二十七話 なんだこれ、気持ちいい
26話で、ハエルは確かに成長していました。
でも——本当の試練は、これからです。
神の使者が再び現れます。
今度は、大切な人が狙われます。
ハエルの中の闇が、初めて完全に表へ出る話です。
次の町に着いて、二日が経った。
宿の窓から差し込む朝日が、いつもより眩しく感じた。
「今日はどうしますか?」
リナが伸びをしながら言った。
「町を見て回ろうかと思ってる。あの使者がまた現れるかもしれないし、警戒もしておきたい」
「私もついていきます!」
セラが静かに頷いた。
「……同行します。あの男の気配、まだ近くにあります」
朝食を済ませ、三人で町へ出た。
新しい町は、前の町より少し大きかった。
石造りの建物が立ち並び、人通りも多い。
「賑やかな町ですね」
リナが楽しそうに周囲を見渡す。
「ここなら、薬の材料も豊富にありそうです」
「リナ、また仕事のことか」
「だって職業病なんですもん!」
リナは笑いながら、市場の方へ視線を向けた。
「ちょっと見てきてもいいですか?」
「……気をつけて」
セラが言った。
「すぐ近くにいますから」
「はい!」
リナは軽い足取りで市場へ向かった。
俺とセラは、少し離れた場所からその様子を見守っていた。
市場は活気に満ちていた。
リナが薬草を選んでいる姿を、俺は遠くから眺めていた。
(あの時より、リナの動きが軽い気がする)
そう思った瞬間だった。
セラの体が、突然強張った。
「……っ」
「セラ?」
「気配が——」
セラの言葉が終わる前に、
市場の喧騒が、不自然に静まった。
人々のざわめきが、悲鳴に変わる。
「きゃああああ!!」
俺は反射的に、声のした方を見た。
市場の中心に、あの男が立っていた。
笑顔は——今日はなかった。
空洞の目だけが、まっすぐこちらを見ている。
「……来た」
「ハエル、私が前に——」
セラが言いかけた時、
男の視線が、ふっと動いた。
その先には——
リナがいた。
「……っ!?」
男が、リナへ向かって動いた。
速い。
今までとは比較にならない速さだった。
「リナ!!」
俺は走った。
でも——遠い。
距離が、絶望的に遠かった。
リナが振り返る。
男が、もう目の前にいた。
「あなたを狙う理由はありません。ですが——ハエルの行動を制限するには、ちょうどいい」
男の手が、リナへ伸びる。
「リナ、逃げろ!!」
俺の声は、間に合わなかった。
男の手が、リナの肩を掴んだ。
「きゃあああっ……!」
リナの体が、宙に浮く。
男が、軽くリナを投げ飛ばした。
リナの体が、石畳に叩きつけられる。
「リナ……!!」
俺は地面を蹴った。
リナの傍に駆け寄る。
「リナ、しっかりしろ……!」
リナは目を開けていた。
でも——息が苦しそうだった。
「ハエル……さん……」
「喋るな、今——」
「危ない……っ」
リナの目が、俺の背後を見た。
振り返ると、男がもう目の前にいた。
避ける時間はなかった。
男の拳が、俺の腹に深く突き刺さった。
「ぐああっ……!!」
衝撃で、視界が白く点滅した。
体が宙に浮き、地面を転がる。
(まずい……このままじゃ……)
立ち上がろうとした瞬間、
男はもう一度、リナへ向かっていた。
「リナ……!!」
声が出た。
でも体が動かない。
男の手が、再びリナに伸びる。
その瞬間——
何かが、俺の中で——弾けた。
「……っ」
視界が、急速に黒く染まっていく。
体の奥から、何かが溢れ出してくる。
熱い。
血が、沸騰しているみたいだった。
「な……んだ……これ……」
自分の声が、どこか遠くから聞こえる。
腕に、黒い模様が走る。
その模様が、燃えるように熱かった。
「ああ……」
力が、体の隅々まで満ちていく。
今まで感じたことのない感覚。
「あああ……力が……みなぎって……」
立ち上がる。
膝に力が入る。
さっきまで感じていた痛みが、まるで嘘みたいに消えていた。
「気持ちいい……っ」
声が、自分のものじゃないみたいだった。
笑っているのか、叫んでいるのか、自分でも分からなかった。
爪が、伸びていく。
セラの声が、遠くで聞こえた気がした。
「ハエル……!? まさか、もう——」
俺は、男の方を見た。
その目に——男の手が、まだリナに伸びている。
「……ッ!」
体が、勝手に動いた。
地面を蹴る感覚さえ、自分のものじゃない気がした。
気づいた時には、男の腕を掴んでいた。
「……速い」
男が、初めて声に動揺を滲ませた。
「これは——」
「うるさい」
俺はそのまま、男の腕をへし折った。
「ぐ……っ!?」
男が初めて、苦痛らしき声を上げた。
「あはっ……」
笑いが漏れた。
自分の声なのに、知らない感情だった。
(もっと……もっとだ……)
俺は男に向かって、連撃を叩き込んだ。
拳が、爪が、何度も男の体を捉える。
男はそれを避けようとしたが——届かなかった。
「速すぎる……っ、これは——演算が……追いつかない……」
男の声に、初めて焦りが滲んだ。
「神の予測を……超えている……?」
「うるさい、うるさい、うるさい……!」
俺は止まらなかった。
止め方が、分からなかった。
男を地面に叩きつける。
何度も、何度も。
「楽しい……もっと……もっと……っ」
理性が、どんどん溶けていく。
自分が何をしているのか、ぼんやりとしか分からなかった。
ただ——力を使うことが、気持ちよかった。
男がついに、地面に倒れ伏した。
光の粒子になって、その体が崩れ始めている。
「……後退します。今回は、想定外でした」
男はそれだけ言って、光となって消えていった。
静寂が戻った。
でも——俺の中の闇は、まだ収まらなかった。
「あ……」
獲物を探すように、周囲を見回す。
その目に——リナが映った。
地面に座り込んだまま、俺を見上げていた。
「ハエル……さん……?」
その声が、もう「敵」にしか聞こえなかった。
足が、勝手にリナの方へ向いた。
「ハエル、待って——!」
セラの声が、遠くに聞こえる。
光魔法が、放たれた。
でも——届かなかった。
俺の体は、もう完全に闇に呑まれていた。
爪が、伸びる。
「ハエルさん……」
リナの声が、震えていた。
止まらない。
止め方が、分からない。
爪を、振り上げた。
その時——
遠く、町の屋根の上。
一人の少女が、その光景を見ていた。
赤い髪。
小柄な体。
頭に、小さな角のようなものが覗いている。
「……マジか」
少女は、その爪を見つめていた。
(あの闇……本物だ)
(でも——今のままじゃ、あいつ取り返しのつかないことする)
少女の指が、わずかに動いた。
助けに入ろうか、迷っているように。
でも——動かなかった。
(……いや。あれは、あいつ自身が乗り越えなきゃいけないやつだ)
少女は、静かにその場で見守ることを選んだ。
爪が、振り下ろされようとした、その瞬間——
「ハエルさん……!」
リナの声が、響いた。
恐怖じゃない。
叫びでもない。
ただ——まっすぐな声だった。
「私は……大丈夫です……! だから……戻ってきてください……!」
その声が、闇の奥に、かすかに届いた気がした。
「……っ」
爪が、止まった。
「戻ってきて……! ハエルさん……!」
リナの目には、涙が浮かんでいた。
でも——その目に、恐怖はなかった。
ただ——信じる目があった。
「……っ……あ……」
頭の中で、何かが弾けた。
視界が、急速に晴れていく。
爪が、止まったまま——震えていた。
「……っ!?」
俺は、自分の手を見た。
爪が、リナの目の前で止まっていた。
ほんの数センチの距離で。
「あ……」
声が出なかった。
「俺……今……」
体が、震えた。
爪が、すっと引っ込んでいく。
闇の模様が、肌から消えていく。
俺は、その場に崩れ落ちた。
「リナ……俺、お前を……」
「大丈夫です」
リナが、震える声で言った。
「止まってくれました。ちゃんと——戻ってきてくれました」
「でも……あと少しで……」
「でも、止まりました」
リナはそれだけ言って、俺の手を握った。
その手は、震えていた。
でも——離さなかった。
「怖かったです。すごく……怖かった」
「……ごめん」
「でも」
リナは、まっすぐ俺を見た。
「最後は、ちゃんと止まってくれました。私の声、ちゃんと届きました」
その言葉が、胸に深く沈んでいった。
リナは少しだけ、視線を落とした。
「私……何もできないのに。剣も振れないし、魔法も使えない。なのに……声だけで、止められた」
「リナ……」
「不思議です。なんでだろう」
リナは小さく笑った。
でも、その笑顔の奥に、何か小さな影があるのを、俺は見逃さなかった。
セラが駆け寄ってきた。
「ハエル、大丈夫ですか」
「……分からない」
セラは俺の状態を確認しながら、静かに言った。
「……止まりました。完全に呑まれたと思いましたが」
「リナが……止めてくれた」
「ええ。見ていました」
セラは少し驚いた表情を浮かべていた。
「闇に完全に呑まれた状態から、声で引き戻された。これは……予想外です」
その仮説が、後でどれだけ重要になるか、
この時の俺たちは、まだ知らなかった。
屋根の上で、少女はその光景を見ながら、小さく息を吐いた。
「……止まったか」
少女の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「あの声で止まるなら——まだ大丈夫そうだな」
少女は立ち上がり、屋根を歩き出した。
(でも、次はどうなるか分からない)
(もう少し、近くで見ておくか)
少女の姿は、夕暮れの中に消えていった。
その存在に、まだ誰も気づいていなかった。
夜。
宿の部屋で、俺は天井を見つめていた。
リナの声が、まだ耳に残っていた。
「戻ってきてください」
その一言が、闇を止めた。
(俺は……一人じゃ、止められなかった)
(リナの声がなかったら……)
考えるだけで、体が震えた。
その時——
ふと、昼間のことを思い出した。
戦いの最中、誰かに見られているような気配があった気がする。
気のせいだと思っていた。
でも——
(……誰だったんだろう)
答えは出なかった。
窓の外で、風が鳴った。
その音に紛れて、誰かの足音が、屋根の上を遠ざかっていった気がした。
俺は、それに気づかなかった。
27話、読んでくださってありがとうございます。
ついに、ハエルが本格的に暴走しました。
「気持ちいい」という感覚に呑まれながらも、神の使者を圧倒する。
でもその力は、味方さえも区別しない、危険な力でした。
リナの声が、ギリギリのところでハエルを止めました。
これは偶然じゃないと思います。
リナとハエルの間にある、何か特別な繋がりが働いたんだと思います。
そして——遠くから、誰かが見ていました。
その正体は、まだ誰も知りません。
次回、その「誰か」が動き出します。
またお会いしましょう。
【作者からのお願い】主人公の闇暴走、いかがでしたでしょうか!「スカッとした!」「続きが気になる!」と思って cultural、下の【ブックマークに追加】や、画面最下部の【評価(★★★★★)】をポチッと押していただけると、今後の執筆の大きな励みになります!応援よろしくお願いします!




