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No,14

「……おかしいですわ。何度検算しても、私の体内魔力の循環効率が理論値より三・五パーセント低下しています。それに、この倦怠感と特定食材への忌避反応……」


 帝国の宰相室で、私は手元の計算機を激しく叩いていた。

 私の体調管理は完璧なはずだ。睡眠時間、栄養摂取、カイル様からの魔力供給。すべてが最適解を維持しているはずなのに、ここ一週間、私の身体には「不明な変数」が紛れ込んでいる。


「ヴィオラ、顔色が悪いぞ。……やはり無理をさせていたか」


 扉を蹴破らんばかりの勢いで入ってきたカイル様が、私の手から計算機をひったくった。


「カイル様、返してくださいませ。今、この異常数値の正体を突き止めないと……」


「その必要はない。俺が腕利きの宮廷医を呼んでおいた」


 カイル様の後ろから、震えながら入ってきた老医師が、私の手首に触れ、魔導診断を下した。

 数秒後、医師の顔が驚愕と歓喜に染まる。


「お、おめでとうございます、陛下! 宰相閣下! ……新しい命が、宿っておりますわ!」


 静寂が、執務室を支配した。

 私の手から羽ペンが落ち、カイル様の手から没収されたばかりの私の計算機が床に転がった。


「……計算外、ですわ。この時期に受胎する確率は、私の試算では十二パーセント未満のはずだったのに……」


「ヴィオラ……!」


 カイル様が、壊れ物を扱うような手つきで私を椅子ごと抱きしめた。

 彼の大きな体が、心なしか震えている。


「俺の子か……。俺とお前の子が、ここに……」


「カ、カイル様、苦しいですわ。……それに、まだ初期です。仕事の引き継ぎや、産休中の代行者の選定、予算の再編成を——」


「仕事など知るか!!」


 カイル様が叫んだ。その声は、執務室の窓ガラスを震わせるほどの覇道に満ちていた。


「おい、側近を呼べ! 本日より、皇帝は育休に入る! 政務は内閣の合議制に切り替えろ。俺はヴィオラを一歩も歩かせんし、指一本動かせん! 彼女の椅子はすべて、浮遊式の最新型魔導椅子に作り替えろ。床にはすべて最高級の絨毯を三重に敷け!」


「カイル様、落ち着いてください! 皇帝の育休なんて、帝国の経済損失が——」


「うるさい! お前と子供の安全以上に価値のある数字が、この大陸に一つでもあると思っているのか!」


 カイル様は私の反論を、深い、そして独占欲と慈愛に満ちた口づけで塞いだ。

 皇帝が国を放り出して妃を甘やかすという、かつて私が「非効率の極み」と断じた状況が、今まさに私の身に起きようとしている。


「……ヴィオラ。俺の愛の計算は、お前の想像を遥かに超えると教えただろう?」


「……ええ。本当に、あなたの溺愛だけは、私の計算機では一生測れそうにありませんわ」


 私は赤面しながらも、彼の広い胸に顔を埋めた。

 新しい変数が加わった私の人生。

 その計算結果は、どこまでも温かく、幸せな未来へと続いていた。


 カイル様によって「公務の八割削減」を強制的に命じられた私は、執務室ではなく、柔らかな陽光が差し込む後宮のテラスで過ごすことが多くなっていた。

 けれど、ただ大人しく座っているだけでは、私の脳内にある計算回路が錆びついてしまう。


「……ここの術式をもう少し簡略化して。子供の指先でも扱いやすいように、真鍮のレバーは軽量化して……」


 私が膝の上で設計図を広げていると、背後から温かな体温が寄り添ってきた。カイル様だ。彼は当然のように私の腰を抱き寄せ、首筋に顔を埋める。


「ヴィオラ、また何か企んでいるな。それは新型の魔導兵器か? それとも経済制裁のスキームか?」


「失礼な。……これは、この子のための『はじめての計算機』ですわ」


 私が設計図を見せると、カイル様は意外そうに目を細めた。

 そこには、私の愛用するものよりも一回り小さく、角を丸く削り、色とりどりの魔石を埋め込んだ可愛らしい計算機の図面があった。


「計算機だと? 俺の息子なら、大剣の振り方から教えるつもりだったが」


「あら、娘かもしれませんわよ。それに、これからの時代、武力だけで国を治めるのは非効率です。……この子には、世界を数字で捉え、最適解を導き出す知恵を授けたいのです。お父様のように、力任せに問題を解決するのではなく」


「……随分な言い草だな。だが、お前に似た賢い子なら、確かにこの国を盤石に導くだろう」


 カイル様は私の膨らみ始めたお腹に、大きな、けれど驚くほど優しい掌を当てた。


「だが、ヴィオラ。俺は欲張りなんだ。お前のように聡明で、そして俺のように、愛する者を力ずくで守り抜く強さ。その両方を持ってほしい」


「……欲張りな変数を加えないでいただけます? 教育コストが跳ね上がりますわ」


 私が呆れたふりをして計算機をパチンと閉じると、カイル様は私の耳たぶを甘く噛んだ。


「コストならいくらでも払ってやる。……ヴィオラ。俺は今まで、この大陸を統一することこそが俺の到達点だと思っていた。だが、今は違う」


 カイル様の声が、いつになく真剣な響きを帯びる。


「お前と、この子が笑って過ごせる百年後の景色を計算すること。それが、今の俺の、唯一の生き甲斐だ」


 皇帝としてではなく、一人の父として語る彼の言葉に、私の胸の奥がじんわりと熱くなる。

 かつて、エリオット殿下の子供を産む自分を想像した時は、義務と絶望しか感じなかった。けれど今は、まだ見ぬ我が子と、この不器用な愛妻家と共に歩む未来が、楽しみで仕方がない。


「……ええ。私も、その計算には一生付き合わさせていただきますわ」


 私はカイル様の手に自分の手を重ね、未来という名の無限の数式に、幸福という解を書き加えた。


 かつてのグランツ王国、その王都であった街は、今や帝国の『ルミナス自治州』として、かつてない活気に包まれていた。

 今日は帝国の完全併合から一周年を祝う祝祭。私はカイル様と共に、新しく開通した魔導列車の特別車両に揺られ、かつて自分が逃げ出したあの街へと向かっていた。


「……計算通りですわね。旧王都の経済成長率は前年比で三百二十パーセント。魔導炉の恩恵が隅々まで行き渡っています」


 車窓から見える景色は、私が知っている暗く沈んだ王都とは別物だった。

 整備された街道、明るい魔導灯、そして何より、飢えの恐怖から解放された民たちの笑顔。

 

「お前が書き換えた数字が、この街を蘇らせたんだ。……ヴィオラ、気分は悪くないか?」


 カイル様が私の肩を抱き寄せ、心配そうに覗き込んでくる。お腹が大きくなった私を、彼は一秒たりとも放しておきたくないらしい。


「ええ。……ただ、少しだけ不思議な気持ちですわ。あの夜、私が身一つでこの街を捨てた時、未来にこんな景色が待っているなんて、私の計算機でも導き出せませんでしたから」


 列車が駅に到着し、私たちは民衆の歓声に包まれながら、かつての王宮……今は帝国の出張所となっている建物へと足を踏み入れた。

 そこで偶然耳にしたのは、風の噂だった。


 ——エリオットとリリア。

 二人は今、この街の片隅で、帝国の支給する最低限の配給を受けながら、互いの顔を見ることもなく、ただ息をしているだけだという。

 かつての王太子が、今や名前すら忘れられた「一人の貧民」として、この繁栄の影で生きている。


「……会いに行くか? もし望むなら、奴らをここに引き摺り出して、お前の前に跪かせてもいい」


 カイル様が冷徹な声で問いかける。だが、私は静かに首を振った。


「いいえ。……必要ありませんわ。彼らはもう、私の人生という数式の中に存在する『意味』すら失っていますもの。復讐することさえ、時間の無駄(コストの無駄)です」


 かつて私を「完璧すぎて可愛げがない」と断じた場所。

 そこで今、私は世界で最も力ある男に愛され、新しい命を宿し、誰よりも幸せな「完璧な人生」を歩んでいる。

 

 これ以上の「ざまぁ」が、この世にあるかしら。


「カイル様。……私をここから連れ出してくださって、本当にありがとうございます」


「礼を言うのは俺の方だ。……お前がいない世界など、俺には計算する価値もない」


 カイル様は私の額に、深い、深い口づけを落とした。

 王国の終焉。それは私にとって、本当の意味での「過去からの卒業」だった。


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