No,13
「……嘘よ。こんなの、絶対に嘘!」
旧王都の薄暗い路地裏で、リリアは震える手で小さな小瓶を握りしめていた。
それは、闇商人が「一滴で往年の美貌を取り戻せる」と称して売りつけてきた、高価な魔導薬。エリオットが内職で貯めた、数ヶ月分の生活費を盗んで手に入れたものだ。
リリアは、鏡の中に映る自分の荒れた肌と、パサついた髪に耐えられなかった。
視察で見かけたヴィオラの、光り輝くような美しさ。それを「金と魔導具の力だ」と思い込み、自分も同じ土俵に立てると信じて疑わなかった。
「これを飲めば、またエリオット様も私に夢中になるわ。そうすれば、二人で帝国へ乗り込んで……」
リリアは一気に薬を煽った。
しかし、全身を駆け抜けたのは、甘美な変化ではなく、灼熱のような激痛だった。
「あ……あぁぁぁっ!? 熱い、顔が、顔が焼けるようよ!」
悲鳴を上げてのたうち回るリリア。
実はその薬、ヴィオラが帝国の安全保障のために「粗悪な魔導具・薬品の流入」を制限した結果、王国側に残った粗悪な素材で作られた、ただの「劇物」だったのだ。
ヴィオラが法整備を行い、市場から高品質な素材をすべて帝国へ集約させた時点で、王国で手に入る「美」など存在し得ない。リリアが縋ったのは、ヴィオラの知略という壁に弾かれた、ただのゴミだった。
翌朝。
そこには、薬の副作用でさらに肌が黒ずみ、声すら枯れ果てた、無惨な姿のリリアがいた。
「……何だ、その化け物のような顔は!」
戻ってきたエリオットは、彼女を助けるどころか、吐き気を催すような目で蔑んだ。
「お前が……お前が私の金を盗んで、こんな無駄なことに使ったのか! この疫病神め! 出て行け、私の前から消えろ!」
かつて「真実の愛」を誓った男の足蹴。
リリアは声にならない叫びを上げながら、冷たい雨の降る路地へと放り出された。
同時刻、帝国の温かな寝室で。
ヴィオラは、カイル様に髪を梳かれながら、手元の報告書に静かに目を通していた。
「……粗悪薬による事故報告、一、三、六件。……あら、その中に見覚えのある名前がありますわね。自業自得、という言葉の確率は、常に百パーセントですわ」
「ヴィオラ。そんな汚らわしい数字はもう見なくていい」
カイル様は報告書を奪い取ると、ヴィオラの肩を優しく抱き寄せた。
愛だけで生きると決めた女が、愛によって最も残酷に切り捨てられる。
その皮肉な計算結果を最後に、ヴィオラは二度とその名に意識を割くことはなかった。
アドラー帝国の宰相室。私のデスクには、一枚の歴史的な重みを持つ書類が置かれていた。
『旧グランツ王国領・完全併合に関する最終承認書』。
エリオット殿下たちが自滅し、統治能力を完全に失った王国は、民衆の強い要望により、正式に我が帝国の自治領として吸収されることになった。これをもって、地図の上からも「グランツ王国」の名は消滅する。
「……これで、すべての帳尻が合いましたわ」
私は手元の計算機を一度、深呼吸するようにゆっくりと回した。
書類の末尾、かつて私が婚約解消の書類にサインした時と同じ、ベルシュタインの紋章ではなく、今は帝国の宰相としての印章を力強く押し付けた。
この瞬間、エリオット氏は「王太子」という過去の残影すら失い、戸籍上でも「無位無冠の平民」となった。彼がどれほど叫ぼうと、もう二度と「王族」として返り咲く確率は、数学的に完全な零へと収束したのだ。
パタン、と大きな扉が開く音がした。
カイル様が、夜の静寂を纏って入ってくる。
「……終わったか、ヴィオラ」
「ええ、カイル様。……今、私の計算式から、最後の一滴まで『過去』の不純物が取り除かれましたわ」
カイル様は私の背後に立ち、椅子に座る私の肩を優しく、けれど壊れ物を扱うような慎重さで抱き締めた。
「そうか。……あいつらは、一生あそこの泥の中で、失ったものの大きさを数えて生きていくことになる。お前が手を下すまでもなく、時間が彼らをゆっくりと削っていくだろう」
「復讐、ではありませんのよ。……私はただ、私の未来に彼らの存在が必要ないことを、証明し続けただけですわ」
カイル様は私の髪に顔を埋め、深く、独占欲を滲ませた息を吐いた。
「ああ。……お前の未来にいるのは、俺だけだ。俺が、お前の計算のすべてを埋め尽くしてやる。もう、数字の端っこにすら、奴らの影を入れさせん」
カイル様は私を椅子から立ち上がらせ、正面から力強く抱き寄せた。
窓の外には、新しく帝国の直轄地となった旧王都の方角まで、魔導列車が走る青い光の線が伸びている。
エリオット様たちが、暗い部屋で、私がいれば得られたはずの「ありふれた幸福」を夢見て泣いている間に。
私は、私を心から必要とし、愛してくれる男と共に、誰も見たことのない最高の未来を構築していく。
「……愛していますわ、カイル。……この言葉、計算外の熱量が含まれていますけれど、訂正するつもりはありませんわよ?」
「……ああ。その誤差なら、一生かけて俺が受け止めてやる」
私たちは月明かりの下、過去への決別の証として、そして永遠の誓いとして、深く口づけを交わした。




