二十八話 赤い髪の魔族
27話で、ハエルは初めて闇に呑まれました。
リナの声で、ギリギリのところで戻ってきた。
今回は、その翌朝の話です。
そして——ずっと屋根の上にいた「誰か」が、ついに動き出します。
朝が来た。
でも、俺は眠れていなかった。
天井を見つめたまま、昨日のことを何度も頭の中で繰り返していた。
(リナに……爪を向けた)
(あと少しで、本当に——)
起き上がる気にもなれなかった。
体は動く。痛みもない。
でも——心が、重かった。
しばらくして、扉が静かにノックされた。
「……起きてますか」
セラだった。
「起きてる」
扉が開き、セラが静かに入ってきた。
朝の光が、金色の髪を淡く照らしている。
「リナは?」
「まだ眠っています。昨日は相当消耗していたようなので」
「……そうか」
俺は目を閉じた。
リナの顔が浮かんだ。
あの時の目が。
「セラ」
「なんですか」
「リナ……俺のこと、怖がってるかな」
セラは少し間を置いた。
「……昨日、リナが最初に心配したのはあなたのことでした」
「俺のこと?」
「自分が怪我をしたのに、『ハエルさんは大丈夫ですか』と聞いていました」
俺は何も言えなかった。
「怖がっているかどうかは、リナ自身に聞くべきです。でも——」
セラは窓の外を見た。
「あの子は、あなたのことを信じています。それだけは確かです」
「……ありがとう」
「お礼を言われることでは——」
「言わせてくれ」
セラは黙った。
窓の外で、鳥が鳴いた。
その沈黙の中で、セラはふと自分の手を見た。
(……なぜ、まだ堕天しないんだろう)
昨日、神の使者を前にして、完全に規律に背いた。
ハエルを守るために。
なのに——何も起きない。
(変だ)
でも、その疑問は声にしなかった。
今は、ハエルの方が大事だった。
朝食の時間。
俺が部屋から出ると、リナはすでに席についていた。
顔を上げて、俺を見た。
「……おはようございます」
「おはよう」
俺はリナの目を見た。
怖がっているかどうか、確かめたかった。
リナの目は——普通だった。
いつものリナの、温かい目だった。
「昨日は……ごめん」
「謝らないでください」
「でも——」
「謝らないでください」
リナはもう一度、はっきり言った。
「怖かったのは本当です。すごく怖かった」
「……」
「でも——ハエルさんが戻ってきてくれた方が、ずっと大きいです」
その言葉が、胸に静かに落ちた。
「リナ」
「それより」
リナは表情を引き締めた。
「あの男、また来ますよね」
「ああ」
「じゃあ、また戦わなきゃいけない」
「そうだな」
「私……また足を引っ張るかもしれません」
リナの声が、少しだけ沈んだ。
「剣も魔法も使えないのに、ついていくのは——」
「リナがいなかったら、俺は止まらなかった」
リナは口を閉じた。
「リナの声が、俺を止めた。それは本当のことだ」
「……でも、それって——私じゃなくても」
「リナじゃなきゃ駄目だった」
断言した。
リナはしばらく黙って、やがて小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
その声は、まだ少し揺れていた。
でも——顔は、前を向いていた。
セラが静かに紅茶を置いた。
「リナ、飲んでください。疲労回復に効く薬草を入れました」
「セラさんが薬草……! 珍しいですね」
「私だって学べます」
「嬉しいです!」
リナが嬉しそうに紅茶を受け取った。
セラは「別に大したことではありません」と視線をそらしたが、その頬がわずかに赤かった。
午後。
俺は町の外れで、一人で剣を振っていた。
昨日の戦いを思い返しながら。
(どうすれば、あの力を制御できる)
(暴走せずに、闇の力を使えるようになるには)
剣を振るたびに、昨日の「気持ちいい」という感覚が蘇った。
あの感覚が、怖かった。
「……力みすぎ」
ふいに声がした。
誰もいない。
「上だよ、上」
見上げると、近くの木の上に人影があった。
赤い髪が、木漏れ日に揺れている。
「……お前」
「ようやく気づいたか」
少女は木から飛び降り、地面に音もなく着地した。
小柄な体。頭に、小さな角が覗いている。
昨日、屋根の上で見た影だった。
「昨日から見てたのか」
「まあね」
少女は腕を組んだ。
「フォームが悪い。力任せすぎる」
「……お前に関係ないだろ」
「関係あるよ」
少女はまっすぐ俺を見た。
「昨日の暴走、全部見てた。あの力、このままじゃいつか取り返しのつかないことになる」
「……分かってる」
「分かってて、どうするつもり」
俺は答えられなかった。
少女は少し考えるような顔をした。
「……お前の闇、変な気配がするんだよ」
「変な?」
「知ってる匂いに似てる。でも違う」
少女は眉をひそめた。
「それが気になって、昨日からずっと見てたんだ」
「……俺の闇が、お前の知ってる何かに似てるってこと?」
「似てるだけで、同じじゃない。でも——」
少女は言葉を切った。
「……放っておけなかった。それだけだ」
俺はしばらく少女を見た。
嘘をついている顔じゃなかった。
「……分かった。頼む」
「よし」
少女はにっと笑った。
「あたしはルシェ。魔族だ。よろしく」
「ハエル。人間だ」
「人間なのは見れば分かるって」
「魔族なのも見れば分かる」
ルシェは少し意外そうな顔をして、それからまた笑った。
「……言うじゃん」
「仲間に紹介しないといけない。来てくれるか」
「いいよ。どんな奴らか気になってたし」
宿に戻ると、セラとリナが部屋にいた。
「ただいま。紹介したい人がいる」
俺がそう言うと、後ろからルシェが入ってきた。
セラの目が、すっと鋭くなった。
「……魔族」
「……天使」
二人が同時に言った。
空気が、一気に張り詰めた。
リナが俺の袖をそっと引いた。
「ハエルさん……仲良くなれますか……?」
「……見守ろう」
セラが一歩前に出た。
「名前と、ここに来た理由を聞かせてください」
「ルシェ。魔族だ」
ルシェは腕を組んだまま、セラをまっすぐ見た。
「ハエルの闇の気配が気になって、昨日からついてた。あの暴走も全部見てた」
「……監視していたということですか」
「監視ってほど大げさなもんじゃない。様子を見てただけだ」
「それを監視と言います」
「……まあ、そうかもな」
ルシェはあっさり認めた。
セラが続けた。
「あなたを信用する理由が、今のところありません」
「あたしも天使を信用する理由がない。おあいこだ」
「では、なぜここに来たんですか」
「ハエルの闇を教えたい。あのままじゃ危ない」
「危ないと思うなら、関わらなければいい話です」
「……それができないから来てる」
ルシェの声が、少しだけ低くなった。
「あいつの闇の気配が、あたしの知ってるものに似てるんだ。それが気になって仕方ない」
セラは黙った。
その答えが嘘じゃないことは、セラにも分かった。
でも——すぐに頷くわけにはいかない。
「……少し時間をください。判断は後で」
「いいよ。急がない」
ルシェは肩をすくめた。
リナが二人の間に割って入った。
「はじめまして! リナといいます!」
ルシェは少し目を丸くした。
「……ああ。昨日の」
「見てくれてたんですよね。ありがとうございます」
「別に……何もしてないし」
「でも、見ててくれたんですよね」
「まあ……そうだけど」
ルシェが歯切れ悪く答えた。
「ありがとうございます。嬉しかったです」
ルシェはその言葉に、少しだけ固まった。
「……どういたしまして」
小さく、でもちゃんと言った。
リナがぱっと笑顔になった。
「ルシェさん、ご飯食べましたか? 今日のシチュー、多めに作ったので」
「え、あ……腹はそんなに——」
「一緒に食べましょう!」
「……まあ、少しくらいなら」
「やった!」
リナが台所へ向かった。
セラはその様子を黙って見ていた。
(……魔族にしては、悪意がない)
(でも、信用するのは早い)
セラはまだ判断を保留していた。
夕食。
四人でシチューを食べた。
リナのシチューは、温かくて少し甘かった。
「……美味しい....!!」
ルシェが思ったより素直に言った。
「よかった!」
「……甘いな」
「蜂蜜を少し入れてるんです。疲れてる時は甘めにするので」
ルシェはちらっと俺を見た。
「……そういう気遣いするんだ」
「当然じゃないですか!」
ルシェはそれ以上何も言わなかった。
でも、皿を空にしていた。
セラが静かに口を開いた。
「ルシェさん」
「なに」
「一つだけ聞かせてください」
「……なんだ」
「ハエルの闇を教えたい、と言っていましたね。でも——もしハエルが危険な存在だと判断したら、あなたはどうしますか」
ルシェは少し考えた。
「そん時はそん時だ」
「曖昧な答えですね」
「曖昧じゃない。今は危険じゃないから教える。それだけだ」
「今は、ということは——」
「先のことは先に考える。あたしはそういうやり方しかできない」
セラはしばらくルシェを見た。
「……正直な人ですね」
「嘘つくのが苦手なんだよ」
「ハエルと同じですね」
ルシェはちらっとハエルを見た。
「……そうか」
それだけ言って、視線を皿に戻した。
セラはその様子を見て、少しだけ警戒を緩めた。
まだ信用はしていない。
でも——嘘をつく魔族ではない、という判断はできた。
食事が終わった後、ルシェが言った。
「明日から訓練を始める。夜明け前に起きろ」
「早いな……」
「早い方がいい。人目が少ない時間の方が、闇の訓練はやりやすい」
「……分かった」
「あと——」
ルシェは少し言いにくそうにした。
「今日、ここで寝ていいか。こいつの様子を見ておきたい」
セラの目が鋭くなった。
「それは——」
「別に変な意味じゃない。暴走の後遺症が出ないか確認したいだけだ」
「……暴走の後遺症?」
「初めて暴走した後は、夜中に闇が不安定になることがある。その時に近くにいた方がいい」
セラは少し黙った。
その説明には、確かに理がある。
「……扉は開けたままにしてください」
「それは構わない」
「リナ、あなたは私と同室でどうですか」
「はい!」
セラとリナが隣の部屋へ向かった。
扉は開けたままだ。
ルシェは壁にもたれて目を閉じた。
俺は天井を見つめた。
「……なんで、本当にここにいるんだ」
「言っただろ。闇の様子を見るために」
「それだけか?」
ルシェは少し間を置いた。
「……お前の闇の気配、あたしの村に似てるって言っただろ」
「ああ」
「あたしの村は、もうない」
ルシェは目を閉じたまま、淡々と言った。
「騎士団に壊滅させられた。あたしだけが生き残った」
「……そうか」
「村が壊滅する時、長老が何かを残した。核の欠片みたいなものを。でも——その後、どこへ行ったか分からなかった」
「……それが、俺の闇に似てると」
「似てるだけで、同じかどうかは分からない」
ルシェはそこで少し黙った。
「でも——放っておけなかった。答えが知りたい。それがあたしがここにいる理由だ」
俺は黙って天井を見つめた。
「……つまり俺を調べにきたってこと?」
「そう言うと聞こえが悪いけど……まあ、そうだ」
「正直だな」
「嘘つくのが苦手なんだよ」
ルシェはそれだけ言って、口を閉じた。
「眠れないのか」
しばらくしてルシェが言った。
「……眠れない」
「昨日の暴走、まだ引きずってる?」
「ああ」
「あの感覚——気持ちよかっただろ」
「……ああ」
「それが怖いんだろ」
「怖い。また呑まれるのが」
ルシェの声が、少しだけ柔らかくなった。
「怖がるのは正しいよ」
「なんで」
「闇を怖いと思う感情が、歯止めになる。怖くなくなった時が一番危ない」
「……ルシェは、怖くないのか。自分の闇が」
ルシェは少し間を置いた。
「……怖いよ。ずっと怖い」
「なのに制御できてる」
「慣れたんだ。怖いまま、付き合い続けてる」
その言葉が、胸に静かに落ちた。
「怖いまま……付き合い続ける」
「そう。それだけだ」
ルシェは目を閉じた。
「寝ろ。明日は早い」
「……ああ」
俺は目を閉じた。
(怖いまま、付き合い続ける)
(それが、答えなのかもしれない)
窓の外で、風が鳴った。
隣で静かに息をしているルシェの気配が、不思議と落ち着いた。
28話、読んでくださってありがとうございます。
ルシェ、正式登場です。
「後味悪いじゃん」という理由で教えると言ったルシェ。
シチューのおかわりをちゃんと「ありがとう」と言えたルシェ。
セラに「思ったより意地悪じゃない」と言えたルシェ。
トゲはあるけど、根っこが優しい。そういう子です。
そして深夜の会話で、ルシェが「昔、似たような奴を見た」と言いました。
これが何を指しているのか、今はまだ分かりません。
でも——いつか分かります。
セラの「なぜ堕天しないんだろう」という問いは、今日も答えが出ませんでした。
次回、訓練が始まります。
またお会いしましょう。




