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No,8

「待ちなさいよ、エリオット様! 私を置いて自分だけヴィオラ様に泣きつくなんて、最低だわ!」


 泥まみれのリリアが、なりふり構わずエリオットに掴みかかった。かつての「真実の愛」の欠片もない、醜悪な内輪揉め。だが、エリオットはその手を振り払い、狂ったように腰の剣を抜いた。


「黙れリリア! ヴィオラ、君さえ……君さえ手に入れば、私はまた完璧な王太子に戻れるんだ! アドラー辺境伯、その女を離せ! それは私のものだ!」


 エリオットが、震える手で剣をカイル様へと向けた。

 その瞬間、大気が爆ぜるような魔力の圧が放たれた。


「……貴様。今、誰に対して剣を向けた?」


 カイル様の声は、低く、地獄の底から響くようだった。

 彼は私を左腕で抱き寄せ、右手をゆっくりと背後の大剣へと伸ばした。


「待ってください、カイル様。そのような錆びた剣の相手をするのは——」


「いや、ヴィオラ。こいつは言葉では理解できん。……身体に刻んでやる必要がある。お前を『物』扱いした報いをな」


 カイル様が黒鉄の大剣を引き抜いた。

 凄まじい風圧が周囲の雪を吹き飛ばす。エリオットは恐怖で顔を引きつらせながらも、ヤケクソ気味に突進してきた。


「死ね、野蛮な辺境伯め!」


 キン、という短い音。

 次の瞬間、エリオットが掲げていた王家の宝剣は、根本から飴細工のように容易く折れ、空中に舞った。カイル様は剣を振るったわけではない。ただ大剣を構え、魔力を通しただけで、その余波がエリオットの武器を粉砕したのだ。


「あ……がっ……!?」


 カイル様の左手——私を抱いていない方の手が、エリオットの襟首を掴み、そのまま地面へと叩き伏せた。

 ドォォン、という重い音が響き、雪原にクレーターができる。


「がはっ……ひ、ひいぃ……っ!」


「これが、お前が『野蛮』と切り捨てた力だ。お前は、ヴィオラがこの力を振るわせないよう、どれほどの知略で俺を、そしてこの地を制御していたか、一度でも考えたことがあるか?」


 カイル様の剣先が、エリオットの喉元数ミリで止まる。

 

「お前が捨てたのは、ただの女ではない。この大陸で最も美しく、最も聡明な『平和の計算機』だ。……それをお前は、自分の無能を隠すための道具として使い潰そうとした」


「た、助けてくれ……! 私は、私は王太子なんだ……!」


「王太子? 笑わせるな。俺の目の前にいるのは、愛に溺れ、責任から逃げ、最後は自らの兵にすら見捨てられた『ただの無能』だ」


 カイル様は冷たく吐き捨てると、剣を鞘に納めた。

 彼は怯えるエリオットにはもう興味がないと言わんばかりに、私の方へ向き直り、その大きな手で私の頬を包み込んだ。


「……ヴィオラ。怖かったか?」


「いいえ。……あなたが怒ってくださるのが、少しだけ嬉しかったくらいですわ」


 私が微笑むと、カイル様は私の額を自分の額にこつんと当てた。

 背後では、エリオットが泥の中で嗚咽し、リリアがそれを冷ややかに見下ろしている。

 完璧な断絶。

 計算機を叩くまでもなく、彼らの結末はすでに出ている。


「……醜いわね。それが、あなたが命を懸けて守ると言った『愛』の正体ですの?」


 私の冷ややかな声が、雪原に響いた。

 地面に這いつくばるエリオット様と、彼を罵り続けるリリア様。その姿は、かつて卒業パーティーで光り輝いていた二人とは、似ても似つかないほど無惨だった。


「ヴィオラ様! 聞いてください、私は騙されていたんです!」

 リリア様が、泥にまみれた手で私の靴を掴もうと縋り寄ってくる。

「この人は、私に『何不自由ない生活をさせる』と約束したんです。でも実際はどう!? 借金ばかりで、ドレス一枚買えない! こんなの、真実の愛なんかじゃないわ!」


「何を……! リリア、お前こそ私の名前を使って勝手に贅沢をしていただろう! 私の人生が狂ったのは、お前が現れたからだ!」


「なんですって!? 誘惑してきたのは殿下の方じゃない!」


 二人は兵士たちの冷ややかな視線も忘れ、互いの欠点を挙げ連ね、罵り合う。

 カイル様は私の肩を抱いたまま、吐き捨てるように言った。


「愛があればどんな苦難も乗り越えられる。……そう宣ってヴィオラを捨てた男の末路がこれか。笑わせるな」


 私は一歩前へ出た。

 カチリ、と計算機の歯車を一目盛りだけ動かす。


「エリオット様、リリア様。……あなたたちが望んだ『愛だけがある世界』の完成、おめでとうございます。周囲の信頼も、地位も、資産も、実務能力も、すべて失いましたわね。残ったのは、お二人だけ。……これこそが究極の純愛ではありませんか?」


「ヴィ、ヴィオラ……頼む、冗談はやめてくれ! ここから助けてくれ!」


「いいえ。私は『愛の理解者』として、お二人の時間を邪魔するような無粋な真似はいたしませんわ」


 私は、カイル様に目配せをした。

 彼は頷き、周囲の騎士たちに命じた。


「この二人はもはや我が領の脅威ですらない。……王国軍の投降者諸君。この二人は、君たちが責任を持って本国へ連れ帰れ。王都に残った債権者たちが、彼らの帰還を首を長くして待っているはずだ」


 投降した兵士たちは、憎しみのこもった目でエリオット様たちを縛り上げた。

 王国へ戻れば、彼らを待っているのは「王族」としての特権ではなく、国を破綻させた「戦犯」としての厳しい糾弾と、一生かかっても返せない負債の山だ。


「ヴィオラ! ヴィオラァァァ!」


 遠ざかっていくエリオット様の叫び声。

 リリア様の咽び泣く声。

 それらが峠の風にかき消されていくのを、私はただ静かに見送った。


「……終わりましたわね、カイル様」


「ああ。計算通りの結末だったか?」


「ええ。ですが、一つだけ計算ミスがありましたわ」


 私がカイル様を見上げると、彼は怪訝そうに眉を寄せた。


「ミス? どこだ」


「私がこれほどまでに、カイル様の隣にいることに安らぎを感じるようになるなんて……当初の私の計算機には、そんな甘い解は存在しませんでしたもの」


 私が微笑むと、カイル様は不器用なほど優しく、私をその胸に抱きしめた。

 復讐でも、清算でもない。

 私たちの、新しい物語の始まりだった。


 王国の敗残兵たちが去り、シュタルク峠に静寂が戻った。

 アイゼン城へと戻る馬車の中、私は窓の外を流れる雪景色を眺めていた。かつて絶望と解放感の狭間で越えたこの峠が、今は私の帰るべき「家」への通り道に変わっている。


「……何を考えている」


 隣に座るカイル様が、私の手を取った。その大きな手のひらからは、相変わらず力強く温かな魔力が伝わってくる。


「いいえ。……ただ、これからのことを計算していましたの。王国の混乱は当分続くでしょうが、我が領の新しい魔導炉が安定すれば、交易の主導権はこちらが握ることになりますわ。来期の予算編成は、さらに楽しいことになりそうです」


 私が職業病のような返答を返すと、カイル様は苦笑して私の手首を引き寄せた。


「仕事の話はもういい。ヴィオラ、お前は以前、俺との関係を『契約のバディ』と言ったな」


「ええ。互いの利害が一致した、最高の協力関係ですわ」


「……だが、俺の方はもう、契約などという言葉で自分を縛り付けておくのは限界だ」


 城に到着し、馬車を降りたカイル様は、そのまま私を抱き上げて降ろした。

 彼は私の手を離さず、城のテラス——私たちが共に作り上げた魔導炉の光が最も美しく届く場所へと連れて行った。


「ヴィオラ。俺の隣で、ただの事務官として老いていくことは許さん。俺の全人生、全財産、そしてこのアドラー領のすべてを賭けて、お前を乞い願いたい」


 カイル様が、私の左手にある魔石の指輪にそっと触れた。


「これは『守護』の指輪だが、今この瞬間から意味を書き換える。……お前を、俺の妻として、生涯愛し抜くという『誓約』だ。効率も、計算も抜きにして……俺という男の隣にいてくれないか」


 カイル様の瞳には、かつて見たことのないほどの色気が宿っていた。

 私は、手元にある計算機をパチンと閉じた。

 

 数値を、論理を、最適解を。

 私はそれを武器に戦ってきたけれど、今の私の胸の高鳴りは、どんな数式を用いても定義できない。


「……カイル様。私、無能な人は嫌いですの。でも、自分の感情に振り回されて暴走するほど情熱的な方も、計算外すぎて……少しだけ、悪くないと思ってしまいましたわ」


 私はカイル様の首に手を回し、その耳元で、私にしか出せない最高に幸せな答えを囁いた。


「私の未来の計算結果は、一点の狂いもなく『あなたと共に歩む』と出ていますわ。……いいえ、計算するまでもありません。最初から、答えは決まっていましたの」


 カイル様が感極まったように私を抱きしめ、深い口づけを落とした。

 背後で、完成した魔導炉が祝福するように青い光を放つ。


 真実の愛。

 かつて愚かな男が口にしたその言葉を、私はずっと軽蔑していた。

 けれど、目の前の男と築き上げたこの「絆」こそが、私にとっての唯一の正解。


 鉄の女が導き出した、一生かけて解き明かす究極の難問。

 その隣には、不器用で、誰よりも過保護な私の騎士が常に寄り添っている。


 私たちの計算に、もはや「別れ」という変数は存在しない。


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