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12/16

No,11

「……くっ、ヴィオラ。少し、気分が悪い」


 午後の回廊を歩いていた時、カイル様が不自然に足を止め、壁に手をついた。

 私は驚いて、手に持っていた予算案の束を落としそうになりながら駆け寄る。


「カイル様!? 顔色は悪くありませんが……魔力の波形が乱れているのですか?」


「ああ。建国祭の結界維持に魔力を使いすぎたらしい。……悪いが、今すぐ『供給』が必要だ」


 カイル様は苦しげに眉を寄せ、私に寄りかかるようにして体重を預けてきた。

 私は焦って、彼の体温を確認するために胸元に手を当てる。


(おかしいわ。彼の魔力貯蔵量は大陸一のはず。計算上、結界の維持程度で底を突くはずがないのだけれど……)


 不審に思いつつも、もしものことがあっては大変だ。

 私はカイル様の腕を肩に回し、必死に彼を支えて近くの休憩室へと運び込んだ。


「さあ、カイル様。早く椅子に。魔石を持ってまいりますわ!」


「いや、魔石では足りん。……お前が直接、流してくれ」


 カイル様はソファに座るやいなや、私の腰を抱き寄せて自分の膝の上に乗せた。

 いつもの「特等席」だが、今日の彼はいつも以上に力が強く、私の首筋に顔を埋めて深く呼吸を繰り返している。


「……? カイル様、魔力を流しますから、そんなに強く抱きしめないで……」


 私が魔力を練り、彼の肌に触れようとした、その時。

 至近距離で目が合ったカイル様の瞳に、微かな「愉悦」の色が混じっているのを私は見逃さなかった。

 計算機を叩くまでもない。脈拍、呼吸、魔力の残量——すべてが「健康そのもの」だ。


「……カイル様。あなた、魔力不足というのは嘘ですわね?」


 私がジト目で問い詰めると、カイル様は隠す様子もなく、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。


「ほう。やはりお前には通用しなかったか」


「当たり前ですわ! 私の計算を舐めないでいただけます? ……さあ、放してください。仕事が山積みなのです」


「嫌だ。お前が一日中、執務室に籠もって新法案を練るというからな。こうして強制的に連れ出すしか、俺の不足分を補う方法がなかったんだ」


「不足分……?」


「ああ。お前への『愛撫不足』だ」


 カイル様は悪びれることなく言い放つと、私の抵抗を封じるように深く唇を重ねた。

 彼の魔力は不足するどころか、私を飲み込もうとするほど猛々しく、熱く脈打っている。


「……狡いですわ、カイル様。計算外の行動ばかりなさって」


「俺とお前の時間は、効率で測るものではないと言っただろう」


 結局、その日の午後の予定はすべて白紙キャンセルになった。

 皇帝陛下の「可愛い嘘」に、宰相である私がまんまと嵌められた事実は、帝国最高機密として私の心の中にだけ留めておくことにした。


「……驚きましたわ。これが、かつて私が血を吐く思いで修得した王妃教育の『残骸』ですのね」


 帝立学院の特別講義室。私は、王国から亡命してきた教育官たちが持ち込んだ旧態依然としたカリキュラムを眺め、呆れ果てた溜息をついた。

 そこには「淑女の歩き方」や「優雅な刺繍」といった、実務からかけ離れた項目が並んでいる。


「ヴィオラ様、これは伝統でして……。これこそが、高貴な女性のあるべき姿だと……」


「いいえ。帝国の女性に必要なのは、優雅な指先ではなく、領地を回すための会計学と、魔導回路を理解する論理性ですわ。……これらすべて、私の『再計算』に基づいて書き換えさせていただきます」


 私は手に持っていた羽ペンを鮮やかに回し、羊皮紙の上に全く新しい教育課程を書き殴った。

 かつて私を「可愛げがない」と否定した教育を、今度は私が「効率的で最強の武器」へと昇華させる。これこそが、私にできる最高の復讐(反撃)だった。


 その時、講義室の重い扉が開き、不機嫌そうな皇帝陛下が姿を現した。


「ヴィオラ。いつまでこんな埃っぽい場所にいる。休憩の時間を三十二分も過ぎているぞ」


「カイル様、今いいところなんですの。王国時代の無駄な教育を、すべて実用的な知略に組み替えている最中でして……」


「……教育だと?」


 カイル様は私の背後から回り込み、私が書いた新しいカリキュラムを覗き込んだ。


「『複式簿記の基礎』、『戦時における魔石配分法』、『他国交渉時の心理分析』……。おい、ヴィオラ。これでは王妃ではなく、俺のような軍人か、お前のような怪物(宰相)を育てるためのものだろう」


「あら、褒め言葉として受け取っておきますわ。……それで、カイル様。何か御用でしょうか?」


 私が振り返ると、カイル様は私の手から羽ペンを取り上げ、代わりに私の指を絡め取った。


「用ならある。お前のその『教育』、俺にも必要だ」


「カイル様に教育? 何を教えるというのです」


「……愛する女を、仕事から引き剥がして自分に集中させるための方法だ。お前のカリキュラムには載っていないようだからな」


 カイル様は教育官たちが立ち尽くす前で、堂々と私の腰を引き寄せ、耳元で熱い息を吐きかけた。


「ヴィオラ。今日はもうおしまいだ。続きは、俺の腕の中で、お前のその賢い頭が真っ白になるまで教えてやる」


「カ、カイル様! 皆様が見て……っ」


「皇帝の命令に異議を唱える教育は、まだ教えていないはずだが?」


 カイル様は不敵に笑うと、私を軽々と肩に担ぎ上げた。

 かつての「王妃教育」が教えてくれなかった、愛される喜び。

 私は赤面しながらも、彼の背中に身を預け、手元の計算機に「本日の業務終了(プライベート優先)」のフラグを立てるしかなかった。


 帝国の宝物庫。そこには、建国を祝して各地から献上された豪華な品々が並んでいた。

 私はその中から、王国時代の「真実の愛(笑)」の象徴だった、あのエリオット殿下から贈られた(実際は私の実家が支払った)ネックレスに似た意匠の宝飾品を手に取った。


「……計算すればするほど、無意味な装飾ですわね。魔力の伝導率も悪く、ただ重いだけ。これが高価な贈り物だとされていたなんて、当時の私の感性も鈍っていたのかしら」


 私が独り言を漏らすと、背後から音もなく近づいてきたカイル様が、私の手からその宝石を奪い取った。


「そんな屑に触れるな。お前の肌が汚れる」


 カイル様は躊躇なく、数百万レアルはするであろうその宝石を近くの回収箱へ投げ捨てた。彼は不機嫌そうに鼻を鳴らし、代わりに懐から一つの小さな箱を取り出した。


「ヴィオラ。宝石の価値は、希少性や見た目の美しさで決まるのではない。……そこに、どれだけの『意思』が込められているかだ」


 彼が差し出したのは、無骨なまでに太いチェーンに通された、透明度の高い純粋な魔石のペンダントだった。


「これは……?」


「俺の心臓から直接抽出した魔力を、極限まで圧縮して結晶化させたものだ。……お前が計算で行き詰まった時、あるいは俺が側にいない時、これに触れろ。俺の魔力が、お前の思考を支え、身を守る楯になる」


 私はそのペンダントを手に取り、驚きで目を見開いた。

 見た目はただの水晶のようだが、内包されている魔力の密度は異常だ。これ一つで、一国の防衛結界を数日維持できるほどの熱量を感じる。

 

 カイル様は、私の首元にそのペンダントを自らかけてくれた。

 ひんやりとした石が肌に触れた瞬間、ドクン、と彼の鼓動のような振動が伝わってきた。


「カイル様……これは、高価すぎますわ。金額に換算すれば、王国の国家予算を優に超えて——」


「換算するなと言っただろう。……これは俺の分身だ。お前に、いつでも俺を感じていてほしいという、醜い独占欲の塊だよ」


 カイル様は私の背後に回り込み、ペンダントを握る私の手の上から、自分の大きな手を重ねた。


「あの馬鹿王子がお前に贈ったのは、お前を『着飾るための道具』だった。だが、俺が贈るのは、お前を『生かすための力』だ」


「……ええ。存じておりますわ。カイル様の愛は、いつだって重くて、そして……言葉にできないほど、温かいですもの」


 私は胸元の魔石を愛おしそうに撫でた。

 エリオット殿下が誇った偽物の愛(宝石)は、今や私の計算機の隅にすら残っていない。

 

 鉄血の皇帝が贈った、剥き出しの愛。

 その確かな重みを感じながら、私はカイル様の腕の中で、自分がいかに贅沢な「計算外」を手に入れたかを噛みしめていた。


 アドラー帝国の建国から三ヶ月。

 本日、私はただの首席宰相から、皇帝カイル・ヴァン・アドラーの正妃――帝国の王妃として、正式に戴冠する。


 鏡の中に映る私は、かつて王国の卒業パーティーで身に纏っていた、あのお仕着せの「完璧な淑女」とは別人だった。

 カイル様が特注した、魔導銀の刺繍が施された真紅のドレス。胸元には、彼の心臓を象ったあの魔石のペンダントが強く輝いている。


「……計算、完了。今日という日の成功率は、百パーセントですわ」


 私が自分自身に言い聞かせるように呟くと、背後の扉が開いた。

 皇帝の礼装に身を包んだカイル様が、誇らしげな、そしてどこか独占欲を滲ませた瞳で私を見つめていた。


「準備はいいか、ヴィオラ。……いや、俺の妃よ」


「ええ、陛下。……ですが、王妃になっても私の仕事量は減らしませんわよ? 帝国の次期財政計画も、私の頭の中にすでに組み上がっておりますもの」


「ふふ、お前らしい。……だが、今日くらいは帝国よりも、俺のことを一番に考えろ」


 カイル様は私の手を取り、バルコニーへと続く大階段を歩み出した。

 広場を埋め尽くす何十万という民たちが、私たちの姿を見て地鳴りのような歓声を上げる。かつて「鉄の女」と蔑まれた私は、今、この国を導く「鉄血の聖妃」として、熱狂的に受け入れられていた。


 カイル様は私の腰を抱き寄せ、民の前で私の右手を高く掲げた。


「国民よ! 見よ、我が隣に立つのが、帝国の知恵であり、俺の命よりも尊き存在、ヴィオラ・ヴァン・アドラーだ! 彼女の計算に従い、俺の剣が道を切り拓く。これこそが、アドラー帝国の揺るぎなき絶対の理である!」


 降り注ぐ祝福の拍手と、魔導花火の轟音。

 カイル様は私の耳元で、甘く、低い声で囁いた。


「ヴィオラ。これで世界はお前のものだ。……そして、お前は俺のものだ。異論はないな?」


「……ええ。私の計算式においても、これ以上の最適解は導き出せませんわ。一生をかけて、あなたの隣で狂いなく愛を刻み続けましょう」


 私はカイル様を見上げ、最高に幸せな、そして最高に不敵な微笑みを向けた。

 かつて「真実の愛」に裏切られた令嬢は、今、自らの知略と、最強の夫の愛によって、大陸の頂点へと上り詰めた。


 ——さようなら、かつての私。

 これからの私の人生は、愛という名の無限の幸福を計算し続ける、輝かしい日々になるわ。


 私たちは民衆の歓呼の中、深く、誓いの口づけを交わした。

 『鉄血王妃』の伝説は、ここから永遠へと続いていく。


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