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閾の郭(いきのくるわ)  作者: 丸介
第一章「駆逐」

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第二話「摩耗」

2026/06/02 本文・挿絵投稿。

────────────────────────


【記録ログ 2147.03.18 05:02:11】

 ES-01 稼働日数:1849日

 本日の任務:第二防衛環 南東区画 哨戒

 気象:曇り 視界:やや不良

 備考:ES-02と二人一組での展開。


────────────────────────



 第二防衛環は、第三よりも静かだった。


 静かさの質が違う、と白雪は思った。第三防衛環は音がない静かさだった。第二は、音を吸い込む静かさだった。建物の密度が高く、かつての都市機能の中枢に近いぶん、廃墟の重なり方が深かった。

 白雪たちの足音が反響して、少し遅れて返ってくる。自分の足音が自分を追いかけてくるような感覚だった。感覚、という言葉が正しいかどうかは、相変わらずわからなかった。


 初雪が斜め前を歩いている。


 二人の間隔は常に一定だった。白雪が速くなると初雪も速くなる。白雪が止まると初雪も止まる。訓練の結果なのか、初雪の性質なのか、白雪には区別がつかなかった。ただ、一定の間隔が保たれ続けることが、白雪には少し──何かを感じさせた。何かが、という以上に言葉にならなかった。


 「水無月が羨ましいと言っていた」と白雪は言った。


 「何を」


 「第二防衛環への展開を。第三ばかりで飽きたと」


 初雪は答えなかった。しばらく歩いてから、「第二は第三より危険だ」とだけ言った。


 「知っている」


 「水無月も知っているはずだ」


 「知っていて言っている」


 初雪はそれ以上何も言わなかった。白雪も言わなかった。水無月がなぜそういうことを言うのか、白雪にはよくわからなかった。危険な場所を羨む理由が、論理として組み立てられなかった。ただ、水無月がそう言うとき、その声には何か──余分なものが混じっていた。余分、という言葉が正しいかどうかもわからなかったが、他に言葉がなかった。


 * * *


 センサーが異常を察知したのは、旧・渋谷区に差し掛かったあたりだった。


 かつて巨大なターミナル駅があったらしい場所で、地下構造が複雑に残っていた。地上からでは見えない空間が幾重にも重なっていて、そこからときおり、空気の動きが変わる。白雪の感覚センサーが微細な振動を拾った。


 「初雪」


 「気づいている」


 初雪がすでに強化外骨格(エグゾフレーム)の右腕を構えていた。白雪も右腕の機構を展開した。金属の擦れる音が路地に響いた。


 最初に動いたのは影だった。


 廃ビルの二階、窓枠の消えた開口部に、それはいた。クリーチャー第二段階。白雪は訓練映像で一度だけ見たことがあった。しかし映像と実物は違った。映像には匂いがなかった。


 頭部から伸びた触手が、ゆっくりと揺れていた。風ではなかった。自律した動きだった。空気を読んでいるのか、振動を拾っているのか──触手の先端が白雪の方向を向いた瞬間、白雪は自分が捕捉された、と理解した。


 「散開」と初雪が言った。


 白雪は左に跳んだ。初雪が右に走るのが視界の端に映った。直後、第二段階が二階から飛び降りた。音がなかった。あれだけの質量が落下したのに、着地の音がなかった。白雪は跳んだ先の瓦礫に膝をついて振り返った。


 それは立っていた。


 訓練映像で見たとおりの形をしていた。灰色の皮膚。露出した胸部の骨格。長い腕。しかし映像で見たときには気にならなかったことが、実物の前では気になった。


 腕の長さが、白雪の腕の長さと似ていた。


 素体(コアヴェッセル)と強化外骨格。それを足した腕の長さと、目の前のそれの腕の長さが、ほぼ同じだった。なぜそれが気になったのか、白雪にはわからなかった。わからないまま、斥力(リパルション)パルスを放った。


 第二段階は避けた。


 第一段階には出来ないことだった。上半身をわずかに傾けて、外骨格の掌の軌道から外れた。反射ではなく、予測だった。白雪の射線を読んでいた。


 触手が動いた。


 収束するような動きだった。一本が地面を叩き、振動が広がる。白雪の足元の感覚センサーが反応した。距離を測っている、と白雪は判断した。次の攻撃のための測距だった。


 白雪は前に出た。


 距離を詰めることが正しいかどうか、判断する時間はなかった。ただ、遠距離で射線を読まれ続けることの方が不利だ、という計算だけがあった。右腕の外骨格を近接モードに切り替えながら走った。


 第二段階がこちらを向いた。


 目が合った。


 赤かった。第一段階と同じ赤だった。しかし第一段階の赤とは質が違った。第一段階の赤は、ただそこにあった。第二段階の赤は──こちらを見ていた。見ている、という動作を、意志を持ってやっていた。


 第二段階もまた、一瞬だけ動かなかった。


 一秒にも満たない停止だった。白雪も止まっていた。止まった理由が白雪にはわからなかった。足が止まった、という事実だけがあった。赤い目がこちらを見ていた。白雪の赤い目が、それを見ていた。


 初雪が横から走り込んだ。


 右腕の斥力クローが第二段階の側面を捉えた。第二段階がよろけた。痛覚があるのか、バランスを崩しただけなのか、白雪には判断できなかった。初雪が間合いを取りながら言った。


 「隙を作るな」


 それだけだった。理由はなかった。白雪は頷かなかった。頷く代わりに右腕を構え直した。


 第二段階が態勢を立て直した。触手が広がった。今度は一本ではなく、全ての触手が同時に動いた。索敵ではなかった。白雪と初雪の両方の位置を同時に把握しようとしていた。二対一の状況を理解していた。


 理解している。


 白雪はその事実を、戦闘の中で処理した。感想はなかった。ただ、第一段階とは戦い方を変えなければならない、という計算だけが動いた。


 「囮になる」と白雪は言った。


 「わかった」と初雪が即座に答えた。


 白雪は正面から仕掛けた。射撃ではなく、近接だった。第二段階の注意を引きつけながら、回避を繰り返した。第二段階の攻撃は速かった。長い腕が伸びるたびに、白雪は跳んだり屈んだりした。一度、触手の先端がかすった。素体の左肩だった。皮膚が裂けた。痛覚データが来た。


 処理した。


 初雪が死角から斥力パルスを撃った。第二段階の頭部に命中した。第二段階がよろけた。白雪がすぐに畳み掛けた。右の斥力クローが展開した。第二段階の胸部に叩き込んだ。


 それは倒れた。


 今度は第一段階のときのように長くは見なかった。左肩の裂傷から血が滲んでいた。傷は浅かった。止血処置を施しながら、白雪は立ち上がった。


 「問題ない」と白雪は言った。


 初雪が近づいてきた。左肩の傷を見た。一秒見た。それから目を上げて、白雪の顔を見た。


 「止まった」と初雪が言った。


 「ああ」


 「なぜ」


 白雪は少し考えた。考えた、というより、答えを探した。答えは見つからなかった。


 「わからない」


 初雪はそれ以上聞かなかった。白雪も説明しなかった。説明できるものがなかった。ただ、目が合ったとき、何かが引っかかった。それが何だったのか、戦闘が終わった今も、わからないままだった。


 記録には書かなかった。書き方がわからなかったから。


 * * *


 基地に戻ったのは昼過ぎだった。


 医療ロボットが左肩の処置をした。縫合ではなく、接着剤のようなもので傷口を塞いだ。素体の皮膚の修復には数日かかる、とロボットは言った。言った、というより、音声で出力した。そこに感情はなかった。白雪も感情を返さなかった。ありがとう、と言う理由がわからなかった。


 「白雪」


 水無月だった。左肩の処置を受けている白雪の隣に、椅子を引いて座った。傷口を見て、眉を寄せた。眉を寄せる、という動作の意味を、白雪は知っていた。ただ、なぜそういう顔をするのかは、よくわからなかった。


 「第二段階に会った?」


 「ああ」


 「どうだった」


 白雪は少し考えた。


 「速かった。射線を読む」


 「それだけ?」


 「触手で測距する。二対の相手を同時に把握できる」


 水無月は頷いた。頷きながら、白雪の左肩を見ていた。処置が終わった肩を、自分の手でそっと触った。いつもの癖だった。温かい、と言いたいのだろうと白雪は思った。今日は言わなかった。


 「怖くなかった?」と水無月が聞いた。


 白雪は答えなかった。答えがないわけではなかった。答えが、出てこなかった。


 「わからない」と、しばらくして言った。


 「わからない、か」水無月は繰り返した。否定でも肯定でもない繰り返し方だった。「私はちょっと怖かったよ、最初に第二段階と会ったとき。映像で見てたのに、全然違った」


 「何が違った」


 「目が違った」水無月は少し間を置いた。「見てくるじゃん、ちゃんと。第一段階は見てない感じがするけど、第二は、こっちを、見てる」


 白雪は何も言わなかった。


 見てくる。水無月の言葉が、胸のあたりに引っかかった。さっき目が合ったときのことを思い出した。赤い目。止まった自分。初雪の「隙を作るな」という声。


 「白雪はわからないって言うけどさ」水無月が続けた。「わからないって言えるってことは、何かは感じてるってことじゃない?」


 「……そうかもしれない」


 「そうだよ」水無月は断言した。白雪が驚くくらい、はっきりと言った。「絶対そうだよ」


 白雪は水無月を見た。水無月は白雪を見ていた。茶色の目が、照明灯の光を受けていた。白雪には、その目が何かを訴えているように見えた。訴えている、という言葉が正しいかどうかはわからなかった。ただ、何かがそこにあった。


 「明日も第二防衛環だ」と白雪は言った。


 「え、そうなの」水無月が顔を上げた。「私は第三だけど」


 「そうか」


 「ずるい」水無月が笑った。口の端が上がって、目が細くなった。「やっぱり第二行ってみたいな。第二段階と戦ってみたい」


 「危険だ」


 「わかってる」


 「わかっていて言っているのか」


 「うん」水無月は笑ったままだった。「白雪が行けるんだから、私も行けるでしょ」


 白雪は答えなかった。


 水無月の論理は正しくない、と白雪は思った。白雪が行けることと、水無月が行けることは、別の問題だった。しかし、なぜそれを訂正しようとする気になれないのか、白雪にはわからなかった。


 水無月が立ち上がった。


 「今日も帰ってきたね」といつもの言葉を言った。


 白雪は答えなかった。


 今日は、立ち止まることもしなかった。


 水無月が去った後、白雪は処置が終わった左肩を見た。接着剤で塞がれた傷口は、もう血が出ていなかった。傷がある、という感覚だけが残っていた。右腕で、その傷口の横をなぞった。傷口には触れなかった。なぜ触れなかったのかを考えたが、答えは出なかった。


 怖くなかったか、と水無月に聞かれた。


 わからない、と答えた。


 目が合ったとき、何が起きていたのか。自分の中に何があったのか。白雪には言葉がなかった。ただ、赤い目が、こちらを見ていた。見ていた、ということだけが、引っかかり続けていた。


 右腕で、もう一度だけ左肩をなぞった。


 今日は、なぜそうするのかが少しだけわかった気がした。気がした、という以上にはならなかった。



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【記録ログ 2147.03.18 18:55:43】

 ES-01 本日の交戦記録:

  第二段階 1体 排除

  ES-01素体損傷:左肩部 軽度裂傷 処置済み

  交配適性センサーログ:接触反応 1件

  うち有効反応 0件

 備考:統合不全ノイズにより計測値不安定。

    接触時の行動異常(約0.8秒の戦闘停止)を記録。

 原因:調査中。


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【挿絵:クリーチャー_第一段階】

挿絵(By みてみん)

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