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閾の郭(いきのくるわ)  作者: 丸介
第一章「駆逐」

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第一話「定常」

2026/06/01 本文・挿絵投稿。

────────────────────────


【記録ログ 2147.03.11 04:17:32】

 ES-01 稼働日数:1842日

 戦闘出撃回数:437

 交配適性スコア:[記録抹消]

 廃棄予定日:[未定]

 備考:統合不全により換装不可。運用継続中。


────────────────────────



 朝の第三防衛環は静かだった。


 静か、という言葉が正しいかどうか、白雪(しらゆき)にはわからない。音がないわけではない。巡回ロボットの駆動音が遠くで鳴っている。風が、かつて看板だったものの残骸を揺らしている。

 ただ、人の気配がない。それを静かと呼ぶのかどうか、誰かに聞いたことがなかった。


 外骨格の右足が舗装の割れ目を踏んだ。感触はない。フィードバックが来ないからではなく、そういう設計だからだ。戦闘中に余分な情報は要らない、とマニュアルには書いてある。

 白雪はマニュアルを読んだことがなかったが、整備士が一度そう言っていた。


 素体(コアヴェッセル)には感触がある。


 コンクリートの粉塵が風に乗って肌をかすめると、冷たい、と思う前に感覚データとして処理される。思う、という段階があるかどうかも、白雪にはよくわからない。

 素体だけが外の温度を教えてくれる。今日は寒かった。


 通りに沿って歩く。


 百年程前に建てられたビルはまだ立っていた。立っている、というより、まだ崩れ切っていない、という方が正確だった。一階部分は蔦と苔に覆われ、かつてガラスだったはずの開口部は全て空洞になっていた。風が通り抜けるたびに、建物全体がわずかに鳴った。

 ビルが呼吸しているのか、それとも死んでいるのに音だけが残っているのか、白雪には判断できなかった。


 ロボットが一台、交差点を横切っていった。物資の運搬用だ。白雪に気づいて一瞬停止し、識別信号を確認してから再び動き出した。それだけだった。声をかけてくるわけでも、避けるわけでもなく、ただ横切って、消えた。


 「白雪」


 後ろから声がした。初雪(はつゆき)だった。


 ES-02。一世代新しい設計の強化外骨格(エグゾフレーム)。同じ部隊に配属されて七ヶ月になる。

 声の出し方が白雪と違う。無駄がない、というより、必要な分だけ使う、という印象だった。


 「南側に反応がある。第一段階、二体」


 「わかった」


 それだけで十分だった。


 白雪は進行方向を変えた。かつて商店街だったらしい通りに入る。シャッターの錆が百年分の雨染みと混ざって、地図のような模様を作っていた。白雪はそれを見ていたが、見ていた、という意識はなかった。


 匂いで気づく前に、影が動いた。


 建物と建物の間、日の当たらない路地の奥から、それはゆっくりと出てきた。

 クリーチャー――人類の敵。その第一段階。遠目では筋肉質な人間と変わらない。

 布の残骸をまだ身につけていた。何かの制服だったらしく、色は落ちていたが形だけが残っていた。制服の奥で、肋骨だけが不自然に脈動していた。


 目が合った。


 白雪は右腕を構えた。外骨格内部の機構が展開する音がした。指先から、斥力(リパルション)クローが伸びる。斥力場が肉を裂く前に、骨格を押し潰した。

 相手は止まらなかった。止まる理由がないからだ。第一段階にはもう、止まるべき理由を判断する機能が残っていない。


 交戦は三秒で終わった。


 もう一体は路地の入口で初雪が処理していた。白雪が振り返ったときには既に終わっていて、初雪は義腕を下ろしていた。


 「問題ない」と初雪が言った。


 「ああ」と白雪が答えた。


 白雪は倒れたそれを見た。仰向けになっていた。顔が上を向いていた。目は開いたままで、赤かった。変容してもなお、瞼は閉じる構造を保っていた。

 閉じなかった、ということは、閉じようとする意志が最後になかった、ということだろうか。


 一瞬だけ、何かが変わった。


 痙攣ではなかった。苦悶でもなかった。何か別のもの――白雪には言葉がなかった。ただ、それを見ていた。見続けることが正しいのか間違いなのかもわからないまま、三秒間、視線を外せなかった。


 「白雪」


 初雪の声で顔を上げた。


 「記録に何と書く」と初雪が聞いた。


 「第一段階、二体、排除」


 「それだけでいい」


 初雪は先に歩き始めた。白雪はもう一度だけそれを見て、それから歩き始めた。

 記録には書かない何かが、素体の胸部に相当する部分に、少しだけ引っかかった。引っかかった、という感覚が正しいかどうかも、白雪にはわからなかった。


 右の義手の指先で、左肩の肌部分の表面をなぞった。


 意識してやったわけではなかった。気づいたときにはやっていた。いつからそうしているのか、白雪は知らなかった。


 * * *


 基地に戻ったのは夕方だった。


 第三防衛環の内側、旧・環七通り沿いに設けられた前線基地は、かつてのスーパーマーケットを改装したものだ。天井が高く、照明灯の半分は切れていて、残りの半分が白い光を落としていた。

 旧文明期の設計図を元にロボットが改修を続けているらしく、新しい部材と古い壁が継ぎ接ぎになっていた。境目に、かつてここが食料品売り場だったことを示す色褪せたサインが残っていた。


 白雪はそれを何度も見ていたが、何度見ても何も感じなかった。感じない、ということを感じていた。


 「白雪」


 水無月(みなづき)が駆け寄ってきた。


 ES-01改。白雪と同世代の強化外骨格。

 髪は短く、目は茶色で、いつも少しだけ口が開いている。喋る準備が常にできている、という顔だった。


 「今日は何体だった?」


 「二体」


 「第何段階?」


 「一」


 「あ、じゃあ楽だったじゃん」水無月は白雪の隣に並んで歩いた。歩幅が白雪より少し小さかった。

 「私のほうは三体で、うち一体が第二段階でさ。初期の第二だったけど、触手がもう出てたから結構やっかいで」


 白雪は聞いていた。聞いている、という返事はしなかったが、水無月はそれでも話し続けた。七ヶ月でわかったことだった。白雪が黙っているのは、聞いていないからではない。


 「ねえ」と水無月が言った。「左肩、また触ってる」


 白雪は右腕を見た。いつの間にか左肩の表面をなぞっていた。


 「癖だ」


 「わかってる」水無月が白雪の左肩に自分の手を重ねた。「温かいよね、こっち」


 白雪は答えなかった。


 「機械のほうは冷たいじゃん。でもこっちは温かい。それだけで全然違う気がするんだよね、私は」


 白雪には、温かい、という感覚の意味がよくわからなかった。左肩の感覚センサーは機能している。温度データは来ている。それが温かい、という言葉に変換されるまでの間に、何かが足りない気がした。


 水無月の手は、確かに温かかった。


 「明日も出撃だって」と白雪は言った。


 「知ってる」水無月は手を離した。「今日も帰ってきたね。……よかった」


 白雪は答えなかった。


 一秒だけ、立ち止まった。


 それから整備区画へ向かった。水無月が後ろで何か言っていたが、内容は聞こえなかった。聞こえなかったのではなく、処理が遅れた。処理が追いついたときには、もう扉の向こうだった。


 整備台に座って、強化外骨格の点検を受けながら、白雪は天井を見た。


 切れた照明灯が一本、風もないのにわずかに揺れていた。揺れている理由が白雪にはわからなかった。百年前からそこにあったのか、昨日取り付けられたものなのか、それもわからなかった。

 理由のわからないものが、理由もわからないまま揺れ続けていた。


 白雪はそれを、ただ見ていた。



────────────────────────


【記録ログ 2147.03.11 21:44:09】

 ES-01 本日の交配適性センサーログ:

 接触反応 0件

 備考:統合不全ノイズにより本日も計測値不安定。

    運用継続の可否、引き続き保留。


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【挿絵:白雪】

挿絵(By みてみん)

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