No,12
グランツ王国の王都ルミナス。かつて「大陸の宝石」と謳われたその街の、日の当たらない裏路地に、一軒の煤けた廃屋があった。
「……おい、リリア。今日のスープ、またこれだけか? ジャガイモの欠片すら入っていないじゃないか」
かつて王太子として贅の限りを尽くしたエリオットは、今や汚れの目立つ麻の服を纏い、ガタついた木の椅子に腰掛けていた。
彼の前にあるのは、色の薄いお湯のようなスープが注がれた、欠けた皿が一枚だけだ。
「仕方ないじゃない! 私が今日一日、内職でどれだけ針を刺したと思っているの? それなのに、あなたの稼ぎはたったの三レアル! これじゃパン一つ買うのがやっとよ!」
対面に座るリリアは、かつての可憐な面影を失い、髪はパサつき、肌は荒れ果てていた。
彼女が掲げた指先は、慣れない労働のせいで絆創膏だらけだ。
「私のせいにするな! 私が外へ出れば、民たちから石を投げられるんだぞ! 『国を滅ぼした無能王子』だと……! 誰があんな奴らのために働いてやるものか!」
「そんなプライド、お腹の足しにもならないわよ! ……ああ、嫌。どうしてこんなことになっちゃったの……。ねえ、エリオット様。私たちの『真実の愛』は、世界で一番尊いんじゃなかったの?」
リリアのその問いに、エリオットは答えられなかった。
愛があれば、どんな苦難も乗り越えられる。そう信じてヴィオラを捨てた。
けれど、現実は無慈悲だった。
お腹が空けば愛を語る余裕はなくなり、寒さに凍えれば寄り添う相手の体温すら疎ましくなる。
ヴィオラが「譲った」あの膨大な負債。
王家を廃された彼らには、返済の義務こそ免除されたが、代わりに「一切の特権の剥奪」と「資産の没収」が課せられた。
今、二人の間にあるのは、愛ではなく、互いに対する激しい憎悪と、責任の擦り付け合いだけだ。
「……ヴィオラ。ヴィオラがいれば、こんなことにはならなかったのに」
エリオットが力なく呟く。
彼女がいた頃は、何も考えずとも、最高級の料理が並び、暖かい部屋が用意され、世界は美しく回っていた。
自分を支えていたのは愛ではなく、ヴィオラが構築した完璧な「数字」の恩恵だったのだと、失ってから気づいてももう遅い。
窓の外、遠く北の方角には、新帝国の空を彩る魔導花火の光が微かに見えた。
自分たちを捨てて幸せを掴んだ、かつての婚約者が治める国。
その輝きは、暗闇に沈む二人にとって、どんな毒よりも深く心を蝕んでいった。
アドラー帝国の宰相執務室。私は、王国側の協力者から届いた最新の「旧王族動静レポート」に目を通していた。
かつて私の心をささくれ立たせた男の名が、そこには無機質な活字で記されている。
「……ふむ。エリオット氏の現在の月収、平均して六十レアル。対する支出は八十レアル。累積債務の利息を考慮せずとも、家計はすでに恒常的な赤字状態ですわね」
私は手元の計算機をパチンと弾いた。
「栄養状態の悪化に伴う労働能力の低下率を算出。……リリア氏に関しても、精神的な不安定さによる内職の歩留まり低下が顕著。……結論。両名の市場価値は、現在、帝国の最低賃金労働者の一人分にも満たない『負の値』ですわ」
あまりに無残な計算結果に、私は思わず小さく吹き出した。
そこへ、背後から音もなく近づいてきたカイル様が、私の肩に顎を乗せて書類を覗き込んできた。
「またあいつらの計算か、ヴィオラ。……時間の無駄だと、何度言えばわかる」
カイル様の声には、隠しきれない独占欲と、ほんの少しの呆れが混じっている。
彼は私の腰をぐいと引き寄せ、計算機を握る私の手に自分の手を重ねた。
「復讐心ではありませんわ、カイル様。これは『リスク管理』です。かつて国を破綻させた個体が、再び帝国の平穏を乱す変数になり得ないか、定期的に観測しているだけですわ」
「ほう。……で、その変数の評価は?」
「ただの『ノイズ』です。……彼らが自力で現在の泥沼から這い上がる確率は、零・零〇〇三パーセント。宝くじに三回連続で当たるより低い数値ですわ」
カイル様は私の首筋に鼻先を寄せ、深く吸い込んだ。
「なら、もういいだろう。お前のその明晰な頭脳を、あんなゴミのような数字に一秒でも割くのは、俺に対する最大の非効率だ」
カイル様は私の手から書類を奪い取ると、それを魔力で一瞬にして灰に変えた。
灰がハラハラと床に落ちる。
「ヴィオラ。あいつらは、お前が『幸せ』であること、そのものが最大の罰になる世界に生きている。……だから、お前は俺の隣で、ただ最高の数字(幸福)だけを数えていればいい」
「……カイル様。今の言葉、非常に論理的で納得いたしましたわ」
私は計算機を置き、彼の方を向いて微笑んだ。
かつて私を「可愛くない」と断じた男は、今や私の計算にすら値しない塵となった。
私はカイル様の首に手を回し、彼が最も望む「甘い解」を与えることにした。
「ええ、あなたの言う通りです。……これからの私の計算は、あなたとの永遠のためにだけ使わせていただきますわ」
窓の外では、豊かになった帝国の民たちの笑い声が響いている。
その光景こそが、私が導き出した、何物にも代えがたい「正解」だった。
アドラー帝国と旧王国の国境付近。新しく整備された「平和の街道」を視察するため、私はカイル様と共に漆黒の魔導馬車から降り立った。
周囲は、帝国の恩恵を受けようと集まった人々で活気づいている。
「ヴィオラ様、万歳!」「皇帝陛下、万歳!」
降り注ぐ歓声の中、カイル様は私の腰を引き寄せ、護衛の騎士たちに鋭い視線を配らせていた。
「ヴィオラ、あまり離れるなよ。……ん?」
カイル様の視線が、配給所に並ぶ薄汚れた群衆の一点に止まった。
そこには、配給のパンを受け取ろうと、泥にまみれた手を出している男女の姿があった。
「……あ。ヴィ、ヴィオラ……?」
掠れた声が聞こえた。
ボロ布のような服を纏い、顔を汚れで黒くした男——エリオット様だった。彼は私とカイル様の、眩いばかりの正装と、溢れ出す魔力を目の当たりにして、持っていた空の袋を落とした。
「……お久しぶりですわね。エリオット様」
私は歩みを止めることなく、事務的な微笑を向けた。
カイル様の腕の中で、私は彼を「かつての婚約者」ではなく、視察先で見かけた「一人の困窮者」として、ただ淡々と見下ろした。
「ヴィオラ……助けてくれ! 私は君の婚約者だっただろう!? こんな生活、もう耐えられないんだ! 君が……君がカイルに頼めば、私を城へ戻せるはずだ!」
エリオット様が縋り付こうと一歩踏み出した瞬間、カイル様が放った凄まじい威圧感が、彼をその場に縫い付けた。
「……動くな、ゴミが。お前がその汚れた口で、誰の名を呼んでいる」
カイル様の冷徹な声に、周囲の空気が一瞬で氷点下まで下がる。
エリオット様は恐怖で腰を抜かし、泥の中に無様に座り込んだ。その後ろで、同じようにボロボロのリリア様が、私の美しさに嫉妬と絶望が混ざったような悲鳴を上げて顔を覆っている。
「エリオット様。……私の計算によれば、あなたはまだ、自分の足で立ち、自分の手でパンを貰う力があるはずですわ。それ以上の『贅沢』を望むのは、現在のあなたの市場価値からすれば、あまりに非論理的です」
「な、非論理的だと……!? 私は王太子だったんだぞ!」
「『だった』。……過去形は、私の計算機には必要ありませんわ。……カイル様、行きましょうか。次の視察先までの時間は、あと四百二十秒しかありません」
私は一度も振り返ることなく、カイル様と共に豪華な馬車へと戻った。
背後でエリオット様が「待ってくれ!」と叫んでいたが、その声は民衆の歓声にかき消され、私の耳には届かなかった。
かつて私を地獄へ突き落とした男は、今や私のドレスの裾に付いた砂粒よりも価値のない存在。
カイル様の腕の温かさを感じながら、私は次の「豊かな未来」のための計算を始めた。




