No,9
エリオット殿下が率いた王国軍が瓦解し、彼らが無様に本国へ引き立てられてから一週間。
国境のシュタルク峠には、以前とは別の意味で「人だかり」ができていた。
「お願いです、通してください! 王都にはもう食べ物も、明かりを灯す魔石もないんです!」
「ヴィオラ様がいらっしゃるのでしょう? あの慈悲深い聖女様に、どうかお取次ぎを!」
城壁の上から見下ろすと、そこには数百人、いや数千人に膨れ上がろうとする王国の民たちがいた。
彼らは、自分たちを見捨てて逃げた王族ではなく、かつて国を支え、今は隣国で奇跡を起こしている私に、最後の望みを託してやってきたのだ。
「……慈悲深い聖女、か。随分と勝手な呼び名だな、ヴィオラ」
隣に立つカイル様が、不機嫌そうに喉を鳴らした。
彼の腕は、当然のように私の腰をしっかりと抱き寄せ、周囲の騎士たちに「触れるな」と無言の圧力をかけている。
「ええ。数ヶ月前まで、私を『可愛げのない鉄の女』と呼んでいた方々とは思えませんわ」
私は手元の計算機を一度だけカチリと回した。
「カイル様。現在、我が領の食糧備蓄は、新設した魔導温室のおかげで例年の二百四十パーセントに達しています。対して、あそこにいる民の数は三千四百。……彼らを受け入れ、開拓民として再配置した場合、三期後の税収は……約一・五倍に跳ね上がりますわ」
「……お前は、あいつらを助けたいのか? それとも、ただの『資源』として計算しているだけか?」
カイル様が、覗き込むように私の顔を見た。
私は計算機を閉じ、彼を見上げて少しだけ不敵に微笑む。
「両方です。……カイル様。私は、自分を捨てた国に慈悲をかけるほどお人好しではありません。ですが、優秀な労働力と将来の納税者を、みすみす飢え死にさせるほど無能でもありませんわ」
「ふん。相変わらず、可愛げのない正論だ。……だが、俺はお前のそういうところが一番気に入っている」
カイル様は、階下の騎士たちに号令をかけた。
「門を開けろ! これより、アドラー領の法に従う者にのみ、入国を許可する。……ただし、一人ずつヴィオラの面接を受け、その適性に従って配置を決める。不平を言う奴は、即座に追い返せ!」
どよめきと、歓喜の泣き声が峠に響き渡る。
私は城門のすぐ側に特設の「受付」を設置させた。
これから始まるのは、慈善事業ではない。
王国の資産(人材)を合法的に、そして最も効率的に奪い取り、アドラー領を大陸一の強国へと押し上げるための「大掃除」だ。
「……ヴィオラ。無理をするなよ。三時間ごとに俺が魔力供給(休憩)を挟むからな」
「カイル様、それは多すぎますわ。せめて五時間に——」
「三時間だ。これは領主の命令だ。……さあ、始めろ」
カイル様は私のデスクのすぐ隣に椅子を持ってきて、威圧感たっぷりに座り込んだ。
——さあ、エリオット様。
あなたが「愛」にうつつを抜かしている間に、私があなたの国の「中身」をすべて、綺麗に計算して、こちらへ移し替えて差し上げますわ。
私は真っ白な新しい帳簿を開き、最初の一歩を記した。
「次の方、どうぞ。……あなたは王都でパン職人を? では北区の第三調理場へ。あそこは現在、魔導オーブンの熱出力が余剰気味ですから、あなたの技術があれば生産効率を三割上げられますわ」
国境の特設受付所。私の前には、亡命を希望する民たちの長い列が続いていた。
私は一人につき、わずか数秒の問診でその者の経歴、体力、魔力保有量を推計し、最適な配置先を決定していく。計算機の歯車は、熱を帯びるほどの速度で回転し続けていた。
「すごい……あんな一瞬で、適正を見抜くなんて」
「さすがはヴィオラ様だ。王都にいた頃よりも、ずっと輝いて見える……」
並んでいる民たちから、畏怖と憧れの混じった溜息が漏れる。
だが、その声が聞こえるたびに、私の真後ろから放たれる魔圧が一段と重くなるのを感じていた。
「……ヴィオラ。もう三時間だ」
低い、地を這うような声。
カイル様が、私の椅子の背もたれに手をかけ、ぐいと自分の方へ引き寄せた。
「カイル様、まだ百人ほど残っておりますわ。今ここで手を止めるのは非効率です」
「知るか。俺の計算では、お前の集中力は限界だ。それに、さっきからあそこの若い男どもがお前を熱心に見つめすぎている。……目障りだ」
カイル様は私の返事も待たず、ペンを握る私の手を強引に取った。
並んでいた民たちが、一斉に息を呑む。
無理もない。戦場では一騎当千の『鉄血伯』が、一人の女性事務官(にしか見えない私)に対して、大型犬のように執着を見せているのだから。
「カイル様、皆様が見ていらっしゃいます。恥ずかしいですわ」
「俺の領地で、俺が自分の女を労って何が悪い。……おい、休憩だ! これ以上ヴィオラを疲れさせる奴は、不審者として極寒の峠に叩き出すぞ!」
カイル様の怒号に近い宣言に、列を作っていた人々が慌てて頭を下げた。
彼は私を軽々と横抱きにすると、受付の奥にある休憩用の天幕へと連れ込んでいく。
「……あ。カイル様、計算機を落としましたわ!」
「後で拾ってやる。今は俺に集中しろ」
天幕に入った瞬間、カイル様は私をソファに降ろし、覆いかぶさるようにして私の首筋に顔を埋めた。
「……お前は、数字を見ている時が一番楽しそうだな。たまには俺を見て、俺のことだけを計算しろ」
「カイル様のことは、常に計算に入っておりますわ。……誤差が出るほど、私に過保護で独占欲が強いという、困った変数として」
私が苦笑しながら彼の髪を撫でると、カイル様は満足げに、けれど少しだけ切なげに鼻を鳴らした。
王国の民を受け入れることは、国力の増強にはなる。
けれど、カイル様にとっては「自分だけのヴィオラ」の時間が削られる、耐えがたい損失であるらしい。
「……供給だ。動くな」
額を合わせ、流れ込んでくるカイル様の熱い魔力。
効率を何よりも重んじる私だけれど、この「非合理的」で「甘すぎる」時間は、どの数式にも当てはまらない特別な充足感を与えてくれるのだった。
グランツ王国の王都ルミナス。
かつて栄華を極めたその街は、今や「死の都」の様相を呈していた。
王宮の執務室。エリオットは、窓から見える消えかけた街の灯りを、虚ろな目で見つめていた。
魔石の配給は止まり、王宮の誇りだった豪華な噴水は干上がり、ひび割れている。
「……なぜだ。なぜ、誰一人として私の指示通りに動かない」
エリオットの足元には、数枚の紙切れが散らばっていた。
それは、ヴィオラを連れ戻すことに失敗して帰還した騎士たちが、次々と提出した「退役願」だ。彼らはアドラー領で目にした、豊かで、活気があり、そしてヴィオラが幸せそうに微笑んでいた光景を忘れられなかったのだ。
「殿下、もう限界です……! 財務局に残っているのは、紙屑同然のレアルだけ。文官たちも、半分以上が夜逃げしました」
唯一残った側近の声も、もはや震えている。
そこへ、ボロボロになったドレスを引きずりながら、リリアが駆け込んできた。
「エリオット様! ねえ、どういうこと!? 今日のご飯、ジャガイモだけなんて、私、耐えられないわ! もっと美味しいお肉と、素敵な宝石を用意してって言ったじゃない!」
「黙れリリア! お前がヴィオラの残した予算を勝手に使い込まなければ、ここまで酷いことにはならなかったんだ!」
「私のせいにするの!? 『愛があれば大丈夫』って言ったのはあなたよ! ……ああ、もう嫌。ヴィオラ様のいた頃は、こんなに寒くなかったし、お腹も空かなかったのに……っ」
リリアのその言葉が、エリオットの胸を鋭く刺した。
ヴィオラがいれば。
彼女のあの、可愛げのない「計算」さえあれば、冬の寒さも、魔石の不足も、民の怒りも、すべて彼女が「最適解」を導き出して解決してくれたはずなのだ。
(私は……なんてことをしてしまったんだ)
エリオットの脳裏に、かつて自分が吐き捨てた言葉が蘇る。
——『君は完璧すぎて可愛げがない』。
あの時、彼女がその完璧な手腕で、どれほどの地獄を自分から遠ざけてくれていたのか。
それを「当たり前」だと思い込み、挙句の果てに泥を塗って追い出した己の愚かさ。
「……ヴィオラ。ああ、ヴィオラ……。すまなかった、私が悪かった。だから……だから戻ってきてくれ……っ!」
エリオットは、豪華な黒檀のデスクに突っ伏し、子供のように号泣した。
だが、そのデスクの引き出しには、ヴィオラが「譲った」未払いの債務請求書が、いまだにぎっしりと詰まっている。
愛という言葉で全てを誤魔化した報いは、これから一生をかけて、彼らの肩に重くのしかかっていく。
一方その頃、アドラー領のヴィオラは、新しく届いた大量の「王国の亡命希望リスト」を眺め、鼻歌を歌いながら計算機を叩いていた。
彼女の計算式に、もはやエリオットという「定数」は存在しない。




