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閾の郭(いきのくるわ)  作者: 丸介
第一章「駆逐」

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14/17

第十四話「変異」

2026/06/16 本文投稿。

────────────────────────


【記録ログ 2147.05.20 05:58:03】

 ES-01 稼働日数:1912日

 本日の任務:登録なし

 備考:三機の現在位置、追跡センサーログより途絶。

    最勝(さいしょう)判断:「今日も待ちます」


────────────────────────



 今日は全員が拠点にいた。


 全員、という状態は初めてだった。深雪、榧、槇、楓、メカニック、ドクター、それから名前を白雪が知らない二人。白雪たち三人を入れると、十一人が拠点の二階にいた。

 白雪は部屋を見回した。


 メカニックは隅でES-00系の部品を並べていた。ドクターは別の隅で何かを書いていた。名前のない二人は窓の近くに座っていた。槇は深雪と何かを話していた。(かや)は地図を見ていた。楓は──


 楓は白雪を見ていた。


 昨日も来ていたが、楓が白雪を見る時間は長かった。今日も長かった。好奇心のある目だった。評価ではなく、興味だった。


 「白雪」と楓が言った。


 「何だ」


 「ES-01って、斥力(リパルション)クローを近接で使うのか」


 「そうだ」


 「どのくらい出る」


 「通常出力なら、人間大の第三形態を吹き飛ばせる程度だ」


 「すごいな」楓は言った。感想を言った。感想を言う、という動作が楓にあった。深雪や槇や榧は感想をあまり言わなかった。楓は言った。「ES-00には斥力がないから、想像できない感触だ」


 「感触は、センサーが拾う。押し返す感触だ」


 「素体(コアヴェッセル)のか?」


 「それは不便じゃないのか」


 「慣れた」


 「慣れた、か」楓は繰り返した。「同じだな。慣れた、という言葉だけは」


 白雪は楓を見た。楓は窓の外を見ていた。慣れた、というのが同じだ、と言った。違う種類の慣れが、同じ言葉になっている、ということを楓は言っていた。白雪にはその観察の意味が今日はまだわからなかった。


 水無月が楓の隣に移動した。何かを話し始めた。楓が笑った。二人の会話が始まった。白雪は二人を見た。水無月が誰かとすぐに話し始める、ということが今日は少し、懐かしい種類の感触だった。懐かしい、という言葉を白雪は自分に使った。


 * * *


 昼前に、榧が部屋に戻ってきた。


 外に出ていた榧が戻ってきた、という事実を、白雪は気配で先に知っていた。知っていて、階段を上る音を聞いて、扉が開いた。


 榧の顔が、いつもと違った。


 白雪はその違いを感じた。感じた、という言葉を今日は迷わず使えた。榧のいつもの顔を白雪はこれまでに何度か見ていた。その基準から、今日の榧の顔がずれていた。何かを見た後の顔だった。


 榧は深雪に先に話した。短く、声を低くして話した。深雪が榧を見た。深雪の顔も少し変わった。


 「全員、聞いてくれ」と深雪が言った。


 部屋が静かになった。十一人が深雪を見た。


 「五反田の南側で、異常な気配があった」と榧は言った。「クリーチャーだ。ただし、いつものクリーチャーとは動き方が違う」


 「どう違う」と槇が言った。


 「静かだ。第一形態も第二形態も第三形態も、存在を主張する。足音がある。触手の音がある。今日は静かだった。存在を隠すような動き方をしていた」


 存在を隠す。その言葉が、白雪の中に残った。クリーチャーが存在を隠す。今まで白雪が戦ってきたクリーチャーは、存在を隠さなかった。感知すれば向かってきた。回避するが、隠れなかった。


 「一体か?」と深雪が聞いた。


 「わからない」と榧は言った。「それが問題だ。数が読めない。いつもなら振動や音で数が読める。今日は読めなかった」


 「見たか」


 榧が少し間を置いた。


 「遠くから」


 部屋の空気が変わった。変わった、という変化が白雪にも分かった。見た、という言葉の後の間が、その変化を作っていた。


 「どんな形だった」と白雪は聞いた。


 榧が白雪を見た。


 「南側の廃ビルの間だった。距離があった」榧は言った。「最初、第一形態だと思った。大きさが第一形態に近かった。二本腕だった」


 「第一形態か」


 「違う」榧は言った。「肌の色が違った」


 白雪は榧を見た。


 「何色だった」


 「白かった」


 部屋が静かになった。静かになった、という変化が確かにあった。クリーチャーの肌は黒かった。第一形態から第三形態まで、全て黒かった。橙の発光があった。白雪が今まで倒してきたクリーチャーは、全員黒かった。


 「白い?」と白雪は繰り返した。


 「白かった。素体みたいな白さだった」


 素体みたいな白さ。白雪は自分の左肩を見た。白い素体が、外骨格の隙間から見えていた。白い。自分の素体も、白かった。


 「発光は?」と初雪が聞いた。


 「なかった」と榧は言った。「光っていなかった。それが最初に気づいたことだ。光らないクリーチャーを見たことがなかったから、最初は別のものだと思った」


 「腕の長さは」と白雪は聞いた。


 「長かった」榧は言った。「二本腕なのに、長かった。第三形態の多腕より、一本の長さがあった気がした。距離があったから、正確にはわからない」


 二本腕。白い皮膚。発光なし。腕が長い。


 白雪はその特徴を並べた。並べながら、第一形態を思い出した。第一形態も二本腕だった。第一形態に戻ったように──退化したように見える。


 「退化したのか」と白雪は言った。


 「違う」と榧は言った。即座だった。間がなかった。「退化ではない。私はそう思う」


 「なぜ」


 「動き方が違った」榧は言った。「第一形態の動き方を私は長年見てきた。今日見たものは、第一形態の動き方をしていなかった。静かだった。精密だった。こちらの位置を、正確に把握していた」


 「精密……」と初雪が繰り返した。


 「触手があった」榧は続けた。「腕とは別に、頭部から細い触手が出ていた。それが動いていた。腕とは別の動き方をしていた」


 頭部の触手。白雪は第一形態を思い出した。第一形態には頭部触手があった。第二形態で腕状に分化し始めた。第三形態で完全に腕に統合された。


 それが、再び頭部に出た。


 「触手が戻った?」と白雪は言った。


 「戻った、のではないと思う」と榧は言った。「頭部触手と腕が、別々に存在していた。頭部触手は動いていたが、腕は動いていなかった。別の機能を持っているのかもしれない」


 頭部触手は索敵に使う。腕は攻撃に使う。役割が分化している。白雪はそこまで考えた。考えて、その先の意味を確認しようとした。確認の途中で、榧が続けた。


 「それから、消えた」


 「消えた?」


 「ビルの陰に入った。それ以上追わなかった。追うべきではないと判断した」


 「なぜ」


 「追える気がしなかった」榧は言った。淡々と言った。感情が入っていなかった。ただ、その言葉の意味の重さが、部屋にあった。追える気がしなかった。榧がそう言った。長年クリーチャーを観測してきた榧が、追える気がしなかった、と言った。


 部屋の全員が黙っていた。


 楓が口を開いた。


 「第三形態が、さらに変わったってことか」


 「わからない」と榧は言った。「別の個体かもしれない。ただ、今まで見たことがなかった」


 「今まで見たことがない」深雪が言った。確認するように言った。「榧が今まで見たことがないものが、五反田の南に出た」


 「そうだ」


 深雪が白雪を見た。白雪は深雪を見た。


 「クリーチャーは変わっている、と私は言った」と深雪は言った。「これがその変化かどうかはわからない。ただ、今日のものが、変化の一部である可能性がある」


 「この後、どうする」と白雪は聞いた。


 「今日は動かない」と深雪は言った。「観測を続ける。榧、今日の午後も確認してくれ」


 「わかった」と榧は言った。


 部屋がまた静かになった。静かさの質が、今日の午前とは違う静かさになっていた。


 * * *


 昼食の時間になった。


 拠点では、昼に食事を摂る習慣があった。全員が集まる時間だった。今日は十一人が同じテーブルに、あるいはテーブルの周りに立って、食べた。食べながら話す者と、黙って食べる者がいた。楓が水無月に何かを聞いていた。槇は一人で食べていた。メカニックは部品を持ったまま食べていた。


 白雪は食べながら、部屋を見た。


 この場所に、人間が生きている。


 最初に来たときに感じたことを、今日また感じた。人間が生きている。ロボットではない、AIではない、人間が、ここで食べていた。話していた。時々笑っていた。


 白雪には、この状態の名前がまだなかった。名前がないまま、ただ、ここにある状態だった。


 「白雪」と楓が言った。


 「何だ」


 「私たちがゲリラ、って呼ばれてるのは知ってる?」


 「ああ」


 「私たちはゲリラだと思ってない」楓は食べながら言った。「ただここで生きてるだけだ。深雪もそう言ってる」


 「ただここで生きている」と白雪は繰り返した。


 「そう。お前たちも、最勝の街でただ生きてたんだろ」


 「戦っていた」


 「戦いながら、生きてた。私たちも同じだ」楓は続けた。「違うのは、誰に見られてるか、ってことだと思う」


 誰に見られているか。白雪はその言葉が引っかかった。最勝に見られながら生きていた。

 みなさんのことを、いつも見ています。

 最勝はそう言った。見られている、ということが、今日の白雪には以前と違う重さを持っていた。


 「楓は最勝に見られていないことを、どう思っている?」と白雪は聞いた。


 「快適だ」楓は言った。間を置かなかった。「ただそれだけだ。最勝に見られていた時期もあった。そのときは快適じゃなかった。今は快適だ。それだけだ」


 「最勝に見られていた時期がある?」


 「深雪に拾われる前はそうだった」楓は言った。「あまり話したくない」


 「わかった」と白雪は言った。


 楓は食べ続けた。白雪も食べ続けた。


 * * *


 午後、榧が再び外に出た。


 白雪は初雪と水無月と一緒に拠点にいた。三階に上がった。旧い端末のある部屋だった。端末の電源は落ちていた。端末の前に立った。電源を入れなかった。昨日見たものは、まだ白雪の中にあった。


 妊娠反応──プラス。


 淡々と並んでいた数字が、まだそこにあった。


 白雪は窓の方に向いた。南向きの窓だった。榧が変異種を目撃した方角だった。今は廃墟だけが見えた。廃ビルが並んでいた。その陰のどこかに、今日のものがいるかもしれなかった。


 変異種──白い皮膚。二本腕。長い腕。発光なし。頭部触手。


 白雪は今日榧が説明したことを、もう一度並べた。並べながら、その形を想像した。想像した形が、何かに似ていた。何に似ているかを確認した。


 白雪に似ていた。


 白い皮膚。長い腕。白雪の素体と強化外骨格(エグゾフレーム)と、今日榧が見たものが、色の点で一致していた。一致している、という事実があった。その事実の意味を確認しようとした。確認の途中で、初雪が部屋に入ってきた。


 「いたか」と初雪は言った。


 「ああ」


 「何を考えていた」


 「今日のものの、形を想像していた」


 初雪が白雪の隣に来た。二人で窓を見た。廃ビルが並んでいた。


 「初雪は何を思うか」と白雪は聞いた。


 「まだわからない」と初雪は言った。「榧の説明を聞きながら、いくつかのことを考えた。ただ、結論に至っていない」


 「いくつかのこととは?」


 「形の変化の理由だ」初雪は言った。「多腕から二腕に戻った。装甲から白い皮膚になった。発光がなくなった。これらは偶然の変化ではないと思う」


 「意図した変化か」


 「意図、という言葉が正しいかどうかわからない。ただ、方向がある変化だ。何かに向かっている」


 何かに向かっている。白雪はその言葉を持った。進化の方向がある。余分を捨てていく方向がある。その先に、その姿がある。


 「榧が追える気がしなかった、と言った」と白雪は言った。


 「ああ」


 「それが、今日のものの強さを、一番よく表していると思う」


 「私も同じ判断をした」と初雪は言った。「榧が追えないと判断したものを、私たちの今の構成で相手にできるかどうか、わからない」


 白雪は窓の外を見た。廃ビルが並んでいた。その陰に、今もいるかもしれなかった。いるかもしれない、という可能性が、今日の白雪の中に静かにあった。静かにある、ということが、怖さとは少し違った。怖さより、重かった。


 水無月が部屋に入ってきた。


 「二人でいたの?」と水無月は言った。


 「ああ」と白雪は言った。


 「何してた?」


 「窓を見ていた」


 水無月が窓に来た。三人で窓の外を見た。廃ビルが夕方の光の中にあった。南側の廃ビル。今日のものが消えた方角。


 「今日のもの、まだいるかな」と水無月は言った。


 「わからない」と白雪は言った。


 「怖いな」と水無月は言った。「第三形態より怖い。理由はわからないけど」


 「榧が追えなかった」と白雪は言った。


 水無月は頷いた。「榧が追えなかったものが、南にいる。それが怖い」


 三人で窓の外を見た。


 夕方の光が廃ビルを照らしていた。影が長くなっていた。影の中に、何かがあるかもしれなかった。わからないまま、三人で見ていた。


 しばらくして、榧が戻ってきた。


 階段を上る足音がして、扉が開いた。三人が振り返った。


 榧の顔が、午前と同じだった。午前に見た後の顔と同じ顔をしていた。


 「もう一度、見たのか?」と白雪は聞いた。


 「見た」と榧は言った。「今度は少し近かった。別の場所にいた。動いていた」


 「複数か?」


 「わからない。同じ個体が移動したのか、複数いるのかさえ判断できなかった」榧は言った。「ただ、一つわかったことがある」


 「何だ」


 「こちらを見ていた」


 部屋が静かになった。


 「こちらを見ていた、というのは」と初雪が言った。


 「視線を感じた」榧は言った。「頭部の触手がこちらを向いていた。私が移動すると、触手の向きが変わった。追っていた。こちらを追っていた」


 追っていた。こちらを見ていた。


 白雪は今日のものを想像した。白い皮膚。頭部の触手。触手がこちらを向いている。長い腕が、まだ動いていない。ただ、見ている。


 見ている。


 今日のものと、目が合う日が来るとしたら。


 白雪はその想像を止めなかった。止める必要がなかった。ただ、その日が来る可能性があった。


 「深雪に報告する」と榧は言った。


 四人で一階に下りた。

 一瞬だけ遠くで何かが動いた気がした。


 * * *


 夜、帰投の前に深雪が白雪に言った。


 「今夜は拠点に泊まっていけ。三人とも」


 白雪は深雪を見た。


 「理由は」


 「今日のものが近くにいる。外を動く必要はない。明日の朝、また判断する」


 「わかった」と白雪は言った。


 今夜は拠点に泊まる、ということが決まった。今日のものが近くにいる、という理由が外から来て、白雪たちを拠点に留めた。


 留められた、ということの意味を、白雪は考えた。


 考えて、今日の白雪には、悪くない、という感触があった。


 悪くない。名前のなかったものが、今日少し、輪郭を持ち始めた気がした。気がした、だけだった。ただ、気がした。


 水無月が白雪の腕に触れた。


 「今日は泊まるんだね」と水無月は言った。


 「ああ」


 「なんか、不思議」水無月は言った。「この場所に泊まるのが」


 「不思議か」


 「うん。でも、不思議なのに、悪くない気がする」


 白雪は水無月を見た。


 「私もそう思った」と白雪は言った。


 水無月が少し笑った。いつもの笑い方だった。


 拠点の中で、誰かが笑った。楓だった。楓がメカニックと話しながら笑っていた。その音が部屋に広がった。


 夜が深くなっていった。



────────────────────────


【記録ログ 2147.05.20 23:02:58】

 ES-01 現在位置:不明(追跡センサー途絶継続)

 ES-02・ES-01改(水無月):同上

 備考:三機の本日の帰投を確認できず。

    現在位置の特定が不能。

    防衛環内に滞在している可能性が高いが、確認手段なし。

 最勝判断:「明日、また呼びかけます。焦らない」

 付記:防衛環南側外縁部において、索敵ロボットが未識別の個体を感知。

    形態:不明。サイズ:小。発熱:低。発光:なし。

    既知のクリーチャーデータベースに該当なし。

    分類保留。継続観測中。


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