No,10
「……計算終了ですわ。カイル様、準備は整いました」
アイゼン城の最上階、テラス。
私は手元の計算機を閉じ、隣に立つカイル様に深く頷いた。
王国の亡命者を受け入れ始めてから数週間。アドラー領の人口は当初の倍以上に膨れ上がり、ヴィオラが構築した新しい産業体系は、旧態依然とした王国の経済を完全に上回った。
もはやここは「一貴族の領地」という規模を超え、自立した国家としての機能を完璧に備えている。
「行くか、ヴィオラ。……いや、我が帝国の『知恵の女神』よ」
カイル様が、私の手を取ってバルコニーの最前面へと進む。
広場には、何万という人々が集まっていた。かつて絶望の中で王国を捨てた民たち。そして、彼らを温かく、時に厳しく導いた辺境の民たち。
カイル様が、自らの魔力を込めた声で、大陸全土に響き渡る宣言を放った。
「グランツ王国の民よ、そして大陸の諸君! 本日をもって、アドラー領は王国との一切の臣従関係を破棄する! 我々は本日より、魔導の英知と鉄血の絆によって立つ、『アドラー魔導帝国』の建国を宣言する!」
地響きのような歓声が上がった。
カイル様は私の腰を抱き寄せ、さらに声を張り上げる。
「初代皇帝となる俺の傍らには、常にこの女が立つ! 帝国首席宰相、ヴィオラ・フォン・アドラー! 彼女の知略こそが帝国の法であり、彼女を傷つける者は、この俺が、そして帝国の全軍が、地の果てまで追い詰め殲滅することをここに誓う!」
それは建国宣言であると同時に、世界に対する最大級の「惚気」でもあった。
私は顔が赤くなるのを必死に堪え、宰相としての毅然とした態度を取り繕う。
「……カイル様、宣言に私情が混ざりすぎておりますわ。効率的な建国プロトコルから三十二パーセントも逸脱しています」
「構わん。お前が俺の隣にいることを世界に知らしめることこそが、帝国の最大の抑止力になるからな」
カイル様は不敵に笑い、私の左手を高く掲げた。
あの青い魔石の指輪が、午後の太陽を反射して、王国の沈みゆく夕日を嘲笑うかのように輝く。
王国では今頃、エリオット様たちが最後の明かりすら失い、暗闇の中で凍えていることだろう。
彼らが「真実の愛」とやらで失ったすべての輝きが、今、私の手元に集まっている。
「……さあ、皇帝陛下。新しい国の予算編成、さっそく取り掛かりましょうか。私の計算によれば、三百年は安泰な国を築けますわよ?」
「ああ。お前との永遠を計算するついでに、付き合ってやろう」
新しい国の始まり。
それは、数字を愛し、不器用な男に愛された一人の女性が、世界を再定義する物語の新たな一歩だった。
「……北方の魔導軌道の接続確認、よし。南方の未開地開拓に伴う食糧配分、よし。帝国の新通貨『新レアル』の流通シミュレーション……完了ですわ」
建国宣言の熱狂から一夜明けた執務室。
私は計算機の歯車を回し、次々と「帝国」としての初仕事を片付けていた。
グランツ王国時代、エリオット殿下の遊び金の補填に頭を悩ませていた頃に比べれば、純粋に国を豊かにするための計算は、何物にも代えがたい娯楽だ。
「ヴィオラ、まだやっているのか。今は祝宴の真っ最中だぞ」
扉を開けて現れたのは、皇帝の正装に身を包んだカイル様だった。
彼は不機嫌そうに眉を寄せ、私のデスクの上に置かれた分厚い帳簿を、大きな手でひょいと取り上げた。
「カイル様、返してくださいませ。初日の初動ミスは、十年後の財政に三割の誤差を生みますのよ」
「その誤差は俺の武力と資産で埋めてやる。お前は今日、一日中立ちっぱなしで建国儀式をこなしただろう。……これ以上、数字に魔力を吸い取られるのは見ていられん」
カイル様は帳簿を遠くのソファへ投げ捨てると、私の椅子の後ろに回り込み、そのまま私を椅子ごと自分の方へ回転させた。
「あ……カイル、様」
「供給が必要だな。お前の瞳の光が、少しだけ計算機と同じ色になっている。……俺という現実に戻してやらねば」
カイル様は私の膝の間に片膝を突き、逃げ場を塞ぐようにして私の両手を握った。
そして、私の指先に嵌められた青魔石の指輪に、愛おしそうに口づけを落とす。
「……おめでとう、ヴィオラ。今日からお前は、名実ともにこの大陸で最も尊い女性だ」
「それは……あなたが、私をそうしてくださったからですわ」
「いいえ。俺がしたのは、お前を縛る鎖を断ち切っただけだ。……ヴィオラ、今夜だけは仕事の計算はやめろ。代わりに、俺との『これから』を計算しろ。……どれだけ長く、深く、お前を愛し抜くつもりか。その解が出るまで、寝かさないぞ」
カイル様の熱い眼差しが、私の肌を焼くように射抜く。
私は少しだけ戸惑いながらも、彼の首に腕を回した。
「……その計算、変数が多すぎて、一生かかっても解が出そうにありませんわ」
「それでいい。解けない難問を二人で解き続けるのが、夫婦というものだろう?」
カイル様は不敵に微笑むと、祝杯の代わりに甘い口づけを私に贈った。
窓の外では、新帝国の建国を祝う花火が、次々と夜空を彩っている。
エリオット殿下たちが暗闇の中で震えている間に、私たちはこの輝かしい世界の頂点で、最高の愛を育んでいく。
「……大好きですわ、カイル様」
「……ああ、俺もだ。計算外なほどにな」
新帝国の夜は、まだ始まったばかりだった。
「……ヴィオラ。いい加減にしろと言っているだろう」
深夜の皇帝執務室。冷ややかな声とともに、私の視界が大きな手に遮られた。
書きかけの「新帝国関税法案」の上に、カイル様の逞しい腕が置かれる。
「カイル様、あと一項目だけ。これを終わらせないと、明朝の商ギルドとの交渉において、帝国の利益率が零・八パーセント低下いたしますわ」
私が計算機を叩きながら食い下がると、カイル様は「チッ」と短く舌打ちをした。
次の瞬間、私の体は椅子ごと強引に持ち上げられ、気付けば彼の膝の上に横向きに座らされていた。
「あ……カイル様、またこの体勢ですか? 効率が……」
「効率など知るか。商ギルドの利益よりも、俺の精神衛生を優先しろ。お前は今日、一度でも俺の目を見たか? 昼食も、夕食も、ずっと帳簿と睨めっこをしていたな」
カイル様の腕が、私の腰をがっしりと拘束する。
皇帝の正装を崩した彼の胸元から、高密度な魔力の熱が直接伝わってきて、頭の芯がぼうっとし始める。
「それは……建国直後の今が一番の踏ん張りどころだからで……」
「嘘をつけ。お前はただ、数字を整理するのが楽しくてたまらんだけだろう。……ヴィオラ、俺は嫉妬している。その無機質な真鍮の計算機に、お前の視線を独占されていることにだ」
カイル様は私の耳たぶを甘噛みし、そのまま首筋に熱い唇を這わせた。
普段、戦場や政務で見せる冷徹な『鉄血皇帝』の姿はどこにもない。そこにあるのは、ただ一人の女性を独占したくてたまらない、飢えた獣のような情熱だった。
「お、おやめください。誰かに見られたら……」
「誰も来ん。扉には俺の魔力で『絶対封鎖』の結界を張った。……今夜のお前を計算できるのは、俺だけだ」
カイル様の指先が、私のドレスの編み上げをゆっくりと解き始める。
魔力供給の名目で始まった接触は、次第にそれ以上の熱を帯び、執務室の空気を甘く重く変えていった。
「……カイル様。この状況、私の計算機では『予測不能』と出ておりますわ」
「そうか。なら、計算を放棄して俺に溺れろ。……お前の賢い頭を、俺への愛だけでいっぱいにしてやる」
カイル様は不敵に笑うと、私の言葉を塞ぐように、深く、独占欲を剥き出しにした口づけを落とした。
帝国を動かす冷徹な宰相としての私も。
一人の男に翻弄される、か弱い女性としての私も。
そのすべてを飲み込むように、カイル様の愛はどこまでも深く、甘く、私を縛り付けていくのだった。




