二十話 その影を、まだ追わない
前話でセラが感じた魔族の残滓。
その正体は、まだ明かされません。
でも確実に、何かが近づいています。
日常の温かさと、消えない痛みと、静かな不穏を交互に読んでもらえたら嬉しいです。
朝市が立つ時間帯だった。
町の中央広場に、色とりどりの屋台が並んでいる。
焼いた肉の匂い、花の香り、どこかから漂ってくるパンの甘さ。
色んな気配と音が一気に押し寄せてくる。
「こっちです! 薬の材料、ここが一番質がいいんですよ!」
リナは慣れた足取りで人の波をすり抜け、俺たちを引っ張っていた。
「リナ……本当に慣れてるんだな……」
「地元みたいなものですから!」
リナは胸を張って笑う。
その姿は昨日より少し頼もしかった。
セラは人混みの端で立ち止まり、
壁のように広がる人の波を眺めていた。
「……情報量が、多すぎます」
「昨日も言ってたな、それ」
「昨日より多いです。
朝市は通常の三倍の密度があります」
「数えたの?」
「概算です」
リナが小声で俺に囁く。
「セラさん……また固まってますよ」
「そっとしておいてあげよう」
「聞こえてます」
セラは相変わらずだった。
リナが薬草の束を選んでいる間、
俺はぼんやりと広場を見渡した。
子どもが走り、老人が笑い、行商人が声を張り上げる。
父さんと暮らした森には、こんな光景はなかった。
(……父さんも、こういう場所が好きだったのかな)
そう思った瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
父さんのカレーの匂いを思い出した。
鼻歌を歌いながら鍋をかき混ぜる背中を思い出した。
指一本で木剣を受け止める、あの呆れるほど強い手を。
その瞬間——
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
痛みじゃない。
温度だ。
まるで誰かに、そっと抱きしめられたような——
(……父さん?)
錯覚だと分かっていた。
でも、その温度は本物だった。
「ハエルさん?」
リナが振り返る。
「……なんでもないよ」
「……無理しなくていいですよ」
リナはそれだけ言って、また前を向いた。
説明も聞かず、追及もせず、ただそれだけ言って。
(……不思議な子だな)
その背中が、どこか温かかった。
昼過ぎ。
三人で広場の端の石段に座り、リナが用意してくれた昼食を食べていた。
「セラさん、これどうぞ。甘いですよ」
リナが小さな蜂蜜パンを差し出す。
セラはじっとそれを見つめた。
「……甘い食物は、天界にありません」
「じゃあ初めてですか?」
「……そうなります」
セラは一口かじって、目を丸くした。
「……甘いとは、こういうことですか」
「そうです!」
「……不思議な感覚です」
リナが嬉しそうに笑う。
俺はその様子を見ながら、
胸の奥のざわつきが少しだけ薄れていくのを感じた。
(父さんがいなくても……俺、ちゃんと笑えてる)
その時だった。
「……っ」
セラが不意に手を止めた。
表情は変わっていない。
でも、その目が広場の奥を向いていた。
「セラ?」
「……昨日の気配です」
声は低く、俺たちにだけ届くように絞られていた。
「同じ残滓が、今日も漏れています。
昨日より……はっきりしている」
リナが息を呑む。
「近いんですか……?」
「……この広場の中にいます」
俺は思わず周囲を見渡しかけた。
「動かないで」
セラの声が制した。
「気づかれると逃げます。
今は……自然に食べ続けてください」
俺は無理やり視線を戻し、パンをかじった。
全然味がしない。
「魔物じゃないの?」
「違います。
魔物ではなく……魔族です。
しかもかなり若い」
「若い……?」
「核が不安定です。
意図して気配を漏らしているわけじゃない。
……抑えきれていないだけです」
リナが小声で言う。
「じゃあ……悪い人じゃないってこと?」
セラは少し間を置いた。
「敵意はありません。
むしろ——」
そこで言葉を切る。
(……怯えている。
逃げ回っている)
セラの表情が、わずかに曇った。
「ハエル。
さりげなく、広場の北側を見てください」
俺はゆっくり視線を動かした。
屋台と屋台の隙間。
人混みの端。
フードを目深に被った人影があった。
背が低い。
体が細い。
俯いたまま、人の流れに溶け込もうとしている。
でも——
首元に、何か金属のようなものが光った。
(首輪……?)
「見えました」
「そのまま視線を戻してください」
俺はパンに目を落とした。
「あれが……残滓の正体?」
「おそらく。
魔族の核を抑制するための首輪です。
ただ……限界が近い」
「限界って?」
「首輪の魔力が切れかけています。
核が漏れ出しているのはそのせいです」
リナが不安そうに俺の袖を掴む。
「その人……大丈夫なんですか?」
セラはリナを見た。
一瞬だけ、何かを確かめるような目で。
(……この子は、気配を感じていない。
魔族の核も、光の残滓も、何も。
なのに——)
「……大丈夫かどうか、気になるんですか」
「だって……辛そうじゃないですか」
セラは何も言わなかった。
ただ、リナの言葉が胸の奥に落ちていくのを、
静かに感じていた。
(……この子は、力で感じるんじゃない。
別の何かで、感じ取っている)
「追わないの?」
俺が聞くと、セラは静かに首を振った。
「今は動きません。
あちらは警戒しています。
下手に近づけば逃げる」
「でも……」
「また会います」
セラの声は静かで、でも確信があった。
「この町にいる限り、気配は追えます。
急ぐより……信頼関係を作る方が先です」
俺は広場の端に視線を向けた。
フードの人影は、もう消えていた。
人混みに溶けて、どこかへ消えてしまった。
(……どんな顔をしてるんだろう)
胸の奥が、理由もなくざわついた。
その時——
また、胸の奥が温かくなった。
さっきとは違う。
もっと淡くて、もっと遠い。
まるで「気をつけろ」と言われているような——
(……父さん?)
錯覚だ。
分かってる。
でも、その温度は本物だった。
夕方。
三人で宿に戻る道すがら、リナが呟いた。
「……あの人、怖くなかったんですか?」
「怖い?」
「魔族って……天界にも人間にも嫌われてるじゃないですか。
それでもこの町にいるって……よっぽど行くところがないか……」
リナは言葉を選ぶように続けた。
「……すごく、辛いんじゃないかなって」
俺は何も言えなかった。
リナの言葉が、胸の奥に静かに落ちていく。
(行くところがない……か)
父さんを失った朝のことを思い出した。
丘の上の墓の前で、どこへ行けばいいか分からなかったあの朝を。
(……俺も、あの時は行くところがなかった)
でも——
リナが手を差し伸べてくれた。
「ハエルさん?」
「……うん。
そうだな」
それだけ言った。
セラは黙って歩いていた。
でもその横顔は、いつもより少しだけ柔らかかった。
宿の部屋。
セラは窓の外を見つめていた。
夜の町に灯る小さな光を、静かに眺めている。
「セラ」
「……なんですか」
「あの人のこと、どう思う?」
セラは少し間を置いた。
「……判断するには、まだ情報が足りません」
「そうじゃなくて。
セラ自身が、どう感じたか」
セラの肩が、わずかに動いた。
「……私は天界の調査員です。
感情で動くべきではありません」
「それは分かってる。
でも聞いてるのは感想だよ」
セラはしばらく黙っていた。
窓の外で、風が吹く。
「……怖くなかったです」
その声は、いつもより少しだけ小さかった。
「あの気配は……怯えていました。
戦う意志も、傷つける意志も、なかった」
「うん」
「だから……」
セラはそこで言葉を止めた。
(だから……報告できなかった。
あの気配を天界に伝えたら——
処理される。
理由も聞かれずに)
その本音は、声にならなかった。
「……明日も、気配を追います」
「うん。一緒に行く」
セラは窓から視線を外し、
俺の方をちらりと見た。
「……あなたは、怖くないんですか。
魔族だと分かっていても」
俺は少し考えた。
「父さんは……堕天して、魔族になった。
でも父さんは、俺の父さんだった。
魔族だからって……怖いとか、思ったことなかったよ」
セラの金色の瞳が、静かに揺れた。
「……そうですか」
それだけ言って、セラはまた窓の外を向いた。
風が、カーテンを揺らした。
その夜。
セラは眠れなかった。
(ハエルの中の光の反応が……また少し変化している)
天界への報告期限は、着実に近づいている。
報告すれば——ハエルは処理対象になる可能性がある。
報告しなければ——セラ自身が天界の敵になる。
(どうすれば——)
答えは出なかった。
ただ、リナの言葉だけが頭の中でぐるぐると回っていた。
「すごく、辛いんじゃないかなって」
(……あの子は、何も見えていないのに。
なぜ——あんなに正確に、感じ取れるんだ)
セラには分からなかった。
ただ——
リナがそばにいると、ハエルの光の反応が安定することだけは、
はっきりと分かった。
(……この子たちを、守らなければ)
それだけが、今のセラの答えだった。
夜が、静かに更けていく。
どこか遠くで——
フードの人影が、夜の路地を歩いていた。
首輪が、かすかに軋む音を立てながら。
20話、読んでくださってありがとうございます。
今回はソロをまだ「気配と影」としてだけ登場させました。
顔も名前も出していません。
でも確実にそこにいます。
ハエルが感じた「胸の温度」。
あれがアスモスの深層コードの記憶です。
言葉じゃなく、温度として残っている。
まだハエル自身は気づいていません。
リナが「見えないのに感じ取れる」理由も、
今回そっと仕込みました。
後から読み返した時に気づいてもらえたら嬉しいです。
次回、影が少しだけ近づきます。
またお会いしましょう。




