間五十分なら」
「十分しか変わってない!」
リナの笑い声が、宿の部屋に響いた。
夜。
四人で夕食を食べながら、リナが言った。
「今日は楽しかったですね」
「トマトが酸っぱかったです」
セラが真面目に言った。
「セラさんにとってそれが一番の出来事なんですね……」
「重要な記録です」
「ルシェさんは楽しかったですか?」
「……別に」
「リボン、似合ってましたよ」
「……うっさい」
ルシェはそっぽを向いた。
でもポケットに、リボンが入っているのを俺は知っていた。
「ハエルさんは?」
「俺は……」
俺は少し考えた。
「こういう日が、また来るといいなと思った」
「こういう日?」
「普通の一日。戦いでも、訓練でもなく」
リナは少しだけ、目を細めた。
「……また来ますよ。絶対に」
その言葉が、静かに胸に落ちた。
セラが静かに言った。
「……私も、そう思います」
ルシェは何も言わなかった。
でも、ポケットの中でリボンを握っている気がした。
炎が、静かに揺れた。
その夜の終わりに——
ふと、廊下から音がした。
かすかな、でも確かな音。
(……誰だ)
俺は気配を探った。
魔物でも、使者でもない。
でも——見覚えのある気配だった。
(ソロ……?)
窓の外を見た。
暗闇の中に、フードの影があった。
一瞬だけ、こちらを見た気がした。
次の瞬間には消えていた。
(……見に来たのか)
俺は窓から離れた。
(またな、ソロ)
心の中でそれだけ言って、布団に入った。
34話、読んでくださってありがとうございます。
今回は笑える場面を多めにしました。
セラのトマト。「酸っぱい。悪くない。記録します」。天使がメモを取る姿が可愛すぎました。
ルシェのリボン。「赤が好きなだけだ」。でもちゃんと買いました。ポケットに入れて、誰にも言いませんでした。
セラの十二枚の紙。三時間の予定が二時間五十分になった場面。セラの天然が全開でした。
そしてラストに、ソロが窓の外から四人を見ていた場面。何も言わずに消えた。でも——確かに見に来ていた。
次回、少し外の世界が動きます。
またお会いしましょう。




