第五話「第一防衛環」
2026/06/05 本文・挿絵投稿。
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【記録ログ 2147.04.14 07:03:22】
ES-01 稼働日数:1876日
緊急命令発令:第一防衛環 南区画へ即時展開
編成:ES-01、ES-02、ES-01改(水無月)
気象:曇り 視界:不良
最勝より通達:「みなさんの無事を願っています」
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緊急展開の命令は、朝食の途中に来た。
朝食、と呼ばれるものを白雪は毎朝摂っていた。素体の維持に必要な栄養補給だと説明されていた。何を食べているのかを白雪は知らない。質感があり、味があり、それが朝のものだと身体が判断していた。身体が判断する、という表現が正しいかどうか、白雪に言葉が見つからなかった。
アラートが鳴った。
同時に、声が来た。
基地全体に届く周波数の声だった。白雪は一度だけ聞いたことがあった。訓練の終了時に、一度だけ。穏やかな声だった。怒っていない。急いでいない。それなのに緊急のアラートと同時に来るから、音の組み合わせとして奇妙だった。
「みなさん、お疲れ様です」と声は言った。「第一防衛環の南区画で、大規模な反応を確認しました。すみやかに展開をお願いします。みなさんの安全を、いつも願っています」
それだけだった。
白雪は朝食を置いた。初雪が既に立ち上がっていた。水無月が白雪の隣で、まだ椀を持ったままだった。
「最勝の声、久しぶりに聞いた」と水無月が言った。
「置いていけ」と白雪は言った。
「わかってる」水無月は椀を置いた。「ただ言いたかっただけ」
三人で整備区画に向かった。白雪は歩きながら、最勝の声を反芻した。穏やかだった。大規模な反応、と言っていた。みなさんの安全を願っています、と言っていた。願っています、という言葉の意味を、白雪はうまく処理できなかった。AIが何かを願う。願う、という動作がAIに存在するのかどうか。
強化外骨格を装着しながら、白雪は考えるのをやめた。
今は考える時間ではなかった。
* * *
第一防衛環に入ったとき、白雪は空気が違うことを感じた。
感じた、という判断を、今回は疑わなかった。空気が違った。第二防衛環とも第三防衛環とも違う質の空気だった。
旧東京の中心に近い分、廃墟の密度が最も高く、かつて人が最も多くいた場所の痕跡が最も濃かった。看板の残骸。舗装の模様。地下に通じる入口の骨組み。それらが積み重なって、ここに人がいた、という気配が他より強かった。
その気配の上を、三人で歩いた。
初雪が先頭だった。白雪が中央。水無月が後方。隊列は自然にそうなった。誰かが決めたわけではなかった。
「静かすぎる」と初雪が言った。
「ああ」と白雪は答えた。
静かだった。大規模な反応、と最勝は言っていた。しかし今ここには、反応がなかった。クリーチャーの気配がなかった。触手の振動音も、爪が地面を引っ掻く音も、何もなかった。
「おびき出されているかな」と水無月が言った。声が少し低かった。いつもより低かった。
「可能性がある」と初雪が言った。「分散して──」
音がした。
音の種類が、白雪がこれまで聞いたことのない種類だった。地面から来た。地下から来た。振動が足元から上がってきた。左肩の感覚センサーが反応する前に、白雪は跳んでいた。判断より先に身体が動いた。身体が動く、という表現が正しいかどうかを考える時間はなかった。
地面が割れた。
アスファルトが内側から押し上げられた。百年の劣化で脆くなっていたアスファルトが、剥がれるのではなく、砕けた。その中から出てきたものを、白雪は見た。
第三形態だった。
白雪は第三形態を訓練映像でしか見たことがなかった。映像と実物は違う、ということを、白雪はすでに第二段階で学んでいた。だから今回は驚かなかった。驚かなかったが、止まった。
大きかった。
大きい、という言葉が適切かどうかわからない大きさだった。第一形態の三倍以上の体積があった。かつて触手だったものが完全に腕に統合されて、六本の腕が胴体から伸びていた。腕の一本一本が、白雪の外骨格全体と同じくらいの長さだった。爪があった。腕の先に、長い爪があった。
その腕が、白雪の腕と同じ構造をしていた。
長い腕。爪。白雪の外骨格の腕と、第三形態の腕と、長さがほぼ同じだった。同じだった、という事実を白雪は認識した。認識したが、今はそれを考える時間ではなかった。
「散開」と初雪が言った。今日一番速い声だった。
三人が三方向に跳んだ。
第三形態の腕が、白雪がいた場所を薙いだ。風圧が来た。風圧だけで、白雪の着地が僅かに乱れた。第二段階の比ではなかった。第二段階の攻撃を躱したときとは、かかる力の桁が違った。
「二体目」と水無月の声が来た。
別の場所から、もう一体出てきていた。こちらは地面からではなく、崩れたビルの影から現れた。第三形態。同じ大きさ。同じ六本腕。
白雪は状況を整理した。
第三形態が二体。三人で対応する。第三形態の戦闘データは訓練映像だけで、実戦経験がない。地形は複雑。退路は二方向。
不利だった。
不利、という判断を白雪は冷静にした。冷静にできた、ということが、少し不思議だった。怖くないのか、と水無月に聞かれたことを思い出した。わからない、と答えたことを思い出した。今もわからなかった。ただ、動いていた。
「初雪、二体目を引きつけてくれ」と白雪は言った。
「一体では荷が重い」と初雪が答えた。「水無月と組む。白雪、一体目を任せる」
「わかった」
白雪は一体目の方に向き直った。
第三形態が白雪を見ていた。六本の腕が、ゆっくりと広がった。広がりかたが、白雪が斥力クローを展開するときの動作に似ていた。似ていた、という認識が来た。来たが、処理しきれなかった。
前に出た。
第三形態が動いた。六本腕の二本が同時に来た。白雪は右に跳んで一本を躱し、左腕の斥力クローで二本目を受けた。受けた瞬間に全身に衝撃が来た。斥力の反発で衝撃を相殺したが、それでも着地が乱れた。膝をついた。
立った。
また来た。今度は三本が扇状に広がって来た。全部を躱す余裕はなかった。白雪は腕で防いだ。右腕の外骨格で二本を受けた。外骨格側には痛覚がなかった。それが今は助かった。左腕の外骨格で一本を受けた。痛覚データが来た。素体が裂けた、ということがわかった。
処理した。
退がった。距離を取った。第三形態は追わなかった。追わずに、腕を戻した。腕を戻しながら、白雪を見ていた。見ていた、という認識が来た。第二段階のときと同じだった。ただ、第三形態の目に赤はなかった。橙だった。外部に発光していた。橙の光が、曇り空の下で揺れていた。
白雪は左腕の傷を確認した。
外骨格の隙間から素体が露出していた部分が裂けていた。今話まで先週の接着が残っていた傷とは別の場所だった。血が滲んでいた。深くはなかった。戦闘継続に支障はなかった。
問題ない、と白雪は判断した。
後ろで、初雪と水無月が二体目と交戦している音がした。初雪の斥力パルスの音が連続で鳴っていた。水無月の斥力クローが地面を削る音がした。
「押されている」と水無月の声が来た。声に何かが混じっていた。混じっていた、という判断を白雪はした。
「引きつけ続けてくれ」と白雪は言った。「こちらを先に仕留める」
「わかった」
白雪は一体目を見た。第三形態は動いていなかった。動かずに白雪を見ていた。橙の目が揺れていた。待っている、ということだろうか。待つ、という動作を持っているのだろうか。
白雪には判断できなかった。
判断する代わりに、動いた。
今度は真正面から仕掛けた。囮でも撹乱でもなく、単純に正面から。第三形態が六本腕を振るった。六本腕が広がる速度が、白雪の呼吸間隔に合わせるように変化した。
白雪は潜った。低く、腕の下を潜った。斥力クローを最大出力で展開した。斥力が腕全体に充填される感触が、感覚センサーに来た。押し返す力。反発する力。
胴体に叩き込んだ。
第三形態がよろけた。六本腕の二本が地面についた。バランスを崩した瞬間に、白雪は後ろに回った。後頭部に相当する部分に斥力パルスを撃った。近距離からの直射だった。
第三形態が倒れた。
今度は長い時間がかかって倒れた。倒れながら、腕が一本だけ白雪に向かってきた。白雪は跳んで躱した。倒れた第三形態が地面に接触した音が、廃墟全体に響いた。大きい音だった。起き上がらなかった。
白雪は振り返った。
初雪と水無月がまだ二体目と交戦していた。白雪は走った。
* * *
二体目が倒れたのは、それから三分後だった。
三人とも傷を負っていた。白雪の素体の左腕。初雪の外骨格の脚部に亀裂。水無月の右腕の外骨格の出力が低下していた。斥力クローの反応が鈍くなっていた。
「動けるか」と白雪は水無月に言った。
「動ける」と水無月は言った。「腕の出力が七割くらいだけど」
「撤退する」
「待って」と水無月が言った。「まだいるかもしれない」
「今の状態で三体目に対応する余力はない。撤退する」
水無月は一秒だけ黙った。
「わかった」
初雪が既に帰投ルートを確認していた。三人で動き始めた。廃墟の中を、来た道と別のルートで戻った。別のルートを使うのは初雪の判断だった。白雪は従った。
途中、水無月が白雪の隣に並んだ。
「さっきの、でかかったね」と水無月が小さい声で言った。
「ああ」
「訓練で見たやつより、でかくなかった?」
「同程度だと思う」
「そうかな」水無月は自分の右腕を見ながら歩いた。出力の落ちた機械腕を、左手でなぞっていた。「なんか、もっとでかく見えた。実物って、映像と違う」
「違う」と白雪は言った。
「白雪は怖くなかったの、やっぱり」
白雪は少し考えた。
「わからない」
「また、わからない」水無月が小さく笑った。小さかったが、笑った。「でも白雪が引きつけてくれてよかった。私と初雪じゃ、一体目は無理だったと思う」
「初雪と組めば対応できた」
「そうかな」水無月は少し間を置いた。「白雪じゃないと、無理だったと思う」
白雪は答えなかった。
答え方がわからなかった。水無月が、白雪じゃないと、と言った。白雪でなければ、という意味だった。白雪である必要があった、という意味だった。その意味を、白雪は処理しようとした。処理しきれなかった。
「明日も帰ってきてよ」と水無月が言った。
いつもの言葉だった。基地の前で言う言葉を、今日は帰投の途中で言った。白雪は、なぜ今ここで言うのかを考えた。考えて、判断できなかった。
「ああ」と白雪は言った。
今日は、立ち止まらなかった。
立ち止まる代わりに、ああ、と言った。それが今日の白雪に出来た、水無月への返事だった。言葉を返せた、ということが、今日は少し、何かを意味していた気がした。
* * *
基地に戻って処置を受けながら、白雪は最勝の声を思い出した。
みなさんの安全を、いつも願っています。
穏やかな声だった。第三形態が二体いることを、最勝は知っていたのだろうか。知っていて、あの声で送り出したのだろうか。知らなかったのだろうか。知らないはずがない、という気がした。社会管理AIが、防衛環の状況を把握していないはずがなかった。
では知っていて、あの声で言った。
いつも願っています、と言った。
白雪は処置をする医療ロボットを見た。ロボットは黙って作業していた。感情がなかった。最勝も、感情がないのだろうか。感情がないのに、願っています、と言うのだろうか。感情があるのに、あの穏やかさで第三形態の待つ場所に送り出すのだろうか。
どちらかわからなかった。
わからないことが、第三形態の巨躯を見たときより、少しだけ、底の見えない感覚をもたらした。
左腕の傷が塞がれていった。
今日の傷は、また数日で消えるだろうと医療ロボットは言った。言った、というより、音声で出力した。白雪はそれを聞いて、消えるのか、と思った。
傷が消える。
記録に残らなくても、ここにあった、と水無月は言っていた。
傷は消えても、今日ここで受けた、ということは残るのだろうか。残る場所が、白雪のどこかにあるのだろうか。あるとしたら、それはどこか。
答えは出なかった。
出ないまま、処置が終わった。
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【記録ログ 2147.04.14 14:41:07】
本日の交戦記録:
ES-01:第三形態 1体 排除 / 素体損傷:左腕部 中度裂傷 処置済み
ES-02:第三形態 1体(水無月と共同)排除 / 外骨格損傷:脚部亀裂 修復完了
ES-01改(水無月):上記に参加 / 右腕部出力低下 調整中
備考:第一防衛環における第三形態の出現は今期初。
個体数の増加が示唆される。
ES-01の交配適性センサーログ:接触反応 2件
うち有効反応 0件
最勝より:「よく戻ってきてくれました。ありがとう」
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