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閾の郭(いきのくるわ)  作者: 丸介
第一章「駆逐」

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15/17

第十五話「駆逐・前編」

2026/06/17 本文・挿絵投稿。

────────────────────────


【記録ログ 2147.05.21 05:44:02】

 ES-01 稼働日数:1913日

 本日の任務:登録なし

 備考:三機の現在位置、依然として追跡センサーログより途絶。

    最勝より朝の呼びかけ実施。応答なし。

    最勝(さいしょう)判断:「待ちます。でも、心配しています」


────────────────────────



 変異種が来たのは、翌朝の早い時間だった。


 白雪はまだ眠りと覚醒の境界にいた。眠りと覚醒の境界、という状態を今日初めて知った。境界にいながら、気配を感じた。感じた瞬間に、境界から出た。


 目が覚めた。


 (かや)が既に立っていた。強化外骨格(エグゾフレーム)を装着していた。白雪を見た。


 「来た」と榧は言った。それだけだった。


 白雪は立った。外骨格を装着した。隣で初雪が動いていた。水無月が起き上がっていた。部屋の全員が起きていた。誰かが先に気配を感じて、全員が起きていた。


  深雪が部屋の中央に立った。


 「南だ」と深雪は言った。「昨日見た個体と同じか、わからない。ただ、近い」


 「距離は」と白雪は聞いた。


 「この建物から二百メートル以内だ」


 二百メートル以内。昨日は南側の廃ビルの間だった。今日は二百メートル以内に来ている。一夜で距離が縮まっていた。縮まった理由を考えている時間はなかった。


 「戦うか」と白雪は聞いた。


 「戦う前に確認する」と深雪は言った。「榧、先行して状況を見てくれ。全員は動かない」


 「わかった」と榧は言った。


 * * *


 榧が戻ったのは十分後だった。


 十分間、拠点の中で全員が待った。白雪は待ちながら、外骨格の各部を確認した。斥力(リパルション)エンジンの出力を確認した。斥力クローの展開テストをした。問題なかった。隣で初雪が同じことをしていた。

 水無月が白雪を見た。白雪は水無月を見た。何も言わなかった。それで十分だった。


 榧が扉を開いた。


 「一体だ」と榧は言った。「南の路地にいる。昨日より近い。こちらを向いている」


 「動いているのか」と深雪が聞いた。


 「ゆっくりと動いている。こちらに向かっている、というより、距離を測っている動き方だ」


 「頭部の触手は?」


 「動いている。頭部触手が私を追っていた。建物の中に入っても追っていた」


 建物の中に入っても、頭部触手が追う。壁を通して索敵できる。白雪は昨日の榧の言葉を思い出した。触手は索敵専用。腕は攻撃専用。完全に分化している。


 「私が前に出る」と白雪は言った。


 深雪が白雪を見た。


 「理由は」


 「斥力クローの方が、近接で最大出力を出せる。第三形態を相手にした実績がある。今日のものがどのくらいの速度を持っているか、確認する必要がある」


 「確認しながら戦えるか」


 「一度当たれば、次に対応できる」


 深雪は少し間を置いた。


 「わかった。ただし、撤退の判断は私がする。私の声がかかったら、即座に引け」


 「わかった」


 「初雪は白雪の援護。槇は射線が開いたら特殊弾頭を使う。榧と楓は退路を確保。水無月は──」


 「私も出る」と水無月は言った。


 「お前は」


 「私も斥力クローは使える。出る」水無月は言った。引かなかった。


 深雪は水無月を見た。一秒見た。


 「わかった。ただし無理はするな。引けと言ったら引け」


 「わかった」と水無月は言った。


 * * *


 路地に出た。


 朝の光が廃ビルの隙間から入っていた。光と影が交互に並んでいた。

 白雪は前に出た。初雪が右に回った。水無月が左に開いた。


 いた。


 路地の突き当たりから、こちらを向いていた。


 白雪は見た。


 榧の説明通りだった。

 白い皮膚。二本腕。頭部の触手。

 昨日榧が観測した位置より、遥かに近かった。近い距離で見ると、昨日の想像と少し違った部分があった。


 大きさが違った。


 もっと大きいと思っていた。実際は人間大に近かった。第三形態より小さかった。第一形態と同程度だった。


 小さい。


 白雪は自分の判断を確認した。小さく見える。弱そうに見える。ただ、その判断を信じなかった。信じない、という判断を下した。

 榧が追える気がしなかった、と言った。その言葉を持ったままで、白雪は前に出た。


 頭部の触手が白雪を向いた。


 腕は動かなかった。


 頭部触手だけが白雪を追っていた。腕は体の側面に垂れていた。垂れたまま動かなかった。索敵と攻撃が完全に分離している。索敵している間、攻撃の準備をしていない。


 距離を詰めた。


 斥力クローを展開した。腕全体に斥力が充填された。押し返す感触が左腕に来た。今日の感触はいつもより明確だった。戦う、という意志が感触を明確にしているのかもしれなかった。


 変異種が動いた。


 腕が来た。


 速かった。


 白雪は今まで第三形態と戦ってきた。第三形態の腕の速さを知っていた。

 今日の速さは違った。

 桁が違った、とまでは言えなかった。ただ、明確に速かった。白雪が斥力クローを展開した状態で前に出た距離の倍の間合いから、腕が来た。


 白雪の腕の長さの外から、鉤爪が届いた。


 躱した。

 右に跳んだ。

 着地の瞬間に、二撃目が来た。一撃目を躱してから二撃目が来るまでの間隔が、今まで戦ったどのクリーチャーより短かった。


 当てられない。


 白雪はその判断を冷静にした。

 今の間合いでは、自分の腕が届く前に相手の腕が届く。斥力クローの射程が足りない。近づけば近づくほど速くなる、という印象があった。印象、という言葉を使った。


 退いた。


 初雪が横から動いた。


 「斥力ウォール、展開」と初雪は言った。


 両手を前方に向けた。斥力のバリアが展開された。変異種がウォールに向かって来た。白雪は初雪の判断を見ていた。ウォールで止める。止めた隙に白雪が入る。その判断だと白雪は読んだ。


 変異種がウォールに接触した。


 接触した瞬間に、動いた。


 ウォールの縁を通った。


 上でも下でもなかった。縁だった。ウォールは前方に展開される。その範囲の端を、変異種は通った。

 速さではなく、精度だった。

 ウォールの範囲を計算して、その外を通った。頭部触手が計測し、腕が実行した。索敵と攻撃の分化が、ここで機能した。


 初雪が斥力パルスに切り替えた。出力を反転させて撃った。


 変異種が躱した。


 体を傾けた。

 傾けた角度が、斥力パルスの軌道から正確に外れていた。一センチのずれもないように見えた。頭部触手が射線を読んでいた。撃つ前に軌道を予測していた。


 白雪は見ていた。見ながら、この状況を整理した。


 斥力クローは間合いが足りない。斥力ウォールは範囲を計算されて回避された。斥力パルスは射線を読まれた。


 残るのは──


 「槇」と白雪は言った。


 「わかっている」と槇の声が来た。拠点の二階の窓から、槇が特殊弾頭を装填した銃を構えていた。「射線が開いたら撃つ」


 白雪は変異種の前に出た。


 囮になった。

 変異種がこちらを向いた。頭部触手が白雪を追った。腕が動いた。白雪は躱しながら、変異種を槇の射線に乗せようとした。乗せようとしながら、躱し続けた。


 鉤爪がかすった。


 右腕の外骨格を通った。感触はなかった。ただ、音がした。金属を削る音がした。装甲に傷が入った音だった。右腕外骨格が大破した。


 一瞬、変異種が槇の方を向いた。


 槇が撃った。


 変異種が動いた。


 弾が通った。


 通り過ぎた。特殊弾頭は、変異種の白い皮膚を三センチ外れて通過した。

 当たらなかった。

 変異種は頭部触手で槇の射線を読んでいた。槇が撃つ瞬間に動いた。射線を読む速度が、槇の判断より速かった。


 槇がもう一発撃った。


 また通り過ぎた。


 「当たらない」と槇の声が来た。感情のない声だった。事実として言った。「射線を読まれている。速度で回避している。特殊弾頭を消費できない」


 三つの手段が全て通じなかった。


 白雪は変異種を見た。変異種は白雪を見ていた。頭部触手が白雪を向いていた。腕が体の側面にあった。

 その印象を、人間の言葉に変換するなら、楽しんでいる、に近かった。


 変異種に──余裕があるように見えた。


 変異種が動いた。


 今度は白雪に向かって来た。


 速かった。これまでの動きより速かった。

 今まで全力ではなかった、と白雪は判断した。今日、初めて速度が上がった。


 白雪は跳んだ。


 鉤爪が白雪の左腕をかすった。


 皮膚が裂けた。

 素体が裂けた。

 白い素体に傷が入った。

 痛覚データが来た。

 深くはなかった。浅い傷だった。ただ、入った。変異種の鉤爪が白雪の素体に届いた。


 水無月が変異種の側面から、斥力クローを叩き込んだ。


 変異種が横を向いた。


 一瞬だけ横を向いた。振り返った。水無月を見た。頭部触手が水無月を向いた。


 白雪は動いた。


 変異種が横を向いている間に間合いを詰めた。斥力クローを叩き込んだ。最大出力だった。変異種の胴体に当たった。


 変異種が吹き飛んだ。


 吹き飛んで、路地の壁に当たった。当たった音がした。起き上がった。


 一秒もかからなかった。


 起き上がった変異種が、今日初めて静止した。頭部触手が全員を同時に追った。白雪、初雪、水無月、槇の射線。全員を同時に把握していた。


 白雪は変異種を見た。


 起き上がった変異種の白い皮膚に、白雪の斥力クローの跡があった。打撃の跡があった。吹き飛ばした跡が、確かにそこにあった。


 効いていなかった。


 傷がなかった、のではなかった。打撃の跡はあった。ただ、倒れなかった。起き上がった。第三形態に同じことをすれば倒れていた。

 変異種は倒れなかった。起き上がって、全員を把握した。


 「撤退」と深雪の声が来た。


 白雪は動いた。後ろに跳んだ。初雪が白雪の退路を確保した。水無月が後退した。変異種が追ってきた。


 追ってきた速さが、今日の最高速だった。

 最短距離で来ていた。

 無駄な動きが、一つもなかった。


 榧が路地の端から通常弾頭を撃った。変異種が躱した。躱しながら追ってきた。楓が別の角度から撃った。変異種がまた躱した。通常弾頭は意味をなさなかった。退くしかなかった。


 建物の中に入った。


 変異種が路地で止まった。


 建物の中には入ってこなかった。止まった。頭部触手が建物の入口を向いていた。しばらくそのままでいた。


 全員が建物の中で息を整えた。


 白雪は左腕の傷を確認した。浅かった。血が出ていた。素体の白い皮膚が裂けていた。


 外から音がしなくなった。


 変異種が去っていた。


 * * *


 拠点に戻って、深雪が全員の傷を確認した。


 白雪の左腕。初雪の外骨格の脚部に擦過傷。水無月の右腕の出力が低下していた。槇の外骨格に傷はなかった。榧と楓に傷はなかった。


 全員が拠点の二階に集まった。


 誰も最初に話さなかった。


 しばらく静かだった。今日の戦闘の音が、静かさの中にまだあった。鉤爪が義肢を削った音。斥力クローが変異種に当たった感触。起き上がった変異種の白い皮膚。それらが白雪の中にあった。


 「当たらなかった」と槇が最初に言った。感情を入れずに言った。「特殊弾頭を二発使った。どちらも当たらなかった」


 「射線を読んでいた」と白雪は言った。


 「ああ。撃つ前に弾道を計算していた。頭部触手の精度が高い」


 「斥力クローは当たった」と水無月が言った。「白雪が叩き込んで、吹き飛んだ」


 「倒れなかった」と白雪は言った。


 部屋が静かになった。


 「吹き飛んで、起き上がった」と白雪は続けた。「最大出力の斥力クローが、第三形態には有効だった。だが、あの変異種には有効でなかった。出力を上げれば有効になる可能性はある」


 「斥力ウォールは?」と深雪が聞いた。


 「範囲を計算された」と初雪は言った。「ウォールの端を通った。頭部触手で範囲を測定して、実行した。精度の問題であって、速度の問題ではなかった」


 「つまり」と深雪は言った。「今の私たちの手段は全て通じない」


 誰も否定しなかった。


 しばらくして、メカニックが口を開いた。


 メカニックが話すことは少なかった。今日の戦闘にも参加していなかった。ずっと部屋の隅で聞いていた。


 「一つ聞いていいか」とメカニックは言った。


 「聞いていい」と深雪は言った。


 「白雪のエンジンは単基だ。出力が足りない。足りないから間合いが作れない。間合いが作れないから特殊弾頭が当たらない。という理解でいいか」


 「そうだ」と白雪は言った。


 「ES-01改の強化外骨格を分解すれば、出力問題は解決する」


 部屋が静かになった。


 メカニックは続けた。


 「白雪の機体の背部に、水無月のエンジンを追加搭載する。現地改修だから精度は落ちる。ただ、ツインエンジンになり理論上は出力が上がる。斥力クローの出力が大幅に増大する」


 「水無月はどうなる?」と白雪は言った。


 「エンジンがなくなる。斥力クローが使えなくなる。戦闘員としての機能を大きく失う」


 白雪は水無月を見た。


 水無月は白雪を見ていた。いつもと違う水無月の目だった。何かを考えている目だった。考えている、という意思が、目に宿って見えた。


 「どのくらいかかる」と深雪がメカニックに聞いた。


 「一晩あれば、動く状態にはできる。精度の高い整備をするなら三日は必要だが、使えるレベルには一晩で仕上げる」


 「私の右腕はどうする」と白雪は言った。素体の右腕は無事だが、外骨格の腕部は機能を失っていた。


 「ES-00系のパーツが余っている」とメカニックは言った。「規格が違うが、代替になる。ES-00系のパーツが入ることで、銃火器の搭載が可能になる。特殊弾頭を白雪が直接使える」


 「特殊弾頭を白雪が?」と槇が言った。


 「ツインエンジンで間合いを強引に作って、白雪が直接撃ち込む。遠距離から当てようとするより、成功率が上がる可能性がある」


 槇が少し間を置いた。


 「在庫は残り三発だ」と槇は言った。「一発も無駄にできない」


 「わかっている」とメカニックは言った。


 部屋が静かになった。


 深雪が全員を見た。


 「決めるのは今夜ではない」と深雪は言った。「それに、水無月が決めることだ」


 全員が水無月を見た。


 水無月は白雪を見ていた。白雪を見たまま、全員の視線を受けていた。


 白雪は水無月を見た。


 水無月の目が、戦闘の後の目のようだった。傷がある右腕を見た。路地で変異種を見た目だった。


 「今夜、考える」と水無月は言った。「明日、言う」


 それだけだった。全員が頷いた。頷かなかった者もいた。ただ、水無月の言葉を受け取った。


 部屋の外で、何かが動く音がした。


 全員が静かになった。


 しばらくして、音がした。

 風だった。廃ビルの間を風が通った音だった。ただ、全員が一瞬静かになった。その静かさが、今夜の拠点の空気を表していた。


 窓の外で、夜が深くなっていた。


 変異種がどこにいるかは、わからなかった。


 頭部触手が今もどこかでこちらを追っているかもしれなかった。


 わからないまま、夜が続いた。



────────────────────────


【記録ログ 2147.05.21 23:17:33】

 ES-01 本日の交戦記録:未確認個体との交戦。

  ES-01:左腕部素体に軽度裂傷。右腕外骨格大破。

  ES-02:脚部外骨格に擦過傷。

  ES-01改(水無月):右腕部出力低下。

  その他戦闘員:損傷軽微。

 備考:未確認個体の詳細データ取得に失敗。

    斥力クロー・斥力ウォール・斥力パルス、いずれも有効打なし。

    特殊弾頭:命中せず(2発消費)。

    個体は戦闘後、自主的に離脱。追跡不能。

    ES-01・ES-02・ES-01改(水無月)の現在位置:特定不能。

 最勝コメント:「白雪さん、聞こえますか。帰ってきてください」


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【挿絵:変異種】

挿絵(By みてみん)

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