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閾の郭(いきのくるわ)  作者: 丸介
第一章「駆逐」

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3/17

第三話「水無月」

2026/06/03 本文・挿絵投稿。

────────────────────────


【記録ログ 2147.03.25 06:14:03】

 ES-01 稼働日数:1856日

 本日の任務:第三防衛環 北区画 通常哨戒

 編成:ES-01、ES-01改(水無月)

 備考:ES-02は整備のため待機。


────────────────────────



 水無月はよく喋った。


 白雪と二人での哨戒は、初雪と二人のときとは音の量が違った。初雪との哨戒は静かだった。水無月との哨戒は、静かにならなかった。それが良いことなのか悪いことなのか、白雪にはわからなかった。ただ、水無月の声があると、廃墟の音の質が変わる気がした。足音が遠くならなかった。


 「ねえ、白雪ってさ」水無月が言った。「最初に戦ったとき、何を考えてた?」


 「最初、というのはいつのことだ」


 「配属されて、最初に出撃したとき」


 白雪は少し考えた。


 「覚えていない」


 「え、本当に?」


 「動作確認をしていたと思う」


 「動作確認」水無月は繰り返した。呆れているのか感心しているのか、白雪には判断できない声だった。「私はめちゃくちゃ怖かったよ。手が震えた。斥力(リパルション)クローの出力が安定しなくて、整備士に怒られた」


 「震えは感情の反応か、センサーの誤作動か」


 「感情だと思う。たぶん」水無月は笑った。「白雪は震えたことないの?」


 「ない」


 「そっか」


 水無月はそれ以上聞かなかった。否定でも肯定でもない、そっか、だった。白雪はその言葉の温度を少しの間、処理した。責めていない。羨んでもいない。ただ、受け取った、という言葉だった。


 受け取る、という動作の意味を、白雪はうまく言葉にできなかった。


 * * *


 北区画は第三防衛環の中でも建物の残存率が高かった。


 かつてはマンションが密集していたらしく、外壁の崩れた建物が何棟も並んでいた。百年の雨風に削られて、コンクリートの表面が砂のようになっていた。触れると崩れる壁が、それでもまだ立っていた。立っていることに、理由はないのだと白雪は思った。ただ、まだ崩れていないだけだった。


 「あれ、何だと思う?」水無月が立ち止まった。


 視線の先、マンションの外壁に、色の剥げた何かが描かれていた。雨に流され、百年の劣化を経ても、輪郭だけが残っていた。人の形をしていた。いや、人の形をしていたものの輪郭が、残っていた。


 「壁画か」と白雪は言った。


 「そう。落書きかな、それとも誰かが描いたのかな」水無月は立ったまま、それを見ていた。「百年前の人が描いたやつ、たまに残ってるよね。この辺」


 「記録にはない」


 「記録にないものが残ってる。なんか、いいよね」


 白雪は水無月の横に並んで、同じものを見た。輪郭だけが残った人の形。描いた者の意図はわからない。残ることを意図していたかもしれないし、していなかったかもしれない。百年後に誰かに見られることを、知らなかったはずだった。


 「なぜいいのか」と白雪は聞いた。


 「うーん」水無月は少し考えた。「記録に残らなくても、ここにあった、ってことが証明されてる感じ? 誰かがここにいて、何かを描いた。それだけで十分な気がして」


 記録に残らなくても、ここにあった。


 白雪はその言葉を、処理しようとした。処理しきれなかった。処理しきれないことが、最近少し増えていた。


 「行くぞ」と白雪は言った。


 「うん」水無月は最後にもう一度だけ壁を見て、歩き始めた。


 * * *


 哨戒の折り返し地点は、旧・荒川沿いの堤防だった。


 川はまだ流れていた。水の色は濁っていたが、流れていた。百年前と同じかどうかはわからなかったが、流れていた、という事実だけがあった。堤防の上に並んで、川を見下ろした。水無月が背伸びをした。関節の鳴る音がした。


 「初雪って、何考えてるかわからなくない?」と水無月が言った。


 「わからない」と白雪は答えた。


 「白雪はわかる?」


 「わからない」


 「同じ答えだ」水無月が笑った。「でも白雪のわからないと、私のわからないって、たぶん種類が違う」


 「どう違う」


 「私は初雪が怖いからわからないって思う。白雪はたぶん、純粋にわからないから、わからないって言う」


 白雪は少し考えた。


 「怖いとはどういうことか」


 「なんか、全部見透かされてる感じがするんだよね」水無月は川を見ながら言った。「私が何を考えてるか、全部知ってて、何も言わない感じ。それが怖い」


 「知っていて言わないのか、知らないのか、どちらかわからないだろう」


 「わからないからこそ怖いんだよ」


 白雪は初雪のことを考えた。一定の間隔を保って歩く初雪。隙を作るな、とだけ言った初雪。白雪が止まった理由を聞いて、答えが返ってこなくても、それ以上聞かなかった初雪。


 知っていて言わない、という水無月の言葉が、引っかかった。


 「白雪はさ」と水無月が続けた。「初雪のこと、怖いと思う?」


 「思わない」


 「なんで?」


 「隣にいる」と白雪は言った。


 水無月が白雪を見た。白雪は川を見ていた。


 「隣にいる、から怖くない?」


 「怖い相手は隣にいない」


 水無月はしばらく黙っていた。川の音だけがあった。濁った水が、堤防の下を流れていた。


 「そっか」と水無月が言った。さっきと同じ温度の、そっか、だった。「じゃあ私も怖くないか」


 「お前は怖くない」


 「どうして」


 「隣にいるから」


 水無月がまた笑った。今度は声に出して笑った。廃墟の中で、その音だけが違う質を持っていた。吸い込まれずに、空に散った。


 「白雪ってさ」水無月が笑いながら言った。「たまにすごいこと言うよね」


 「何がすごいのかわからない」


 「それがすごいんだよ」


 白雪にはやはり判断できなかった。ただ、水無月の笑い声が、今日は少し長く耳に残った。残った、という感覚が、新しかった。


 * * *


 基地への帰路、水無月が急に立ち止まった。


 「ねえ」と言った。声の温度が少し変わっていた。


 「何だ」


 「白雪って、水無月って名前、変だと思う?」


 白雪は少し考えた。


 「変とはどういう意味か」


 「白雪とか初雪とか、雪が付く名前が多いじゃない。私だけ、月、なんだよね。水の無い月、って書いて水無月。なんか、仲間外れみたいじゃない?」


 「命名規則の違いだ。強化外骨格(エグゾフレーム)の型が異なる」


 「知ってる。でも」水無月は少し間を置いた。「たまに思うんだよね。私だけ、何か違う気がして」


 白雪は水無月を見た。水無月は自分の右腕を見ていた。斥力クローの格納された機械腕を、左手の指でなぞっていた。白雪がいつも左腕にするのと、同じ動作だった。


 「白雪はさ」水無月が顔を上げた。「私のこと、仲間だと思う?」


 白雪はすぐに答えなかった。


 仲間、という言葉を処理した。定義を確認した。共に戦う者。同じ目的を持つ者。しかしそれだけではないような気がした。仲間、という言葉には、定義の外側に何かがある気がした。


 「思う」と白雪は言った。


 「どうして」


 「隣にいるから」


 水無月がまた笑おうとした。しかし今度は笑い切れなかった。笑い切れない顔のまま、白雪を見ていた。茶色の目が、夕方の光を受けていた。


 「ありがとう」と水無月が言った。


 白雪はその言葉の返し方を知らなかった。ありがとう、に何を返すのが正しいのか、マニュアルにはなかった。


 だから何も言わなかった。


 何も言わないことが、今日は少し、苦しかった。苦しい、という言葉が正しいかどうかは判断できなかった。ただ、返す言葉を持っていないことが、何かを欠いているように感じた。感じた、という以上にはならなかった。


 二人で歩いた。水無月は何も言わなかった。白雪も何も言わなかった。川の音が遠ざかって、代わりに基地の発電機の音が近づいてきた。


 基地の入口で、水無月が先に入った。振り返らなかった。


 白雪は入口の前で一秒、立ち止まった。


 理由はわからなかった。ただ、立ち止まった。


 * * *


 夜、整備を終えた後、白雪は一人で通路に座っていた。


 左肩の傷の接着が馴染んできていた。傷があった場所が、もうわからなくなりつつあった。傷が消える、ということが、何かを意味している気がした。何を意味するのかは、言葉が見つからなかった。


 水の無い月、と書いて水無月。


 名前の意味を、白雪は今日初めて考えた。水が無い月。満ちることがない。あるいは、満ちているのに水を持たない。どちらの解釈が正しいのかわからなかった。どちらでもない気もした。


 仲間だと思う?と水無月は聞いた。


 思う、と白雪は答えた。


 それは正しかったか。答えとして正しいかどうかではなく──本当のことだったか。白雪は確認した。確認して、正しかった、と思った。思った、ということが、今日は少し確かだった。


 ありがとう、と水無月は言った。


 白雪は何も言えなかった。


 言えなかった、ということが、今日も引っかかり続けていた。言葉を持っていなかっただけで、何かを返したかったのかどうか──そこまでは、まだ言葉が見つからなかった。


 右腕で、左肩をなぞった。


 今日は傷のあった場所を、確かめるようになぞった。もう傷はなかった。なかった、ということだけがあった。


 通路の奥から、足音がした。


 初雪だった。整備を終えたらしく、外骨格の一部を外した状態だった。白雪を見て、一瞬だけ止まった。それから何も言わずに、白雪の隣に座った。


 二人で通路に座った。何も言わなかった。


 初雪が、自分の肩の外骨格基部(エグゾシェル)の表面を指でなぞっていた。左右対称に、同じ回数。白雪は見ていたが、見ていることを意識しなかった。


 「水無月と哨戒だったか」と初雪が言った。


 「ああ」


 「どうだった」


 白雪は少し考えた。


 「賑やかだった」


 「そうか」


 初雪はそれ以上聞かなかった。白雪も言わなかった。賑やかだった、という言葉の中に、壁画のことも、川のことも、水の無い月のことも、言えなかったありがとうのことも、全部入っていた。


 初雪がそれを聞かなかったことが、今日は少し、ありがたかった。


 ありがたい、という言葉を使ったことが、白雪には新しかった。



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【記録ログ 2147.03.25 21:30:17】

 ES-01 本日の交戦記録:

  交戦なし

  交配適性センサーログ:接触反応 0件

 備考:統合不全ノイズ、本日は軽減傾向。

    原因不明。

    ES-01改(水無月)との行動時間:6時間12分。

    相関関係について調査継続。


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【挿絵:クリーチャー_第二段階】

挿絵(By みてみん)

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