三十一話 湯けむりの向こう
訓練が続く毎日の中で、
ルシェが突然言いました。
「休息も訓練のうちだ」
今夜だけは少し違います。
翌朝、訓練を終えた後だった。
「明日は休みだ」
ルシェが唐突に言った。
「休み? 訓練しなくていいの?」
「休息も訓練のうちだ。毎日詰め込んでも、体が闇を馴染ませる時間がない」
「……そういうものか」
「そういうものだ。闇は力技で制御するものじゃない。体に染み込ませるものだ。休んで、自然に馴染むのを待つ時間も必要だ」
セラが静かに頷いた。
「魔法の習得と同じですね。無理に詰め込むより、間を置いた方が定着する」
「……まあ、そういうことだ」
ルシェはそっぽを向いた。
「次の町に温泉があると聞いた。そこで一泊する。異論あるか」
「ない!」
リナが即座に言った。
「……私もありません」
セラも珍しく即答した。
俺は四人の顔を見て、笑った。
「俺もない」
「じゃあ決まりだ。明日は休め」
ルシェはそれだけ言って、荷物をまとめ始めた。
その背中が、いつもより少しだけ軽く見えた気がした。
次の町への道中、雨が降り始めた。
「……最悪だ」
ルシェが空を見上げて呟いた。
「雨、苦手なんですか?」
リナが傘を広げながら聞いた。
「苦手じゃない。濡れるのが嫌いなだけだ」
「同じじゃないですか」
「違う」
「どう違うんですか?」
「……苦手は弱点だけど、嫌いは好みの問題だ」
「……なるほど?」
リナはよく分からないという顔をしながら、ルシェに傘を差し出した。
「どうぞ。私はもう一つあるので」
ルシェはリナを見た。
「……魔族に傘を差し出す人間、初めて見た」
「そうなんですか?」
「そうだよ」
ルシェは少しだけ間を置いて、傘を受け取った。
「……もらっとく」
「どういたしまして!」
ルシェは前を向いた。
礼も言わなかった。
でも——傘をちゃんと使っていた。
それだけで十分だった。
セラが静かに言った。
「次の町まで、あと少しです。雨が強くなる前に着けます」
「温泉、本当にあるのか?」
ハエルが聞いた。
「ええ。この辺りは地下から温かい泉が湧き出る地域です」
「温泉……」
リナが目を輝かせた。
「入ったことないです!」
「天界にもありません」
セラが静かに言った。
「……あたしも」
ルシェが小さく言った。
「じゃあ四人とも初めてですね!」
「俺は一回だけ、父さんと——」
言いかけて、止まった。
(父さんと、一度だけ川の温泉に入ったことがある)
(「熱いな! でも気持ちいいぞ!」って大騒ぎしてた)
(そんな父さんが可笑しくて、二人で笑った)
「……ハエルさん?」
リナが覗き込んだ。
「……なんでもない。行こう」
俺は前を向いた。
宿に着いた。
古い木造の建物で、入口から既に硫黄の匂いが漂ってきた。
「……この匂いは毒ですか?」
セラが眉をひそめた。
「毒じゃないですよ! 温泉の匂いです!」
「温泉特有の匂いなんですか」
「そうです! 体にいいんですよ!」
「……信じます」
セラは真剣な顔で頷いた。
リナが笑いを堪えながら、宿の中へ入った。
宿の女将さんが笑顔で出迎えてくれた。
「いらっしゃい! 四人さんですか? 今日は貸し切り状態ですよ!」
「貸し切り!?」
「ええ。今日はお客さんが少なくて。ゆっくり使ってくださいな」
「やった!」
リナが小さくガッツポーズをした。
ルシェは「はしゃぎすぎだろ」という顔をしていたが、その口元が少しだけ緩んでいた。
部屋に荷物を置いた後、女将さんから説明があった。
「男湯と女湯に分かれていますが、今日は貸し切りなので、時間を決めてもらえれば女性の方が男湯を使うこともできますよ」
「じゃあ先に女性の時間にしましょう」
セラが即座に言った。
「そうですね!」
リナも頷いた。
「……あたしは後でいい」
ルシェが言った。
「えっ、なんでですか?」
「先に入りたい奴が入ればいい」
「でも一緒に入りましょうよ!」
「……一人がいいんだ」
ルシェは静かに、でもはっきり言った。
リナはしばらくルシェを見た。
何かを察したのか、それ以上は言わなかった。
「……分かりました。後でゆっくり入ってくださいね」
「……ああ」
ルシェは窓の外を見た。
雨が、まだ降り続けていた。
女性陣が先に温泉へ向かった後、俺とルシェは部屋で待っていた。
しばらく無言が続いた。
「……一人で入りたかった理由、聞いていいか」
「聞くな」
「ああ、ごめん」
「……」
また沈黙が続いた。
「村が壊滅した時の傷がある。それだけだ」
ルシェが、静かに言った。
「誰にも見せたくない」
「……ああ」
「だから聞くなって言った」
「うん」
「……それだけだ」
俺は頷いた。
それ以上は何も言わなかった。
ルシェも、それ以上は言わなかった。
ただ——二人で雨音を聞いていた。
その沈黙は、不思議と居心地が悪くなかった。
少ししてから、廊下でリナの声がした。
「きゃあ!?」
「どうした!?」
俺は思わず廊下に飛び出した。
すると——
濡れた髪を押さえながら、タオル一枚で廊下に立っているリナがいた。
「ハエルさん!?」
「え——」
「見ないでください!!」
リナが両手で胸元を押さえた。
その拍子にタオルがずれかけて——
「っ……!」
俺は反射的に顔を背けた。
「す、すみません! 脱衣所で転んで……荷物が廊下に……!」
「俺が取ってくる! どこにあった!?」
「あっちの棚の上に……!」
「目閉じてるから! 取ってくる!」
目を閉じたまま廊下を進んで、棚の上を手探りした。
服の入った袋に触れた。
「これか?」
「そうです……! ありがとうございます……!」
袋を渡して、俺は反対方向を向いた。
「……あの、ハエルさん」
「なに」
「見ましたか」
「見てない」
「本当に?」
「本当に」
少しの沈黙があった。
「……ありがとうございます」
「……ああ」
リナが脱衣所へ戻っていく足音がした。
俺は部屋に戻った。
ルシェが腕を組んで見ていた。
「見たのか」
「見てない」
「顔が赤いけど」
「湯気のせいだ」
「廊下にいただけで湯気を浴びるのか」
「……うっさい」
ルシェは小さく鼻で笑った。
笑い声を上げるんじゃなく、本当に小さく、鼻で。
それが余計に腹立たしかった。
男性の番になった。
露天風呂は、思っていたより広かった。
夜の星空が、湯気の向こうに見えた。
静かで、どこかぼんやりとした景色だった。
(父さんと入った温泉、こんな感じだったかな)
あの時は川の近くに湧いていた小さな温泉で、父さんが「ハエル、これはいいぞ! 明日も訓練できる!」と笑っていた。
「熱いくせに全身浸かってたんだよな、父さん」
声に出してしまってから、気づいた。
誰もいないのに声に出していた。
(……恥ずかしいな)
でも——不思議と悪くなかった。
声に出して呼ぶと、少しだけそこにいる気がした。
湯が、静かに揺れた。
星が、いつもより近く見えた気がした
温泉から上がると、廊下でセラが立っていた。
「どうでしたか」
「……良かった。体が軽い」
「そうですか」
「セラは?」
セラは少し間を置いた。
「最初、熱すぎると思いました」
「慣れた?」
「慣れました。でも……」
セラはわずかに目を細めた。
「なぜ人間はあんなに長く入れるんですか。あれは修行では?」
「修行じゃないよ。リラックスするためだよ」
「リラックスとは……あの状態を指すんですか」
「そうだよ」
「……不思議な文化ですね」
でも——その言い方は、嫌いじゃなさそうだった。
「セラ、顔色良くなってるよ」
「……お湯のせいです」
「そうかもしれないけど」
「そうです」
俺は笑った。
セラは廊下の先を見た。
(……なぜ、まだ堕天しないんだろう)
その問いが、また静かに浮かんだ。
でも今夜は——
珍しく、その問いが少しだけ遠かった。
(今夜だけは……いいか)
セラは小さく息をついて、部屋へ向かった。
夜。
四人で囲炉裏を囲んで、女将さんが持ってきてくれた夕食を食べた。
温かい鍋で、体の芯まで温まった。
「美味しい……」
リナがほうっと息をついた。
「ですね」
セラも珍しく、素直に言った。
「……うん」
ルシェも短く認めた。
俺は四人の顔を順番に見た。
(こういう夜も、あるんだな)
戦いも、訓練も、使者への緊張も——今夜だけは遠い気がした。
「ハエルさん」
リナが俺を見た。
「さっきは、ありがとうございました」
「いいよ、大したことじゃない」
「大したことです」
リナの頬が、湯上がりのせいかまだ赤かった。
「……どんまい」
ルシェが小声で俺に言った。
「何がだよ」
「見てないのに顔が赤かったくせに」
「湯気のせいって言っただろ」
「廊下の話だろ」
「……うっさい」
セラが静かに二人を見ていた。
「……何の話ですか」
「「なんでもない」」
俺とルシェが同時に言った。
セラは少し首を傾げた。
リナは何かを察したのか、顔をさらに赤くして鍋の方を向いた。
「お、おかわりどうですか!?」
「もらう」
「私も」
「……あたしも」
賑やかな夜が続いた。
どこかから、雨音が遠くなっていく音がした。
雨が、上がりかけていた。
その夜、床についた頃——
廊下をそっと歩く足音がした。
静かで、軽い足音。
ルシェだった。
少ししてから、温泉の方向から水の音が聞こえた。
一人でゆっくり入っているのだろう。
誰にも傷を見せないように。
俺は目を閉じた。
(……ルシェ)
(お前も、色々抱えてるんだな)
その思いを胸に、静かに眠りについた。
31話、読んでくださってありがとうございます。
温泉回でした。
廊下でのリナとの場面。見ていないのに顔が赤くなったハエルをルシェが「どんまい」と突っ込みました。今回のルシェは耳を赤くせず、小さく鼻で笑うだけ。感謝への反応もバリエーションをつけました。
セラが「修行では?」と言いながら、でも嫌いじゃなさそうだった場面。天界では知らなかったものに少しずつ触れています。
そして夜、一人でそっと温泉に入るルシェ。傷を誰にも見せたくない。それだけで十分でした。
次回、ソロが少し動きます。
またお会いしましょう。




