三十話 飼い慣らすということ
29話で、訓練が始まりました。
闇を出して引き戻す。
たったそれだけが、今のハエルには精一杯です。
今回は訓練が続きます。
そして——四人の日常が、少しずつ動き始めます。
二日目の訓練も、夜明け前に始まった。
「昨日と同じだ。闇を出して、引き戻す」
「……ああ」
「昨日との違いを意識しろ。出す時間を少しだけ長くする」
「長く?」
「昨日は出した瞬間に引き戻した。今日は三秒、そのまま保て」
「三秒……」
「できそうか」
「やってみる」
俺は目を閉じた。
昨日と同じように、闇の感覚に意識を向ける。
手の先に集中させる。
模様が浮かぶ。
一秒。
二秒。
「……っ」
三秒目に、闇が腕の方へ広がろうとした。
「引き戻せ」
ルシェの声が、すぐ近くで聞こえた。
怖いという感情を使う。
闇が手の先に戻った。
「……できた」
「ギリギリだったけどな」
ルシェはそう言いながら、俺の手を見た。
「昨日より長く保てた。進んでる」
「……そうか」
「そんな顔するな。これでいい」
「どんな顔してた?」
「足りないって思ってる顔」
俺は少し黙った。
「……早く制御したい。また誰かを傷つける前に」
ルシェは少し間を置いた。
「焦る気持ちは分かる。でも焦ったら逆効果だ」
「分かってるけど」
「分かってても、焦るよな」
ルシェはそっぽを向いたまま言った。
その言い方が、責めている感じじゃなくて、ただ認めているだけで——
少し、楽になった。
「……ありがとう」
「礼はいらないって言ってる」
「それでも言う」
「……どういたしまして」
ルシェは少し恥ずかしそうに答えた。
宿に戻ると、リナが薬草を並べて調合をしていた。
「おかえりなさい! 今日はどうでしたか?」
「昨日より少し長く保てた」
「わあ……! もう? 早いですね!」
「ルシェのおかげだよ」
「……別に大したことしてない」
ルシェが横を向いた。
「ルシェさん、これどうぞ」
リナが小さな瓶を差し出した。
「なに、これ」
「疲労回復の薬です。訓練の後に飲むと体の回復が早くなります」
「……あたしは魔族だから」
「魔族にも多分効きますよ。成分を調整してあるので」
ルシェは瓶を受け取って、まじまじと見た。
「……調整してあるって、どうやって」
「父から教わりました。魔族の体質に合う薬草の配合があって」
「魔族の薬まで作れるのか」
「まだ勉強中ですけど」
リナは少し照れくさそうに笑った。
ルシェはしばらく瓶を見て、やがて小さく飲んだ。
「……効く」
「よかった!」
「……なんで魔族の薬まで作れるんだ」
「困っている人を助けたいから、どんな人にも使える薬を作りたくて」
ルシェは少し黙った。
「……魔族も、困っている人に入るのか」
「当然じゃないですか」
リナはまっすぐ言った。
ルシェはそれ以上何も言わなかった。
でも、瓶をちゃんとポケットにしまった。
昼過ぎ。
セラが外から戻ってきた。
「ハエル、少し話があります」
「なに?」
「昨夜、天界との通信を試みました」
俺は背筋が伸びた。
「どうだった?」
「……応答はありました。でも」
セラは少し眉をひそめた。
「内容が、おかしかった」
「おかしいって?」
「命令だけがある。感情も判断もない。ただ機械的に命令を繰り返すだけで」
「前もそんな感じじゃなかったか?」
「前よりひどくなっています。上層部の声が、完全に平坦になっていた」
ルシェが静かに聞いていた。
「……天界、相当やばいな」
「ええ。神の影響が、さらに深くなっているかもしれません」
リナが不安そうに言った。
「……セラさん、大丈夫ですか?」
「私は大丈夫です」
セラは静かに答えた。
でも——その手が、わずかに握られていた。
俺はそれに気づいたけど、何も言わなかった。
(セラ……一人で抱えすぎるなよ)
「俺たちに何かできることあるか?」
「今は……ありません。ただ、状況が変わる可能性があります。何か動きがあればすぐに伝えます」
「分かった」
セラはそれだけ言って、窓の外を見た。
その横顔に、一瞬だけ——
曇りが見えた。
でも、すぐに表情を整えた。
夕食の時間。
リナが今日作ったのは、野菜の煮込みだった。
温かくて、どこか素朴な味がした。
「美味しい」
ルシェが今日は少し早めに言った。
「ありがとうございます!」
「……昨日より言うの早かったな」
セラが静かに言った。
「言ってない」
「言いました。昨日より早かったです」
「……気のせいだ」
ルシェは視線を皿に落とした。
リナが小さく笑った。
俺もつられて笑った。
「なんで笑ってんだ」
「いや……なんでもない」
「笑うな」
「笑ってない」
「笑ってる」
ルシェが俺を睨んだ。
でも、その目は怒っていなかった。
食事が終わった後、ルシェが言った。
「明日の訓練、少し内容を変える」
「どう変わるんだ?」
「闇を出しながら、体を動かす。静止してる状態で制御できたら、次は動きの中で制御する」
「難しそうだな」
「難しい。でも必要だ。戦闘中に静止してる余裕はないから」
「……そうだな」
「覚悟しとけ」
「ああ」
ルシェは立ち上がって、自分のいつもの壁際に戻った。
セラが俺の隣に来た。
「……ハエル」
「ん?」
「今日の訓練、セラから見てどうでした?」
「セラは見てなかっただろ」
「昨日の様子と、今日の顔色で分かります」
「……俺の顔色で?」
「昨日より、少し軽くなっています」
俺はその言葉に、少し驚いた。
「……そうか」
「少しずつ、進んでいます」
セラはそれだけ言って、自分の席に戻った。
その言葉が、胸に静かに温かかった。
その夜。
みんなが眠った後、俺は天井を見つめていた。
(闇を出して、引き戻す)
(毎日それだけを繰り返す)
地味で、苦しくて、でも確かに変わっている気がする。
その時——窓の外から、風に混じって何かが聞こえた気がした。
焚き火の音、みたいな。
錯覚だと分かっていた。
でも、父さんがよく言っていた言葉が蘇った。
「強くなるってのはな……守りたいものを守るために戦うってことだ」
(父さん)
(俺、ちゃんと出来てるかな?)
答えは返ってこなかった。
でも——
隣の壁際で、ルシェが静かに息をしている気配があった。
向こうの部屋で、リナとセラが眠っている気配があった。
(……いるな)
(みんな、ここにいる)
それだけで——今夜は、眠れる気がした。
30話、読んでくださってありがとうございます。
訓練二日目。昨日より三秒長く保てた。地味だけど、これが大事な一歩です。
リナがルシェに魔族用の薬を渡した場面。「困っている人を助けたいから」という言葉に、ルシェは何も言えなかった。でもちゃんとポケットにしまいました。
セラの天界通信の異常が、また少し悪化しています。そしてセラの「なぜ堕天しないんだろう」という問いが、一瞬だけ顔を出しました。
今回のラストは「みんないる」という静かな安心感で締めました。重い場面が続く前の、穏やかな一息です。
次回、訓練が動きの中へ移行します。
またお会いしましょう。




